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中尊寺金色堂⑤ ~後三年合戦 その3~

前回、清衡(きよひら)義家(よしいえ)の「たぬきとキツネの化かし合い」の様相を呈してきた後三年合戦の中盤を描きました。人物については、また図①を参照しながら読み進めて頂ければと思います。
①後三年合戦人物相関図(更新)
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清衡が、家衡に初手の攻撃を仕掛けさせ、正当防衛を理由に国守である義家に家衡を攻めて貰う。強い強い義家ですから、家衡は簡単に滅びるだろうという清衡の作戦。

これに気づいた義家は、清衡が義家を利用して家衡を滅ぼすのを傍観させるのではなく、両者とも本気で憎み合い、お互い死力を尽くして戦いあうように仕向けます。

そして、これに成功。この話の続きからです。
②沼柵址

1.沼柵での戦い

家衡が清衡館を襲ったことから、国守の義家が清衡側に付いたことを知ると、家衡は代々清原家の有力な柵の1つ、沼柵(ぬまさく)という城のようなものに立て籠もります。(写真②)

◆ ◇ ◆ ◇
東北地方は、有力な防御拠点を「城」とは言わず「柵」と言うことが多いですね。

ご存知の方は多いと思いますが、城はそもそもその地域の人々が守りの拠点としているのに対して、柵はその地域外から来たよそ者が、その地域の敵に対して自身を守るために柵で陣固めをした土地を指します。

特に東北は、その蝦夷(えみし)の土地によそ者の朝廷軍が陣固めをして行った「柵」があちこちにあったため、城より柵の方が多いのです。多賀城でさえ、国府としての行政機能が入るまでは多賀柵だったようです。

また、城は守りの拠点としているので、兵糧を何年分も蓄えられる等、多くの兵士が籠って情勢が変わるのを守りながら待つという機能に長けていますが、柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。

実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、沼柵ですが、流石清原氏代々の柵だけあって、西側~北側に流れる雄物川とその支流が、この柵周辺を、それこそ「泥沼」化していることで、周辺から大変攻めづらい構造になっていました。(地図③)
③沼柵における両軍対峙図

そこに、南側から義家・清衡連合軍が攻めてきます。

平安時代の義家の頃から、源氏はやはり騎馬による戦が得意だったようで、この時も馬を中心に颯爽と沼柵によせる義家軍でした。
ところがこれに対し、泥沼地帯に潜んでいる家衡の伏兵らが、次々と矢を射かけるのです。沼地に足を取られた馬上の武者たちは流矢の餌食になっていきます。

これらの伏兵によるゲリラ戦法でかなりのダメージを受け、義家らは停滞を余儀なくさせられます。

ほんの数日で家衡を制圧しようとした義家らでしたが、秋から開始したこの戦が数か月も掛かりそうな情勢に立たされることとなったのです。

④沼柵辺りの積雪は多い
上記地図③の東「横手公園」
から沼柵方面を臨む
清衡は、義家に諫言します。

「ご自身がかつて前九年の役の『黄海川の戦い』の時に経験された以上に、出羽の冬は積雪が多く、冬の戦いは自軍が消耗するだけです。ここは一度撤退しましょう!」

義家は、「なんの家衡ごときは、あと数日で落として見せる!清衡こそ、もっと力入れて戦え!貴様もしかしたら、家衡が身内だからそんな躊躇したような事言うのではないのか?!」

そう言われると、清衡もそれ以上強くは言えなくなってしまいます。

結局、義家は冬まで沼柵前に留まりましたが、多賀城方面からの補給路は、家衡のゲリラ戦法と2mを超す大雪により、ボロボロに絶たれ、食料は欠乏、病人は続出し、戦闘続行は不可能な状況に陥りました。(写真④)

清衡の諫言通りです。
義家は悔しい思いで、沼柵を見上げながら、全軍に下知します。

「撤退!!」

2.両軍それぞれへの加勢
⑤清原武衡像(横手市)

さて、沼柵で勝利を収めた家衡は清原一族での評価が上がります。

「あの軍神 義家に勝った漢(おとこ)。流石は清原家の嫡男」

そして、叔父である清原武衡(きよはら・たけひら)が、現在の福島県いわき市の所領地から援軍に駆けつけて来るのでした。(写真⑤)

逆に負け戦でがっかりしている義家のところにも、強力な助っ人が現れます。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

あの武田信玄の武田家始祖のこれまた神格化された人物です。このblogでも何度か武田家の家宝「楯無(たてなし)鎧」(写真⑥)を紹介しましたが、この武田家が信長に滅ぼされるまで大事に持っていた鎧は、この義光が着用していたものです。(写真⑥)

彼は、兄・義家が沼柵で家衡に負けたと聞いて、宮仕えの身分であったにも係わらず、長期休暇を朝廷に申請し、兄を支援しに行こうとしました。
ところが、朝廷からはダメ出しされてしまいます。そこでさっさと退職願いを出して、出羽まで来たと言います。

この話は後の源平合戦時に、義経が頼朝の陣中に奥州平泉から駆けつけた話と並べる兄弟愛の美談として良く比較されます。義家は頼朝のように弟を謀殺したりはしませんでしたけど。
⑥義光が着用していた「楯無」
武田家家宝

3.次の戦闘への準備

さて、義家に義光が支援に来たという情報を聞いて、家衡らは義家らの次の攻撃が相当過酷なものになると覚悟します。

そこで彼らは考えます。「既に沼柵にてこずった義家らは、今度来襲してくるときは、必ず沼柵落しの対策をしてくるはず。であれば、次は沼柵に立籠もるよりも、更に規模の大きな金沢柵に立籠もり、沼柵に置く友軍と協働して、義家軍をかく乱する方が良い」と。
図⑦を見て下さい。

金沢柵は沼柵より北東側にあり、ここに居る家衡らの軍を直接義家らの軍が突こうとすれば、当然沼柵に居る家衡軍が、後方から義家らの軍に襲いかかり、挟撃による殲滅作戦を展開されてしまいます。

また、義家らが沼柵を先に攻撃する場合でも、金沢柵から家衡軍が打って出れば、同様に挟撃されるリスクがあります。

よってこのリスクを回避するには義家らは兵を2分して、それぞれの柵に当たらせなければなりません。戦力に分割損が出ます。そうこうするうちにまた冬将軍到来で義家軍は敗退せざるを得ないでしょう。

⑦家衡は金沢柵へ防衛拠点を動かすこ
とにより義家連合軍のかく乱を狙う
しかし、義家側も前回の戦の敗退の要因分析は充分に行い、沼柵の攻略検討もさることながら、ある1つの結論に達しています。
それは単純に兵力数です。

兵力の詳細は未だ不明で諸説ありますが、元々、沼柵に動員した家衡軍が1千、対する義家軍が5千、5倍で攻めても落ちませんでした。家衡征伐第2陣は、義光や鎌倉権五郎景正(かまくらげんんごろうかげまさ:絵⑧)らの支援もあり、2万の軍を出します。家衡側も叔父の武衡軍が多少増えたので2千にはなりますが、それでも10倍の差です。これなら分割損があろうとなかろうと流石に落とせるだろうと考えるのです。

ただ欠点は、この頃はまだ兵農分離が全くされていない時代ですので、これだけの兵力を集めるのは稲の刈り取り農作業が完了する11月頃まで待たなくてはならず、また出羽の冬将軍到来のリスクを甘受しなければならないということです。

4.第2次家衡軍征伐作戦

⑧鎌倉権五郎景正
第2次家衡征伐作戦は、図⑨の通りです。義家・義光兄弟で練り上げた作戦を見て行きましょう。(図⑨)
まず義家軍は、当初2万の軍全軍で沼柵に向けて進軍します。(図中①)
しかし、実態は以下の3軍に分けてあるのです。

第1陣:鎌倉正景軍(先鋒:金沢柵正面突破軍)
第2陣:義家軍(本隊)
第3陣:義光軍(陽動作戦用遊撃軍)

一方、金沢柵の家衡軍は、沼柵の友軍を支援するために金沢柵を出発します。(図中②)

これを第1陣の鎌倉正景軍が先鋒として先回りし、野戦を開始します。(図中③)

そこに陽動作戦で、敵に気づかれないようにぐるっと迂回してきた義光軍が金沢柵の後方から家衡軍に襲いかかり、大混乱を引き起こします。(図中④)

そして、沼柵対策は本隊の義家軍が前回の戦で一番良く分かっていることから、沼柵軍の殲滅を図り、後方の憂いが無くなり次第、金沢柵へ向い、完全勝利を得ます。(図中⑤)
⑨第2次家衡軍掃討作戦概略図
この作戦の結果は次回お話します。

5.おわりに

⑩鎌倉景正の活躍を現す功名塚(金沢柵)
この金沢柵の3軍の中に沼柵での戦い時に、1軍を担った清衡の名前が出て来ません。どうしたのでしょうか?
これも文献等ではっきしたことが書かれておらず諸説ありますが、1説には清衡と義家は前回の沼柵の失敗で反目しあうようになり、第2次家衡征伐作戦時、清衡は義家の軍に従軍しますが、積極的に活用されない立場にさせられたというものです。
私は、実は沼柵の戦い時、清衡があえて冬将軍の到来による撤退の忠告を行い、義家を煽り嫌われ、わざと一線から引いたのではないかとさえ思っています(笑)。

清衡と義家は「たぬきとキツネの化かし合い」、この戦で弟と死力を尽くして戦っては義家の思うつぼ。ほぼ共倒れになり家衡も自分も易々と義家に滅ぼされてしまう。
清衡軍は来るべき義家軍との戦いに備え、体力温存しなければと考え、あえて消極的参戦に止めたのだと思えますが、皆さんどう思われますか?(笑)

最後までお読みいただきありがとうございました。

【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野