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大楠公⑪ ~鎌倉陥落~《第1部完》

前回は鎌倉の第2防衛線に4方面(北から巨福呂坂、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂)から攻撃をしかける新田軍について描きました。(地図①

ところが、流石は武家の首都・鎌倉。その倉のような土地の構造を上手く活用した防衛線は、10万の新田軍をもってしても中々抜くことができません。(地図①参照)

①鎌倉第2防衛線(再掲)

そのような新田勢の中で一人、新田義貞の名誉を考え、鎌倉1番乗りを果たした武将がいました。

大舘宗氏(おおだて むねうじ)です。

彼は、干潮時に稲村ケ崎の先の干上がった海蝕台を廻り込み、由比ガ浜方面から鎌倉内に突入することが出来たのです。

前回はここまでお話をしました。では続けます。

1.十一人塚

義貞は悪い予感がしました。
②十一人塚

その直後、稲村ケ崎の山の上から伝令が義貞の元に走り寄ってきました。

「ご注進!稲村ケ崎 山上から、鎌倉方面を確認しておりましたところ、大舘宗氏殿は鎌倉の稲瀬川河口まで攻め上がるも、寡兵のため幕府軍にさんざん打ちのめされ、潮が満ちて退路が断たれたため討死の模様。」

義貞は分倍河原では助けることに成功した大舘宗氏の救出に、今回は間に合わなかったことを悔やみました。少々軽率なところはありますが、いつも新田のことを一番に考えてくれ、今回も無理に足利の千寿王に負けないで新田勢である自分が一番乗りを果たすのだとばかりに突っ込んで死んだ彼の純な心意気を考えるとやりきれない気持ちでした。

この時、孤立して鎌倉幕府軍になぶり殺しにされた大舘宗氏らは、現在写真②の十一人塚に埋葬されているとされています。(写真②

蛇足ですが、1959年に鎌倉の住宅造成工事の際に、この時の戦いで戦死した多数の武士の人骨が出土したそうです。一部は東京大学人類学教室に運ばれ、鎌倉時代の人々を知る貴重な研究資料として活用されていますが、一部は写真②の中央右側に見える丸い石(写真③に拡大)の下に埋葬されているそうです。大舘宗氏のお骨は東大若しくはここのどちらにあるのでしょうね。私としては、新田義貞のために頑張った彼のことですから、安穏と地中に眠っているのではなく、東大の教室で鎌倉時代を研究する研究者へ骨となっても貢献しようとしている宗氏のような気がします。(写真③
③この丸い石の下に大舘宗氏らは眠っているのか?

2.大潮の日

稲村ケ崎と極楽寺坂の間を行ったり来たりしながら、新田義貞はなんとか鎌倉に突入する方法を試すのですが、流石は頼朝公が選んだ堅固な街、19、20,21日と突入の試行錯誤は虚しく、まだ4方面の切通しどこも幕府軍を打ち破ることに成功していません。

本陣で全体の指揮を弟・脇屋義助に任せ、遊撃隊となって突破口を探す義貞。これは決して義貞が出ずっぱりだった訳ではありません。彼ら新田勢は10万の軍とはいえ、計画的ではない行軍は兵站が貧弱、特に兵糧はどうしようもなく、このまま無為に時間が流れれば新田勢のモチベーション低下は著しいのです。なので、義貞はなんとしてもこの鎌倉攻めを成功させるための道しるべを付けようと懸命なのです。

◆ ◇ ◆ ◇

21日、義貞は、稲村ケ崎周辺の漁師らから異なことを聞き出しました。
それは、最近の月の出方を見る限り、きっと22日は「大潮の日」になるだろうと言うのです。

その漁師の1人に案内され、稲村ケ崎の山上に登った義貞。稲村ケ崎の崖下にまで迫る海は、波濤が白く見える沖までは遠浅で、そこまで干上がるだろうとの漁師の話でした。(360°写真⑬)


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 ④稲村ケ崎の上から撮影
 ※波頭が白く見えるところまで遠浅

一方、新たに気が付いたのは、海上の第2防衛線の三崎や熱海あたりから幕府の水軍も出動してきていました。大舘宗氏の稲村ケ崎突破で幕府軍も反省し、至急軍船を由比ガ浜に集めたのでしょう。軍船から矢を雨あられのように飛ばす構えができているのが分かります。干上がった海岸線上に軍を動かしても、これらの軍船の標的にされる可能性は十分にあります。

義貞はこの状況を見ながら考えこみました。
ーここが鎌倉攻めの最後の切所(せっしょ)。今まで鎌倉の第2防衛線を突破できたのは大舘宗氏だけ。彼の失敗を活かしてやらないと。どうするか・・・。ー

ー鎌倉幕府軍は、なるほど軍船まで出して、稲村ケ崎方面からの攻撃にも重厚な守りを敷いているのは、先に大舘宗氏の稲村ケ崎からの突撃の大失敗が証明している。ただ、奴の死を無駄にしないという考えを基にすれば、大舘宗氏がここを突破したことを完膚なきまでに潰した鎌倉幕府軍は勝利に驕っている可能性がある。そうだ!その可能性に賭けよう!ー

そして、漁師に質問をします。

「大潮の刻限はいつか?」
「月の出が亥の刻(午後10時)過ぎなので、丑三つ時(夜中2時)あたりかと」
「よし。良い潮時だ!」
夜の干潮時に稲村ケ崎の干上がった先を行くのは、大舘宗氏が日中の干潮時に行動するより鎌倉軍から発見されづらいでしょう。特に真夜中ですから。これが義貞の第1の作戦。

言うや否や義貞は、極楽寺坂に飛んで帰り、選りすぐりの千騎馬を編成します。

そして夜を待ちます。

3.義貞の防衛線突破作戦

亥の刻(午後10時)になると、月が出始めました。それを合図とばかりに、極楽寺坂を守る鎌倉軍2万に対し、新田勢2万は猛烈な勢いで攻め始めます。(地図⑤

⑤新田義貞 極楽寺坂&稲村ケ崎2面作戦
実は、これが義貞が考えた作戦の第2なのです。大館宗氏が殲滅したのは、彼らの稲村ケ崎から回り込む軍事行動が目立ち過ぎたのです。鎌倉幕府軍は全力で宗氏を潰したのです。ですので、まず極楽寺坂を新田勢が激しく攻めることで、宗氏の時とは違って稲村ケ崎方面での軍事行動を目立ちにくくしました。

勿論、ここ3日、ここ極楽寺坂の切通しを攻め続けても突破できていないくらい鎌倉幕府軍も極楽寺辺りで鉄壁な構えをなしているので、両軍、一進一退を繰り返します。(地図⑤

⑥稲村ケ崎で太刀投げをする新田義貞
ただ、いつもより新田勢が激しく攻め立てるのは、いつもなら稲村ケ崎方面からの攻撃に備えている鎌倉幕府軍までが加勢に極楽寺坂に行ってしまい、稲村ケ崎方面の守備兵が手薄になることを期待してのことなのです。(地図⑤

そして、丑の刻(午後1時)になると、義貞は極楽寺坂を攻める軍から、日中に編成した騎馬隊千騎を引き連れて、煌々と光る月下のもと、稲村ケ崎へと粛々と駒を進めるのでした。(地図⑤

4.太刀投げ

稲村ケ崎に到着したのが、日中漁師が言っていた大潮が発生する丑三つ(午後2時)でした。

月が煌々と七里ガ浜沖の海面を照らしています。

稲村ケ崎の麓で騎馬隊の隊列を組みなおし、義貞らは潮を引くのを待ちます。
ところが、それから四半刻(30分)待っても、潮はあまり引きません。

義貞の作戦の第3は、稲村ケ崎に潮が引く直前に到着。潮が引いた直後、間髪入れずに千騎が稲村ケ崎を突破。極楽寺坂方面に行ってしまっている鎌倉幕府軍に遭遇せずに、由比ガ浜を経由して一気に極楽寺坂にいる幕府軍の後ろから挟み撃ちにしようと考えているのです。この行軍は幕府軍に見つからない迅速性が非常に大事であり、途中で行軍が停滞するのは作戦の命取りになりかねません。

七里ガ浜の沖合、一艘の帆に「三つ鱗」の紋を付けた鎌倉幕府の軍船が、由比ガ浜方面から月明りの下に現れました。(地図⑤参照)
煌々とふる月明かりで、軍船からこちらの騎馬隊は十分視認できているようです。彼らは急に船上で松明を3つ大きく円を描いて振り始めました。きっと由比ガ浜方面に停泊している他の軍船を呼んでいるのでしょう。(地図⑤参照)

ーまずい!ー
義貞は心の中で叫びます。

ーこれ以上の時間、ここ稲村ケ崎に騎馬千騎も停滞していたら、気が付いた鎌倉幕府軍が動き出す。結局大舘宗氏の失敗の再現にしかならない。かと言ってまだ干上がっていないここを突破することができようか。幕府の軍船は既に気が付いたのだから、あわよく稲村ケ崎を突破できても、由比ガ浜方面へ抜けた途端、軍船からの矢が雨あられのように降ってくることは確実・・・。ー
⑦稲村ケ崎から江ノ島(左)を臨む

義貞は、波打ち際に走ります。そして、やにわに自分が佩している大刀を外すと、頭上高く掲げます。(絵⑥

ー北条時政(北条家初代執権)に「三つ鱗」の紋章を与えし、江ノ島弁財天と龍神よ。あなた方は、北条時政に徳政が続く限りは北条一族の繁栄を約束し、悪政になればすぐに北条一族を滅ぼすと江ノ島の岩屋の洞窟で時政に誓ったことは有名です。今、悪政は世にはびこり、まさに北条を滅ぼす時です。私は源氏の嫡流として、あなた方の代わりに、今これを成そうとしています。私の考えがあなた方の御心にあうのであれば、私の周りから全ての北条の紋「三つ鱗」を遠ざけたまえ!-

と心の中で唱え、江ノ島方向に向かって「えいっ!」とその大刀を海に投げ入れました。
写真⑦


するとどうでしょう。まるで川が流れるように海の潮がザアーっと引いていきます。
「三つ鱗」を帆に付けた軍船も、どんどんと沖遠くへ退かされています。新田の騎馬隊に横矢を浴びせかけるような距離ではないところまで、流されていきます。

「今ぞ!!」と新田義貞は騎馬千騎に叫びます。大きく干上がった稲村ケ崎の先の干潟を走り抜け、由比ガ浜方面を駆け抜けます。やはり予想通りというか、先程の祈りが効いたのか、幕府の稲村ケ崎方面軍も極楽寺坂方面へ応援に行っているらしく、すべての幕府軍の脅威・つまり「三つ鱗」の軍の脅威はこの「大潮」と共に消え去ったのです。
⑧稲村ケ崎に立つ新田勢攻撃の碑

最近の研究で、この5月22日の夜中、大潮が実際に起きたのは2:57からだそうです。つまり義貞らは、その約30分前(2:30)に大潮が起きると予想していたことが、まだ起きなかっただけのことかもしれません。ただ、この予想が外れたことで、太刀投げという神頼みの形をとる時間ができたこと、またちょうどそれを実施した直後に奇跡が起きたように見えたことが、この太刀投げの伝説に繋がったのだと想像できます。(写真⑧

◆ ◇ ◆ ◇

義貞は軍船が遠く去った由比ガ浜を極楽寺坂方面へ騎馬で走りながら、叫びました。(地図⑤

「勝った!!勝った!」

それに合わせ、全騎馬隊も同様に叫び続け、極楽寺坂の南側から、鎌倉幕府軍の後ろをついた彼らは、あっという間に極楽寺坂の幕府軍を掃討しました。(地図⑤

翌朝、極楽寺坂が落ちると、千寿王たちが攻める大仏坂も落ちました。

この日を以て鎌倉府は鎌倉の南西側からのレジスタンス軍によって占拠され、三つ鱗の北条一族は攻め滅ぼされるのです。

5.おわりに

大舘宗氏が干潮時に稲村ケ崎先端からの突破に成功したことにヒントを得た新田義貞。その彼が周到に鎌倉突撃作戦を立て敢行し成功した物語を描きました。

ただ、「太平記」や「梅松論」に記載のある「奇蹟」というのは、潮が引いたことが事実らしいのですが、太刀投げは後日の創作という説もあります。また、今回の稲村ケ崎における最干潮時は午前2:57と吉川英治氏の「私本太平記」の記載から取りましたが、Wikipediaによると午前4:15との説もあります。(ちなみに「私本太平記」は新田義貞の稲村ケ崎突破を5月22日未明とするのに対し、Wikipediaは21日未明としています。)

➈左から江ノ島、稲村ケ崎、富士山(赤い↓の上)、霊山
※手前は由比ガ浜と和賀ノ島
さらには、そもそも稲村ケ崎の干潮時に海側を廻って鎌倉突入したこと自体が虚構で、実際は写真➈の赤いで示した現在の国道134号線沿いを陸路鎌倉入りしたという説まであります。(写真➈

まあ、色々な説が噴出しておりますが、私としてはそれらが多少1時間違ったところで、自分にとっては大した話ではないですし、私は歴史学者ではないので、その辺りは大きな流れさえ変わらなければ良いのだと思っています。

それよりも、その時の新田義貞等の登場人物の心境を、私たちが推し量ることが大事だと思うのです。

写真⑩は、私のFB友達である写真家・紅露氏が稲村ケ崎から撮った写真です。

紅露氏からは、「稲村ケ崎から鎌倉に突入する前の夕方に、新田義貞の軍は、こんな富士山を見て、大変な歴史的な変革活動の中にも、一服の清涼剤を感じたのかもしれません」というお言葉を頂いております。
⑩稲村ケ崎から見た富士山 ※写真家 紅露氏撮影
私は686年前の彼らと今の私達が、このような日本の原風景で繋がって、時代も生き方も違いますが、彼らの心境の一部でも、私達が想像できることを大変嬉しく思います。

もし新田義貞がこの夕景を鎌倉突入前に見ていたならば、やはり突入前に神に成功を祈りたくなると思いませんか?私はそう思い、学説には拘らず太刀投げを私なりに描写しました。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、鎌倉陥落までの話はここまでですが、千早城を守っている楠木正成公はどうなったのでしょうか?この辺りを中心に、また太平記の続きを綴っていきたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《大楠公シリーズ 第1部 完》

【稲村ケ崎】〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1丁目19
【十一人塚】〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1丁目13−22
【極楽寺】〒248-0023 神奈川県鎌倉市極楽寺3丁目6−7