マイナー・史跡巡り: 北条五代記② ~深大寺城と牟礼砦~ -->

日曜日

北条五代記② ~深大寺城と牟礼砦~

前回北条五代記①では、上杉朝興と北条二代目こと氏綱との江戸城攻防について書きました。
現在「③河越城へ敗走」まで行きました

今回はその続きです。上杉軍、このまま河越城に敗退したままでは、男が廃る。

満を持して江戸城近く、深大寺まで戻ってきます。リベンジの機会をうかがいます。しかし・・・

【※画像や絵を別ウィンドウで表示したい場合は画像本体ではなく、下の文字部分をクリックしてください】

1.深大寺城

さて、江戸城から敗走して、河越城にて体制を立て直そうとする上杉軍。

河越城は現在の川越市ですが、江戸城からは、かなり北西に行った場所であり、関東の覇権を争うにしては随分と撤退した感が否めません。

実際江戸城は放棄したものの、この時期、北条氏はまだ神奈川県(勿論元の所領の静岡東部もありますが)くらいしか支配下には置いていないため、これでは上杉軍は引きすぎです。(右図参照)

そこで浮上してきたのが深大寺の脇に古くからあった深大寺城の活用です。

この城15世紀くらいからあったようですが、特に史書等への記載も無く、築城主も当時この辺りを支配していた狛江(こまえ)氏だったかどうか程度の城でした。

深大寺城の堀だった水生植物園
そこを江戸城を撤退した上杉氏、江戸城と睨み合う南方防衛ライン上の重要な城と位置づけました。

この話の後になりますが、1537年の河越城が落城するちょっと前に、上杉朝興(ともおき)の息子、朝定(ともさだ)が部下に命じて増強するなどしています。

この時期、北条氏の短兵急な台頭によって、扇谷上杉と山内上杉が一緒になり、もうお家騒動等に感(かま)けている場合ではないという危機感を持ちました。

やはり関東管領のプライドとして関東支配の実質を持っていかれるのが許せないのでしょう。

この感覚を持ち続ける上杉氏は、最後皆さん良くご存じの越後の上杉謙信こと長尾景虎に上杉名を与えてしまい、「なんとか北条から関東を取り戻していただきたい」とお願いするに至るのです。

謙信になってからは、川中島の戦い等、武田信玄と龍虎の戦いばかりが有名になってしまい、勿論北条氏ともかなり戦ったのですが、北条氏が地味だった(?)だけに、違うことをしていた感がありますね。
深大寺城郭図

また、脱線してしまいましたが、この深大寺城に行ってきました。名前の通り、調布は深大寺のすぐ横です。

このブログシリーズの深大寺のところでも書きましたが、深大寺周辺は湧水の多いところで、縁起の頃(奈良時代)は湖があったという位ですから、ある意味周囲を堀や湿地で覆われた小高いこの場所に城を作らない手はないという感じですね。

左の写真の主郭の右手側は、現在は神代植物園の付属施設、水生植物園で、綺麗な池や、湿地帯になっていますが、これが当時は堀等の役割を果たしていたのでしょう。

主郭、二郭は、水生植物園の中にあり、遺構もかなり良好に残っていました。

後で述べますが、深大寺城自体は、北条軍等から攻められることも無く、上杉軍の立て籠もる河越城が落城してからは、その存在意義を無くしてしまい、上杉軍は撤退。

北条氏も、この城については、軍事拠点としての利用価値を見出せず、廃城としました。このお陰で、当時の遺構がかなり残されたようです。

三郭については、テニスクラブと、宅地化によってその遺構は殆ど消えてしまいました。(一部土塁跡のようなものは発見できましたが・・・)
二郭に残る屋敷の柱跡

二郭には、当時の建設物の柱穴の遺構等も残り、その位置に写真のような礎石が並べてあります。土塁に囲まれた大きな郭(曲輪)の割りには時化た建物だったという感じがしますが、まあ当時の築城技術は、姫路城や小田原城のような城壁・石垣の立派なものを期待する方が酷ってもんでしょう。

本質は守備兵1人で敵兵10人を倒せれば良いのですから、大体は土塁とか空堀とか地勢を重視したものであって、建物は二の次な訳です。

ただ、深大寺城が着目されたのは、上杉氏が増強して後直ぐ廃城したので、戦国初期の頃のまだ発展途上の城郭跡であり、他の北条氏によって進化した城郭に至る変遷が分かるそうです。

たとえば、戦国時代後半になるにつれ、城の入口となる虎口(こぐち)とその虎口に群がる敵軍を狙い撃ちする矢倉(櫓台)の構造がかなり複雑になります。
主郭へ至る虎口脇の割堀
(左側の森が矢倉台)

あるデータによると、城攻めの人間の死因の90%近くは矢および鉄砲によるものとされています。このため、この構造は年々進化していったのでしょう。

深大寺城は、まだこの虎口や矢倉の作りが甘く、一騎打ちを前提とした城の造りに近い中世的なものだったようです。

虎口に集まる兵を横から矢で射るという好位置に矢倉が明確に設計されていないようです。

右上の城郭図をご覧下さい。二郭から主郭に至る虎口に対し、櫓台(矢倉)の位置が離れ過ぎていますのが分かりますでしょうか。確かに甘いですね。作りが。

とまあ、深大寺城は、上杉軍の武蔵の拠点ならびに江戸城奪還を狙う付城的な軍事拠点な訳ですが、これに対して北条軍も黙っていた訳ではありません。

2.牟礼砦(むれとりで)

北条軍は、この深大寺城の付城として2つの砦を作ります。

両方とも現在の京王井の頭線沿線になるのですが、下北沢付近にある烏山砦(からすやまとりで)と三鷹台にある牟礼砦(むれとりで)です。

これもまた私事ですが、牟礼砦の跡の一部にゴルフ練習場が数年前まであったのですが、良く練習に行った生活圏内でした。

砦の中心だった場所に、神明社という神社があります。
牟礼砦址にある神明社

深大寺の周辺もそうですが、三鷹、吉祥寺あたりは、台地が続き、本当に平な土地であり、自転車が生活に欠かせないような土地なのですが、この牟礼砦のあったとされる場所だけは、ちょっと小高い丘のような形状になっております。

当時はこの場所を「高番山」と呼んでいました。

ここからなら、当時は今のような高い建設物が無い武蔵野一帯だったでしょうから、深大寺城はおろか、江戸城方面までかなり見渡せたのではないでしょうか?

逆光で分かりにくいかもしれませんが、右写真が牟礼砦から深大寺方面の景色です。

さて、この恰好の場所に砦を築いたのは、北条綱高(つなたか)と言って、当主氏綱の親戚筋のような名前ですが、血縁的な関係は全く無く、早雲に養育されたようです。先に書きました上杉氏の江戸城攻めで大功があり、この名前と玉縄城の城代に出世しました。

深大寺城方面の景色
また綱高は、北条氏の中ではかなりの勇猛ぶりで、軍隊全体の甲冑が全て赤であるビジュアル的にもさも強そうな「赤備え」隊を持つことが出来たのです。


この時代「赤備え」というのは、武田信玄の、「武田の赤備え」として「飯富兵部の赤備え」が有名ですが、これは後に徳川家の家臣の井伊家(井伊直弼の代々)が、この隊を引き継いだことで一番有名になったのだと思います。

どの武将にも赤備えがあったのは「武田の」と名前が付くことからも分かると思います。綱高は「北条の赤備え」と言ったところでしょうか?
井伊家の赤備え隊(中央は彦にゃん)

更に脱線して恐縮ですが、この牟礼のあたりは、東京都には珍しく、1つの姓が多いところです。

その姓は「高橋」ですが、丁度砦のあたりの農耕地も貸し農園として宣伝しているのが、「高橋農園」さんなどなど・・・

これは綱高の出所が、高橋氏なのです。

元は伊豆は韮山地方の豪族なのですが、この北条綱高は、豊臣軍20万が小田原攻めで進行してきた時に、北条姓を捨て、元の高橋姓を名乗って、この牟礼の地の名主として代々繁盛していったとの話です。賢い身の処し方ですね。

またまた、かなり脱線しましたが、要するに上杉軍の関東南方拠点である深大寺城への付城として造られた訳です。

牟礼砦全景
(手前の道路は当時空堀だったと思われる)
砦と言っても、一番高台という地の利を活かしていますし、北側は、玉川上水が流れており、天然の堀をなしていたでしょうから、かなり堅固な砦だったのだと思います。

いまでこそ、三鷹台駅から調布に抜ける自動車道路になっているところは、かつては割り堀だったようです。

また、ここで北条軍の示威行為を一つして、深大寺城を牽制します。それが「旗掛けの松」です。

右写真のように、この砦内にある松の木はかなり高く、三鷹台の標高と合わせると、相当遠くから見えたと思います。当然3km程度しか離れていない深大寺城からも良く見えたと思います。

この松に北条氏の「三つ鱗」(みつうろこ)(右下図参照)を高々と掲げたのです。

このお陰かどうか分かりませんが、1534年に北条氏綱が河越城攻略のため、進軍を始めると、深大寺城の上杉軍は河越城へと撤退を開始します。
牟礼砦の松

これを綱高は追撃し、大勝しました。その功もあってか、綱高は1537年に江戸城城主になっています。

流石、早雲に掘り起こされた人材だけあります。高橋氏も一番、面目躍如たる時期だったでしょう。その子孫が牟礼で累々現在まで生活されていることも素晴らしいですが・・・

この砦址は、先に述べました通り、神明社という神社になっていますが、これは深大寺城の廃城とも関係しています。

1537年北条氏綱は深大寺城を迂回して、河越城を直接攻めます。上杉朝定は敗走し松山城へ。

河越城も落城します。

このため、深大寺城は孤立化し、軍事的価値が失われました。どうやら上杉軍はこの時、深大寺城を放棄したらしいです。

当然、牟礼砦も必要無くなりますが、河越城落城での戦死者を弔うと同時に、今後のこの土地の鎮守も兼ねて、この神明社を北条綱高建てたようです。中々慈悲深い武将でもあったようですね。

北条三つ鱗
3.北条氏康(うじやす)の登場

話が2代目氏綱が終わらないうちに、3代目氏康の登場です。まあ、氏綱のお子様なのですから、当然氏綱の偉業達成の前に、氏康がデビューしてきても不自然ではありません。

この3代目氏康で、北条氏は関東覇権のピークを迎えるのですが、なんとそのデビュー戦、つまり初陣は、この深大寺城の辺りでの上杉軍との衝突だったということが、今回深大寺城を調査していて分かりました。

また、北条氏の中で一番ヒーロー的な氏康が、実は「ひきこもり型」の原型だったのでは?との説もあり、それが引いては、事があると、貝のように堅牢な小田原城に篭る北条氏のDNAとなったのではないかとの説もあるようです。
北条氏康

その辺りを、次回、氏康の初陣の調査を基に、紐解きたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

いつものお願いで恐縮ですが、励みになりますので「日本史人気ブログランキング」のポチを宜しくお願いします。

【深大寺城】調布市深大寺元町2丁目(神代水生植物園内)
【牟礼砦】東京都三鷹市牟礼2丁目6−12(牟礼神明社)