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水曜日

大楠公④ ~赤坂城奪還~

前回までで、後醍醐天皇が笠置山にて鎌倉幕府軍と戦い敗北し、同時に河内の赤坂城に護良親王と立て籠もった楠木正成も、自ら城に火を付け、巧妙に死んだと見せかけ、赤坂城を脱出するところまでを描きました。

今回はその後の後醍醐天皇や楠木正成について描きたいと思います。

①光厳天皇
1.隠岐の島へ流される後醍醐天皇

有王山で捕縛された後醍醐天皇は、京で六波羅探題の詮議を受け、隠岐の島の流罪が決まります。既に後の北朝初代とされる光厳(こうごん)天皇が、鎌倉幕府のバックアップもあって、践祚(せんそ:天皇として立つこと)しています。(絵①

後醍醐天皇は、既に帝(みかど)ではありません。単なるレジスタンスの統領となってしまった訳ですから、鎌倉幕府側からいつ暗殺されてもおかしくない状況でした。

逆に京の都中に、六波羅の刺客が後醍醐天皇を狙っているとの噂が流れ始めました。

島流しであれば、まだ命があるだけ良い方ではないでしょうか?

ちなみに隠岐の島への流罪は、100年前の「承久の乱」で鎌倉幕府に対抗した後鳥羽上皇の配流場所を踏襲したのです。

「承久の乱」の頃は、鎌倉武士の団結力と突破力は、この後醍醐天皇のご時世とは雲と泥の違いなのですが、鎌倉幕府としてはゲン担ぎをしたかったのだと想像します。

後醍醐天皇が捕まってから、約1か月で赤坂城も落ち、それから3か月も経つので、反幕府軍は掃討されたかのように思いたい鎌倉幕府。承久の乱とは時代の持つ空気が違うことは分かっていても、同じようにせざるを得なかった幕府側の気持ちも良く分かるような気がします(笑)。

2.隠岐の島へ

ところが、後醍醐天皇が隠岐の島へ流された1332年3月辺りから、畿内を中心とする反幕府勢力の動きが活発化してきました。

後醍醐天皇を隠岐へ流す山陰道道中も、天皇を奪還しようとするこの沿道の豪族らの動きもあったようです。

この時に幕府側の官吏として、後醍醐天皇を隠岐の島に護送するのは、佐々木道誉(どうよ)。(写真②

佐々木道誉も、この太平記の中では重要な役割を果たしています。

もともと、近江源氏の流れを汲む佐々木氏は、かなりの家柄です。鎌倉幕府を立てた頼朝が挙兵の事始めだった「山木判官邸の襲撃」計画の時にも、この近江源氏の佐々木兄弟の活躍によって支えられたことを、他の拙著Blog(三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~)に記しました。

道誉は法体名であり、本名は佐々木高氏、足利高氏も、この頃は同じ名前で、両者とも執権北条高時の「高」の1字を貰ったことに由来します。
②左:佐々木道誉の肖像画と家紋
右:大河ドラマ「太平記」で道誉を演じた陣内孝則
※着ている狩装束の右袖が秋で左袖が春の
アンバランスが婆裟羅的(笑)
華やかに歌舞(かぶ)いている婆裟羅(バサラ)として有名な道誉が後醍醐天皇の隠岐配流警護を任される理由の1つに、佐々木家同族が、配流先の隠岐の判官であることが挙げられています。一説には佐々木道誉に鎌倉幕府からは「隠岐の佐々木に命じて、後醍醐帝を亡き者にすべし」という命を貰っていたという話もあるようです。

脱線しますが、この当時、佐々木家以外も、特に源氏由来の家は、本家以外の傍流が全国あちこちのロケーションに分かれて存在しているのです。それらがまるで血縁ネットワークのように連携して、この時代のうねりのようなものを作っていきます。

この後の事ですが、新田義貞が鎌倉幕府に寝返る前に味方する岩松氏、岩松氏は阿波の海賊の同族も居るので、そちらでも暴れてもらい、楠木正成や赤松円心らと関西方面を攪乱する原動力になっています。更に越後新田勢も加勢することで、新田義貞は、鎌倉には万の大軍で攻めることができるのです。

と、新田義貞の鎌倉攻めの頃、足利高氏は六波羅探題を攻めることを決定しますが、三河の足利氏(今川氏、吉良氏も連枝)や丹羽篠山の足利氏等の同族の手助けがあってこそ、あの数万の大反乱軍が形成できた訳です。

この時の道誉も同じ佐々木族と連携し、隠岐まで後醍醐天皇を護送するという役目を果たしている訳です。

山陰地方を出雲(島根県)まで護送する間にも、これら宮方に味方する豪族たちのうごめきを上手くすり抜けるのに、道誉は気苦労がありました。また同時に、後醍醐天皇側へ味方する武将の多いことに鎌倉幕府の終焉の兆候を感じるようです。

道誉自身は、上手く強い方に味方をして生き抜くしたたかさは持つものの、ある意味ノンポリ(古い表現)だったようですよ。

3.十津川の黒木御所

さて、また少し脱線しますが、今、平成が終り、令和の元号が始まりました。この後醍醐天皇が流された1332年は「元弘2年」、ところが先にお話しました光厳天皇が鎌倉幕府によって立てられた経緯上、改元し「正慶元年」としたのです。「元弘元年」の次が「元弘元2年」または「正慶元年」なのです。
③右:十津川にかかる有名な「谷瀬の吊り橋」
左:護良親王が隠れ住んだ黒木御所跡
その後、60年間・日本の元号は2つあったのです。つまり北朝と南朝用2つに分かれて。
④上:赤坂城(下赤坂)から大阪方面を望む
下:赤坂城(下赤坂)本丸付近

令和の現代からはちょっと考えづらいことですね。どっちを使います?って、政治的信条で使う方を決めなければならないなんて大変ですよね。

話を戻します。隠岐に後醍醐天皇が流された時期に、護良親王は、吉野は十津川のあたりに隠遁します。現在も山奥深いその場所は、付近に有名な谷瀬の吊り橋があります。(写真③

この場所に、赤坂城が落ちた後の楠木正成は何度となくやってきて、後醍醐天皇配流後の、レジスタンス(反乱軍)の陽動作戦について護良親王と協議するのです。

護良親王は、このルーラルな場所で、兵を募ると同時に、各地の宮方に味方しそうな武将に令旨(りょうじ:朝廷からの命令)を発出しまくります。

これにより、備前(岡山県)や瀬戸内海を中心に、桜山、児島等の豪族や海賊岩松氏や村上氏等が暴れだし、護良親王自身も熊野でゲリラ的に活動を開始します。

この動きは、十津川で護良親王と意識合わせを行っていた楠木正成と呼応したものであり、正成はまずは自分が放棄した赤坂城を奪還することにします。

転んでもタダでは起き上きない正成。鎌倉幕府軍が赤坂城を自分たちの砦として十分に修復した後に奪還することで、コストを浮かすだけでなく、パワーアップした赤坂城となるまで待っていたようなのです。さすがちゃっかりしていますね。(写真④

4.赤坂城奪還
⑤赤坂城奪還
※「キミノ名ヲ。(3)」より

赤坂城が落ちた後、この城を鎌倉幕府から任せられたのは、この地方の豪族・湯浅定仏(じょうぶつ)です。

城が落ちて約半年、修復も完全で基礎から工事しなおした赤坂城は、ほぼ竣工したので、盤石な城とするために、兵糧を運び入れ始めました。

楠木正成は、このタイミングを待っていました。

彼は、夜間に兵糧を搬入する30名の兵糧部隊を襲います。そして米俵のコメを出し、代わりに武器を入れ、楠木軍の兵30人を再び兵糧部隊の人足に変装させるのです。

そして、この兵糧部隊が赤坂城に接近すると、一芝居打ちます。兵糧部隊を猛ダッシュで走らせ、夜の城門を叩きます。(絵⑤
城門は、上部に櫓を組み、そこから城外の敵を誰何(すいか)したり、矢で攻撃することができるようになっています。(絵⑥

「楠木軍が攻めて来た!早く城門を開けて兵糧を中に入れてくれ!」

⑥赤坂城城門
※「キミノ名ヲ。(3)」より
と兵糧部隊が城兵に呼びかけます。
櫓から湯浅兵が城外を見ると、松明の明かりが延々とこちらに向い、兵糧部隊目掛けて射た火矢が、城門に突き刺さり炎を上げているのです。

「ヤバい!兵糧部隊が襲われている!」

と湯浅軍の城兵たちは、兵糧を取られては大変と兵糧部隊を城内へ早々に引き入れようとします。
そうはさせじと、楠木軍が鬨の声をあげて突っ込んできます。

なんとか、兵糧部隊を城内へ引き入れ、門の閂(かんぬき)を固く締めると、櫓上の兵は懸命に櫓から楠木軍に対して矢を射かけます。

楠木軍も破城槌(はじょうつい:城門を壊すための大きな丸太を突進させる道具)を使って城門への体当たりを繰り返します。

この破城槌の衝突音と掛け声、湯浅兵の矢を射かける騒ぎで、城門の閂に忍び寄る兵糧部隊に変装した楠木兵には誰も気が付きません。

また、兵糧兵を追いかけてきて、破城槌まで出してきて大騒ぎしているこの門(大手門)以外の搦手門、東門・西門の外にも楠木軍はそっと待機しております。
これらの城門に城内から、潜入した楠木兵が忍び寄ります。元々、楠木軍の城でしたから、彼ら潜入兵にとって夜間とはいっても城内は勝手知ったる場所なのです。

そして、大手門の閂が潜入楠木兵によって外されるのと同時に、破城槌が突っ込んで門が開きます。湯浅兵は「大手門が破壊されたぞ!」と慌てて、守備する兵500の殆どが大手門に廻ってしまいます。

この大手門が破られた破城槌の音を合図に、他の3か所の門の閂も潜入兵によって開けられ、外に待機していた楠木軍が城内へどっと流れ込みます。

⑦護良親王出陣の図 ※作者不明
たちまち大手門の応援に駆け付けた湯浅兵は後ろを取られ、楠木軍に滅多打ちにされる形で、明け方までには赤坂城は再び楠木正成の手に落ちるのです。

5.レジスタンス戦線拡大

潜入兵による不意打ち作戦で赤坂城を取り戻した楠木軍。大手門以外は破壊せず、鎌倉幕府側によって、綺麗に再建されパワーアップした赤坂城を取り戻します。

湯浅定仏を含む湯浅党も、この赤坂城奪還の敗戦で意外とあっさりと、楠木正成の軍門に下ります。

◆ ◇ ◆ ◇

前述しましたが、赤坂城を奪い返す前から、楠木正成は護良親王と良く相談し、鎌倉幕府に対する反乱(レジスタンス)の狼煙(のろし)を大いに上げる約束になっており、この時期並行して護良親王も吉野・熊野で大暴れです。

絵⑦をご覧ください。これは護良親王が出陣するところを描いたとする有名な絵ですが、天上眉の皇族らしいお顔に似合わず、立派な黒い荒馬の上で手綱も持たず、弓を両手で抑え、弦を歯で引っ張って張りの調整をしているその戦闘的なお姿。

雅(みやび)な生活とは程遠く、武士も驚くほどの武芸達者ぶりを窺わせますね。実際護良親王は、この時まだ20代前半で、20歳の比叡山天台座主(比叡山のトップ)を務めたころ、毎日武芸を磨いていたという変わり座主でしたから、そんじょそこいらの武士よりはるかに武芸・武勇に長けていたのかもしれません。

護良親王・楠木正成・令旨を親王から貰い立ち上がった豪族らが大暴れする理由は、これらのレジスタンス鎮圧に、関東から兵が繰り出されることを期待したのです。「おら、坂東武者ども、出て来いよ。俺らレジスタンスを鎮圧してみろ!」と護良親王が言ったかどうかは知りませんが、鎮圧軍が動き、護良親王と楠木正成が陽動作戦に出ていれば、既に高まっていると見た全国の反幕府勢力が次々に立ち上がるとみているのです。

⑧上:下赤坂城跡は現在は棚田
下:下赤坂城からの大阪の遠望
(左はPLの塔 右奥にあべのハルカス)
そして、レジスタンス活動の活性化こそ、隠岐から後醍醐天皇を救出出来うる唯一の方法論であると構想するのです。河内・吉野を中心に繰り広げられるレジスタンス活動の励振が地方にも広がれば伯耆・出雲の地方豪族も立ち上がり後醍醐天皇を隠岐から救出するはずと。

このシリーズの後の方でまた述べますが、「建武の新政」を革命として純粋に本気でやろうと一番考えていたのは、私は護良親王なのではないかと思います。

◇ ◆ ◇ ◆

で、赤坂城を奪還した楠木軍の次なるレジスタンスの行動を考えた正成は叫びます。

「おし!難波に打って出て、あそこでひと暴れしようぞ!あそこでレジスタンス活動すればかなり目立つ!鎌倉幕府もその気になるぞ!」

写真⑧下のような、赤坂城からあべのハルカス(写真中央より若干右の黒いビル)を遠望しながら叫ぶのでした(冗談)。

そして本当に、この後あべのハルカスあたりに陣を敷くのです(笑)。

かなり現代語・現代建築物と700年前の話がごちゃごちゃしちゃいました(笑)。
そのような乱文の中、ご精読いただき、誠にありがとうございました。

【隠岐・後醍醐天皇御在所跡(黒木御所)】島根県隠岐郡西ノ島町別府276
【十津川・護良親王御在所跡(黒木御所)】奈良県吉野郡十津川村谷瀬1
【下赤坂城址】大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25