マイナー・史跡巡り: 首洗井戸① ~護良親王の逃亡劇~

土曜日

首洗井戸① ~護良親王の逃亡劇~

彼是40年以上昔のことになりますが、当時私は入学したばかりの小学校に2~3km歩いて通っていました。

その途中に、鬱蒼とした森の脇を小川が流れている場所があり、日中もジメジメとした暗い場所に石碑と井形に石が組まれた枯れ井戸があり、石碑には「首洗井戸」と書いてありました。

①首洗い井戸石碑
学校の行き帰り、皆で「あそこで昔、武士の切った首が血で汚れているから洗ったんだって。怖いね。」と話をしながら、通学したのを覚えております。

同時に、当時会社員だった親父が、帰宅すると「もう首を切られる!」と(冗談で)言うので、昔も今も大人は間違いを犯すと首を切られるのだ、自分は大人でなくて良かった。間違いなら毎日沢山犯すから。とも思ったものです。
それから40年後の自分の方が毎日犯す間違いの量は多いのではないかと...^_^;

さて、閑話休題。

今回、その首洗い井戸に行ってみましたので、報告します。(写真①

1.首洗井戸

この井戸は護良親王の首を洗ったと言い伝えられる井戸です。流石に通学していた小学校1,2年生の頃は、名前までは知りませんでしたが。

護良親王は、建武の新政で活躍した皇子です。
建武の新政と言えば、後醍醐天皇ですが、護良親王はその皇子に当ります。

楠正成や足利尊氏、新田義貞らと、当時の鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。これから、このシリーズで少しづつ、この皇子についてお話していきたいと思います。
この井戸の周囲の環境は40年前と劇的に変わってしまいました。冒頭書いた鬱蒼とした森は全て開拓され、新しく綺麗な住宅街に変わっていました。
②首洗い井戸本体

山を切り崩したのでしょうか。横を流れていた小川も消失して、明るい住宅街の三叉路にある石碑のようになっていました。(写真①参照

ただ、石碑は裏に廻ってみると昭和45年建立とあるので、私が通学していた頃に目にしていた石碑はこれなのでしょう。また確かに井戸もこのようなものだったと記憶しております。(写真②

周囲には大変綺麗なバラを沢山庭に咲かせているお宅もあり、私が小学生の頃の原風景は、この場所にはありませんでした。

2.護良親王の首

高々、40年程度前の環境の違いで驚いている私ですが、ここで首を洗ったのは700年前です。ところが、なんとその時洗った首があるのです。

③洗った首
右の写真です。(写真③
700年前とは思えない生々しさですね。

小学生の頃、この写真を見ていたら、怖くて首洗井戸の脇を通っての通学なんて出来ませんでしたよ。

では、どうしてこの親王の首は、ここで洗われたのか、またどうしてそんな形となって現存するのか、その辺りを想像も交えながら、調査を進めました。

3.護良親王とは

先程も申し上げたように、護良親王は、建武の新政で、大活躍した皇子です。

日本の有史以来の皇室で、これほどアクティブに時の権力に挑んで行った皇子も珍しいです。

日本の皇室は、西洋の王様が軍を引き連れて勇猛に戦うのに比べると、どちらかというと御簾の奥から顔も出さずに、裏から人事を動かし、政権維持をするというイメージが強いと思います。

ただ、この護良親王は、西洋の王子、スターウォーズで言えば、ルークスカイウォーカー的なキャラクターでした。

彼としては、武士の世の中ということで、権威失墜した皇室を復興するという歴史的な偉業を、自分達皇族が引っ張っていくという意識が強かったのでしょう。
④護良親王と雛鶴姫

兎に角、八面六臂の活躍で、鎌倉幕府を倒し、天皇主権の理想を一時的ではありますが、打ち建てたヒーローなのです。(絵④

そんなヒーローが、何故マイナーな、横浜市戸塚区の首洗井戸と関係したのでしょうか。

4.護良親王の活躍

さて、鎌倉幕府を倒して武士の世を終わらせ、平安時代のような天皇家に主権を奪回しようとする建武の新政の立役者、後醍醐天皇も、当初の倒幕計画は順風満帆どころか、失敗の連続でした。

京都の笠置山で挙兵するも、あっという間に落城、同時に天皇の支援要請で、挙兵していた楠正成も、大阪の千早城が落城して行方不明と、反乱軍は鎮圧の一途を辿っていました。

護良親王は、当時20代前半で比叡山の天台座主、今で言うと一流企業経営者というようなポジションでした。マーク・ザッカーバーグも顔負けな若手です。

ところが経文を勉強するよりは、比叡山にて武芸を磨いていたというのだから、相当の変わり者と周囲は見ていたでしょう。

というかそういう我儘が許されたのも、落ちぶれていたとは言え、流石は天皇家という感じがします。

⑤後醍醐天皇
彼は、父、後醍醐天皇が捉えられたと知り、一計を持って救出作戦を展開します。

後醍醐天皇の寵臣を、影武者として、移動可能な御簾の中に入れ、「ほれ、天皇健在!討幕軍は決起せよ!」とばかりに旗揚げしますと、また反幕府軍が集結してきます。このドサクサに紛れて、後醍醐天皇は京都を脱出する計画です。(絵⑤

6千にまで増えたこの反乱軍、一時は幕府軍を撃退しました。流石親王!

ところが大失態を犯しました。移動式御簾が風に煽られ、御簾の中の人物が後醍醐天皇ではないことがバレてしまいました。

「ウソつき!」と罵倒されたかどうかは分かりませんが、反乱軍は大混乱、幕府軍も再起して、あっという間に護良親王は幕府軍に追われる運命になりました。

5.般若寺での逃避行

さて、護良親王は、奈良のコスモスで有名な般若寺という場所まで逃げて来ました。(写真⑥

幕府軍も、今回の首謀者であり、かつ今後の倒幕の主力となるであろう、護良親王を捕まえようと懸命に追いかけて来ます。
⑥般若寺

ここで護良親王は、巧みな心理作戦で、ピンチを切り抜ける有名な話がありますので、ご存じの方多いでしょうが、改めてご紹介します。戦前の尋常小学校の教科書に載っていた話です。私も小3で読みました。

寺に逃げ込んて、辺りを見回した護良親王は、隠れるものがあまり無い伽藍等にがっかりします。

「これまでか!」と言ったかどうかは定かではありませんが、その時、伽藍の隅っこにある3つの経櫃が目に入りました。(写真⑦

2つの経櫃は、しっかりと蓋がしてありましたが、1つだけ蓋が開け放してあり、中の経文が見えています。

「よし!」

と言って、親王は、わざと蓋がしていない経櫃の中に飛び込み、経文を頭から被り、隠れます。

直ぐに追手数人が、この伽藍に飛び込み、仏像の隙間やら仏具入れ等に、親王が居ないか探し回り始めました。

案の定、3つの経櫃も見つかります。

追手は、当然蓋のしてある2つの経櫃を開け、中を調査します。

「見えないなあ!」

と言って、経櫃を元に戻すと、伽藍を出て行って寺の他の場所を探し回り始めました。

逃げる側の心理として、蓋の空いた経櫃に潜むとは考えづらく、経文をかき分け捜査するのは時間の無駄と考えたようです。

さすが親王頭良いです!

⑦経櫃
親王はそれで有頂天になるような軽薄な人物ではなく、彼らが他の場所を探している間に、既に捜査済みの蓋のしてある経櫃に入りなおします。

これも予期した通り、暫くすると追手の一部は、この伽藍に戻ってきて、先ほどの蓋の空いていた方の経櫃も、中の経文を取り出して調べ始めました。

「やっぱり、見えないなあ」 
「やはり、この寺に逃げ込んだのでは無かったのかもしれない。先を急ごう!」

ということで、親王のこの所作が、追手をこの寺を諦めさせる締めの一手となりました。

ただ、この逸話、実は元々経櫃3つとも蓋がされていて、その中の一つに身を潜まそうとしたようです。

親王が、体を櫃の中に入れ、余った経文を自分の上に掛けていたら、自分の体の分だけ経文の嵩が高くなり、蓋が閉まらない。

「うーん、うん」と蓋を閉めようと頑張っていたのですが、追手が来て時間切れになったので、仕方無く蓋を開いたままにした と考えるのが自然のようです。

それが後にこのような言い伝えになったのでしょう。

さて、この後、後醍醐天皇は、幕府によって隠岐の島に流されますが、大脱出します。

反乱軍を組織し、鎌倉幕府から天皇の追討に向かった足利高氏(後、尊氏)を寝返らせ、鎌倉幕府の京都派出所である六波羅探題の攻略に成功します。

さらに、東国で挙兵した新田義貞が、鎌倉幕府を陥落させるという、スターウォーズ張りの、大スペクタクルが展開されるのです。

この後、護良親王がどうなるのか、シリーズ②で書きたいと思います。

【首洗井戸】横浜市戸塚区柏尾町1042−16