マイナー・史跡巡り: 為朝の矢② ~伊豆大島~

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為朝の矢② ~伊豆大島~

①為朝から天然痘の
疱瘡神が逃げるの絵
為朝の話から、話がいきなり逸れ失礼します。

江戸時代、天然痘が爆発的に流行り病として登場し、種痘によるワクチン製作を西洋医学から学び、大阪や江戸の民の治療にあたった緒方洪庵の活躍等は、皆さまご存じの通りです。

しかし、種痘を施すようになる前の時代、これらの流行り病は、罹ってからでは手の施しようがないため、罹患しないための予防に腐心していました。

その1つの手段として、家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼るというものがあります。

何故なのでしょうか。(絵①)

為朝の生涯の後半を描くこのBlogでは、その辺りの経緯も含めてお話したいと思います。

1.伊豆大島での流刑生活

前回、為朝が保元の乱で敗れた後、捕縛され、弓が射れないように肘の健を切断され、伊豆大島に流されたところまでを描きました。(詳細はここをクリック

②伊豆大島にある為朝の館跡
罪人とは言え、源氏の血統、かつ有名人の為朝の事、写真②のような立派な赤い門の屋敷に住んでいました。(写真②)

私が伊豆大島に訪問した時も、流石にこの赤い門は良く目立ちました。勿論、現在はここを所有するホテルが何度も塗り直しているのですが、当時も為朝を貴人扱いして朱塗りの屋敷に住まわせたと伝わっています。

また、一説には、昔は有力者の怨霊封じ込めは必須の事でしたので、為朝亡き後、その怨霊を慰撫するための赤という説もあります。

話を戻しますが、この伊豆大島に流された為朝は、腕の肘の健の治療に励みます。
そして、かなり治ったと思われる頃に、為朝は弓の試射を行って、その恢復度合いを測るのです。

「兄・義朝のやろう!鎌倉でのうのうと過ごしているのかあ!」

③伊豆大島の為朝館
から鎌倉へは64.6㎞
ついつい伊豆大島で無為に過ごす為朝の脳裏に、保元の乱で、矢を威嚇射撃した時の兄・義朝の姿が目に浮かびます。

「まあ、ここから撃っても、流石に兄者には当たらないだろう。」

と、為朝は、義朝の起居する鎌倉へ向けて思いっきり弓を番え、ヒョーと射るのです。(地図③)

ところがこの矢はなんと、弾道ミサイル宜しく、鎌倉まで届いてしまうのです。地図③でもお判りのように、距離は64.6km離れています。

畏るべし為朝!!

前回のBlogの冒頭に述べた知人が算出した為朝の矢の初速度は時速3000㎞以上、プロ野球の剛速球ピッチャーの球速の20倍、新幹線速度の10倍以上という値は、この事実を基に空気抵抗が殆ど無いとして計算したものです。この初速度で射ても、実際の空気抵抗等を考慮すると絶対届かない、自律的に推進力を持つミサイルのような矢でない限り、64.6㎞矢が飛ぶことは無理という結果に達しています(笑)。
ただ、万が一届いたら、恐ろしい勢いということになりますね。

ですが、その時放った矢が、恐ろしい勢いで地面に刺さり、深く穴を開け、そこから水が湧いたという井戸が鎌倉の材木座に残っています。(写真④)

④六角の井
※右の石碑は左の建物の裏にある
写真でも分かります様に、住宅街の一角に何気なくあります。

井戸を覗いてみると、確かに水が湧き出しています。その時の矢じりが井戸の水の中にあるということですが、深くて確認することはできませんでした。(写真⑤)

本当か嘘か怪しい井戸ではありますが、一つ素晴らしいと感じたのは、この史跡もやはり、付近の方々から愛されているのですね。

暑い中、茫々に生えた井戸の夏草を一生懸命刈り込む方がいらっしゃいました。(写真⑥)

こういう、さり気ない活動が、古(いにしえ)の日本を大切にする心に繋がっているようで、とても嬉しくなりました。

2.伊豆七島の征服と破滅

さて、肘も治り、また元の剛弓を番(つが)えることができるようになった為朝は、また暴れ出します。

まず、島の代官の娘と結婚し婿になり、伊豆大島は本国から独立すると言って年貢を納めなくなります。

⑤井戸は水が湧いています
矢じりは見えません
次に、伊豆七島の制圧に乗り出します。大体九州に放逐された時も、九州を制圧し、「鎮西」と名乗った位ですから、為朝は行った先を制圧するのが好きなのですね。

しかし、この鎮圧話は保元の乱のように公式文書が残っている訳ではないので、多分に伝説的です。

例えば、鬼の子孫が暮らす島に渡り、鬼の子孫である大男達を相手に大立ち回り、島を平定して、一人の大男を従者として伊豆大島に連れて戻ってきました。まあ、たまたま島の大男を従えて帰った時に、そのような作り話をしたのだと想像されます。

別の話の例で恐縮ですが、昔北欧のバイキングが「この大海原の先に、このアイスランドよりはるかに豊かな緑の大きな島がある。」と云って人々を移住させた島がグリーンランドだったように、その島に実際に行ってない人には嘘か本当か分かりません。グリーンランドはご存じの通り、実際には寒冷地でアイスランドより緑が少なく、現在その作り話の名称が正式な島名になってしまいました(笑)。

更に、少々下品ですが、美女ばかりとの噂の島があり、そこに行った野郎は誰一人として戻ってこないという伝説がありました。為朝らは、この島に調査に出かけます。すると出てくる女性は本当に美人ばかりで、到着した野郎の理性を完全に痺れさせ、事に至らせようとします。

⑥為朝の井戸の雑草刈りをする住民の方
ところが至ろうとすると、女性器には隠れた「歯」が付いていて、男性器を切り落としてしまうため、男性が絶命するというカラクリだったのです。道理で誰も帰ってこない訳です。それを見破った為朝は、そうなる前に海岸で手ごろな石を拾い、「ガリっ」と噛ませて、その歯を折ってしまう方法で、この島を制圧(?)するのです。

島の間に伝わる御伽噺と為朝伝説が完全に融合していますね(笑)。

3.疱瘡の神様

伝説ついでに、もう一つ。

冒頭にお話ししました、天然痘が流行った時に、江戸時代の人々が家の門に「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼った理由も、この伊豆七島を制圧した時の話に由来します。

⑦疱瘡神が為朝に手形を渡す絵
(国芳画)
絵⑦を見て下さい。この絵は、為朝が八丈島を制圧した後の事を描いた絵です。(絵⑦)
八丈島には疱瘡神(ほうそうしん)という疱瘡(水疱瘡、はしか、天然痘等)の神様が、他の獣霊等と一緒に暮らしていました。

絵の中の黄色い服を着た老人が疱瘡神です。

天然痘等の医学的知識が乏しかった当時は、天然痘等がどうやら海外からもたらされる、特に南国から来るとの認識から、どこぞの南国の島に疱瘡の神様が住んでいるに違いないとの迷信が盛んでした。

なので、南国で、当時は良く分からない島である八丈島(?)辺りが疱瘡神の居る島と思われたのではないかと推測します。

さて絵の中で、他の獣霊らと一緒に制圧された疱瘡神が手にもっているのは、為朝に提出を求められた手形です。

「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」と為朝は書かせたと言われています。

この話が基で、繰り返しになりますが、江戸時代の人々は家の門に、天然痘除けとして「この家は、鎮西八郎為朝殿の宿です。」と貼ったのです。

4.破滅&逃亡伝説

このように、九州に行けば九州を、伊豆大島に行けば、伊豆七島を制圧してしまう為朝。

彼が豪傑なのは、彼が住んでいた当時の社会システムに全く興味が無く、まるでガキ大将のように、喧嘩勝ちし、相手を服従させていく という単純さにあると思います。

しかし、子供じゃないのですから、社会システム側は、こういう大人のガキ大将を抑制しに来るのが道理です。九州で暴れている時も、朝廷が為朝の父親の官位剥奪という手段で、為朝を抑制しました。(前回のブログ参照

⑧左側の為朝が矢を放ち右側の軍船を沈める
今回は、伊豆七島を領有する伊豆国の伊東・北条氏らが朝廷に陳情し、為朝討伐の院宣を取り付けます。

そして軍勢500で、伊豆大島へ船で繰り出します。
この船が島に近づくのを見て、為朝は観念します。

しかし、彼は「一矢(いっし)報いたい!」と云ったかどうかは定かではありませんが、その弾道ミサイルさながらの一矢(ひとや)を300の兵を乗せた船にヒョーと射かけるのです。見事命中、為朝の弾道ミサイル並の矢を受けた船はあっという間に沈没。(絵⑧)

しかし、残りの200が到着する前に、彼は9歳になる息子の首を刎ね、自分も倒れぬよう柱に体をもたせたまま、割腹して果てるのです。

武士で初めて切腹したのが為朝という説もあります。

◆ ◇ ◆ ◇

⑨大島を脱出した為朝とその息子を救出するの絵
(国芳画)
しかし実は、この割腹自殺したのは為朝の替え玉であり、為朝は息子らと一緒に大島を抜け出し、海上を琉球(沖縄)に向け逃げたという説があります。

右の絵は、有名な歌川国芳の画ですが、逃げる為朝らが大嵐に遭い、船が難破しかけた時、為朝が保元の乱で味方した祟徳上皇配下の烏天狗(絵中白抜き)が現れて為朝を救い、海に投げ出された為朝の息子は、海底から現れた大怪魚に助けられるという場面が描かれています。(絵⑨)

そして、為朝の息子は、後に琉球王国の初代琉球王「舜天(しゅんてん)」になったとしています。この手の話を聞くと、皆さまの中には「まあ、義経も北海道経由で満州に渡り、チンギスハーンになったという伝説もあるし・・・」と思われるかも知れません。

⑩沖縄にある為朝上陸の碑
しかし、これは琉球王国の正史『中山世鑑』に記載されている事なのです。

この時為朝が沖縄に上陸した場所に、今も祈念碑が建っています。(写真⑩)

5.おわりに

為朝の生涯、如何でしたでしょうか?

実は、為朝に関係する伝説は、まだまだここにご紹介させて頂いたもの以外、山ほどあります。

また、為朝を扱った浮世絵等のコンテンツ、これもWeb上にわんさかあります。

勿論、為朝の豪傑としての資質や、豪傑故のレジェンド話等、皆が為朝に対する尊敬と愛情の念を抱いているからではあるのですが、江戸時代にこの為朝ブームに火を付けた立役者がいます。

先程、疱瘡神除けに為朝のお札を家の門に貼る風習についてお話しましたが、これは江戸時代だけです。その前の鎌倉・室町・戦国時代には、このような風習は無かったのです。

なぜでしょうか?
これも、その立役者のお蔭なのです。

滝沢馬琴(たきざわばきん)

⑪九段下にある馬琴史跡
ここで彼は読本を執筆
そう、「南総里見八犬伝」で有名な江戸時代の読本作家です。

当時(19世紀初頭)は、まず為朝伝説を扱ったデビュー作「椿説弓張月」の評価が高く、売れに売れ、読本家としての地位を確立した馬琴が、ライフワークとして手掛けたのが「南総里見八犬伝」。(写真⑪)

なので、この為朝の「椿説弓張月」が馬琴を読本世界のスターダムにのし上げ、歌舞伎での上演や、浮世絵で第一級の歌川国芳らにも盛んに取り上げられる等、それはそれは大変な人気でした。

それで、この小説に出てくる疱瘡神との話を元に、「為朝公のお宿」の札を貼る風習が生まれたのです。なので江戸時代だけという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

馬琴も取り上げ、江戸時代当時もベストセラーになった為朝物語。

為朝は、頼朝が「蛭が小島」に流されいる1160年当時も、伊豆大島に居ました。伊豆大島で自決または脱出するのは、頼朝が挙兵する3年前の1177年です。

本来、源氏の血統を汲むのですから、近くの伊豆半島に居る頼朝らと連絡を取り合い、頼朝挙兵に、その英雄振りを発揮すれば良いのに!と思うのは、下衆の発想なのでしょうね。

なんと言っても鎮西八郎為朝の魅力は、ノンポリ(Non-Political)で権力に依らず、子供のような単純無垢な強さとやさしさを兼ね備えたヒーロー性にあるのでしょう。

私も色々と調べるうちにすっかり為朝に魅了されてしまいました(笑)。
皆さまは為朝についてどう思われますか?

長いお話にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
それではまた次回!

【伊豆大島為朝館跡】 東京都大島町元町1丁目16−7
【源為朝上陸記念碑(沖縄)】沖縄県国頭郡 今帰仁村運天47
【滝沢馬琴硯の井戸】東京都千代田区九段北1丁目5