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大楠公⑫ ~最期の日~《特別編》

前回、新田義貞が鎌倉の第2防衛線を海側から突破したことを書きました。

そこでこの鎌倉攻めの話を終わりにしようと考えていたのですが、やはり北条高時の最期は描いて欲しいとのご要望も沢山頂きましたので、番外編として書いてみたいと思います。お付き合いください。

1.逃げない北条高時

さて、何度も出て来る図で恐縮ですが、新田義貞は10万の兵力で鎌倉攻めをおこないました。(地図①

鎌倉は3方が山、南方向が海に囲まれた自然の要害です。
①新田義貞の鎌倉攻撃概要図

②現在の宝戒寺にある北条高時の御所跡
この写真でお分かりいただけると思うのですが、4つの坂で攻撃をしかける新田軍(白い線)10万は、いずれも鎌倉の西方面からの進軍になります。つまり鎌倉の東側の攻撃は手薄なのです。

この時、北条氏の中でも一番家格が高い得宗家・北条高時は御所に居ました。(地図④写真②

得宗家の執事・長崎円喜(えんき)らは、高時に鎌倉の東側、朝比奈切通しから、金沢文庫方面へ逃げることを勧めます。

しかし、高時は応じません。北条高時は、闘犬や田楽舞などにうつつを抜かし、鎌倉幕府を倒した暗君として有名ですが、最後の最期は鎌倉を逃げず、迫りくる新田軍の恐怖と戦いながらも、有終の美を飾ったことは、鎌倉武士の頂点に立つ者らしいと言えるのではないでしょうか。

大河ドラマ「太平記」では高時が鎌倉を離れない理由を、「田楽舞で身を立てる者や闘犬の犬などが自分が居なくなったらどうするのだ?」と高時に説明させていました。つまり、自分がうつつを抜かした道楽に固執する暗愚ぶりを示していますが、それも含めて、やはり鎌倉という街と心中しようとする高時は偉いと私は思います。

さて、時間軸を少し戻します。

2.新田軍の鎌倉進撃

夜中に稲村ケ崎沖から由比ガ浜へ廻りこみ、極楽寺坂の鎌倉幕府軍の背面を衝いた新田義貞。極楽寺坂が堕ちると、なし崩し的に大仏坂も落ちます。ただ、北側の化粧坂と巨福呂坂は負け戦と分かりながらも鎌倉幕府軍が良く守ったため、鎌倉の北側に位置する御所が落ちるにはまだ少々時間があったのです。

稲村ヶ崎から鎌倉の堅固な防衛線を決壊させた新田義貞は、その後由比ガ浜沿いに軍を進め、現在の九品寺(くほんじ)あたりに本陣を敷きます。(写真③

③由比ガ浜近くにある九品寺
稲村ヶ崎から由比ガ浜方面へ出た新田軍の本陣が敷かれた
右の扁額「九品寺」は新田義貞の文字

この由比ガ浜に近い場所から、新田軍は北上し、鎌倉の心臓部である鶴岡八幡宮方面へ攻め寄せるのです。(地図④

④新田義貞軍の鎌倉中心地侵攻(青い矢印)

当時鎌倉中心街は、鎌倉の若宮大路のちょっと東側、大町大路と言われる地域でした。ここに米町、辻町、魚町、名越などの区域があり、それぞれの町屋のあった所と思われ、現在は「町屋址」との石碑が立っています。(写真⑤

⑤町屋址石碑
ここを新田軍に荒らされては、鎌倉の街が焦土と化すと危機感を覚えた鎌倉幕府軍は、その手前の川に掛かる乱橋という橋が最後の守備線とばかりに懸命に守ろうとします。(写真⑥

今でこそ、小さな川ですが、当時は滑川の支流としてそれなりの規模はあったのでしょう。町屋の外堀のような役割を果たしていたのだと思います。
ここでの戦いで、鎌倉突撃に多少手間取ってしまう結果になったのではないかと想像できます。

しかし、それが却って北条高時の最期を有終の美で飾るという機会を与えることになったのでしょう。

3.長崎高重

長崎高重(たかしげ)という武将をおぼえていらっしゃいますでしょうか?

このシリーズの「大楠公➈ ~鎌倉攻め 第1防衛線突破!~」に登場する鎌倉幕府軍側の武将です。彼は北条(桜田)貞国らと一緒に、北関東の新田の荘から鎌倉へ攻めて来る新田義貞らを武蔵野で迎撃するのです。小手指ヶ原や分倍河原の合戦でも鎌倉幕府側の大将として大活躍しました。(絵⑦

ただ、新田義貞らの戦上手と、六波羅探題が足利高氏によって落とされたという喧伝、そして何よりも時代の流れに逆らっても勝ち目はないということを、きっと彼も痛感したと思います。自分がどんどん劣勢に立たされていると絶望感とも戦いながら。

それでも武蔵野での新田軍迎撃は80回余を越えたと太平記にはあります。この絶望的な戦に彼を奮い立たせてきたモチベーションはどこにあるのでしょうか?

彼は代々北条得宗家の累代内管領(執事のような役職)の中でも絶大な影響力を誇った長崎円喜(えんき)の孫です。

⑥乱橋の碑(左)と今の乱橋(右)
川幅が1m足らずに見えるが当時
はそれなりに幅もあったはず
円喜の引退後、その息子・高資(たかすけ)は引き継いだ内管領の権威を更に増長させます。そして収賄等で奥州安藤氏の乱を招く等、今回の鎌倉攻め以前に、御家人たちの反発を煽ったことが、反鎌倉勢力拡大の一つの要因との見方もあります。

執権・北条高時と竹馬の友であった長崎高重は、父のこのような振る舞いが北条高時を窮地に立たせることとなったと、高時に対して負い目を感じていたようです。

ですので、高重は自分は何としてもこの新田義貞の軍を止めたいと考えていました。しかし、鎌倉の第1防衛線である多摩川までの武蔵野で負け続け、鎌倉の第2防衛線である3方の山々も越えて府内に突入してきた新田軍に対し、もう勝てる気はしないのです。

太守(高時のこと)が死ぬ時は自分も一緒に死ぬ。

彼はこの日の朝、高時に武者姿で出陣前の挨拶に参上します。

「今日今一度、敵・新田軍に深く切り込んで参ります。そして高重は必ず戻り、太守の冥途への御伴するときの土産話を持って帰ってきます!」

「高重、必ず戻って来い。高重が戻るまでは何としても高時は死なぬ。」

高重は、その言葉に勇気づけられたのでしょう。
少し笑みを浮かべると、ひらっと馬に跨ります。

供回り150騎程度、分倍河原で万の大軍で戦っていた頃に比べると、精鋭とは言え、何と寡兵なことでしょう。

「者ども、旗指物を捨てよ!狙うは新田義貞の首1つ!」

馬の尻に鞭を当てると、150騎・粉塵を上げながら、脱兎のごとく南へ向かって走り出します。

4.弁谷(べんがやつ)

御所から新田義貞の本陣まではわずか2km程度の距離です。
⑦最後の戦い中の長崎高重

ただ、町屋から乱橋が市街戦の前線になっていますから、新田義貞の本陣をたった150騎で突くには、この前線を正面突破することは不可能です。
一人の武士が長崎高重に助言します。

「町屋の東側を抜け、名越を経て弁谷(べんがやつ)経由で新田の本陣を横から突けば正面突破よりも楽です。義貞の本陣廻りを観察し、手薄になった途端に弁谷から突っ込みましょう。」

つまり今南北に延びる主戦場から若干東側のルートで新田義貞のいる本陣を目指すのです。(地図④参照

高重はこの案を採用します。

当時、この弁谷には崇寿(すうじゅ)寺という、それこそ北条高時が開基した寺がありました。室町時代中期頃まではあったようですが、現在はありません。

唯一、弁谷の石碑にそのことが書かれているだけです。(写真⑧

この寺に入り込んだ長崎高重以下精鋭150騎。彼らは直ぐ西に本陣を構える新田義貞にどう近づくか協議します。

旗指物を下したは良いのですが、この寡兵で新田義貞のところまでたどり着くには策が必要です。

「150騎、新田軍のフリをして新田義貞へ近づく」
「少数とはいえ150騎も旗指物も差していなければ、新田軍が怪しむであろう。すぐに見つかる」

「では、乱橋あたりから、新田軍の死者が持っていた旗指物を奪おう。それで新田軍のフリをして個別に新田義貞本陣に近づく というのはどうか?」
「うーむ、流石に戦死した兵士の旗指物を奪うとなると武士としてかなり卑怯なのではないか」
⑧弁谷の石碑
この辺りに崇寿寺があったこと
が刻まれている

このような議論がしばし彼らの間で交わされたと想像できます。

その時、この騎馬隊の喧騒を聞いて、寺から南山和尚という高名な僧が出てきました。

長崎高重は、ここぞとばかりにある質問を南山和尚へぶつけるのです。

新田義貞の首だけを狙うと言っても、高重以下150の鎌倉武士に生きる望みがある訳ではないのです。功名心で義貞の首をとるならまだしも、これから潔く散っていく覚悟の彼らにとって、小賢しい作戦なぞ生きる美学に反するようにも感じらるのです。本当に必要なのだろうか?彼らは悩みます。そこに仏道の権威である和尚が現れたのですから、尋ねずにはいられない訳です。

長崎高重と南山和尚のやりとりを「太平記」の表現を使って以下に書きます。

「如何是勇士恁麼の事」⇒真の勇士(武士)はどう行動すべきでしょうか?
「吹毛急用不如前」⇒ただ剣を振り前進あるのみ!


これで高重は決心がつきました。

◆ ◇ ◆ ◇

乾坤一擲!

長崎高重ら150騎は、旗指物こそさしていませんが、そのまま西の新田軍の中に移動していきます。高重にしてみれば別に新田軍のフリをしているつもりも無いのですが、新田軍に気が付かれないうちは、なるべく新田義貞の近くまで静かに近づきたいと考えるのでした。そして義貞の眼前でいきなり「覚悟!」とばかりに切りつける、これが理想です。

しかし、長崎高重の顔を知る新田軍は多いのです。特につい最近まで多摩川近辺で何度も刃を交えているのですから。
新田軍の奥、義貞のいる本陣直近に高重らが迫った時、旗指物の無い一群を不審そうに見ていた一人の御家人が高重に問いかけます。

「卒爾ながら、貴殿、長崎高重殿ではござらんか?」

ーここまでだ!よし!-

高重は、大きく息を吸うと大音声で名乗りを上げはじめました。

「平将軍貞盛(平貞盛:平将門のライバル、将門を藤原秀郷と一緒に滅ぼす)より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん」(「太平記」引用)

➈現在の化粧坂(右)と石碑(左)
この名乗りの瞬間からが、南山和尚の言うところの武士の真骨頂です。高重以下150騎、数万の新田軍に囲まれる中、鬼神の如く太刀を振り回し、一騎当千の勢いで暴れます。

「義貞っ!!」と高重は叫ぶと、義貞本陣に少しでも近づこうと刀を振り回し、ばっさばっさと雑兵を切り倒しますが、流石にたった150騎で正面突破が出来るはずもありません。

四半刻(30分)もたたないうちに、既に150騎の精鋭も十数騎まで減りました。
高重も何人斬り倒したか分かりません。4~500人は斬り倒したと太平記では彼自身が言っています。ただ、義貞はおろか、彼と一対一で組もうという骨のある敵武者は現れませんでした。

「殿、太守さまとのお約束の最期(とき)です。もう太守さまのところへお戻りください。我々が血路を開きます!」

と高重の側近たちは、群がる敵兵の一角に身を投じるように切り込んでいきました。

この時既に高重自身も既に体に23本もの矢が突き立っており、重傷を負っていました。
高重は、彼らの切りひらいた敵兵の囲いをなんとか脱出します。そして側近たちは、あっという間に、山のように群がる敵兵に囲まれていきます。なぶり殺しにあうのでしょうが、救出している余裕はありません。

長崎高重は一路、北条高時のもとへと馬を走らせるのでした。

5.東勝寺

一方、鎌倉から逃げることを拒否した北条高時でしたが、化粧坂(けわいざか:写真➈地図①も参照)の守りが破られ、扇ガ谷方面が火の海になると聞くと、御所も危険で、静かに最期を迎える場所としてはふさわしくないと思ったようです。

そこから滑川を挟んだ対岸の山側にある東勝寺に、まだ1000はいる味方と移動します。(写真⑩

⑩滑川にかかる東勝寺橋
この橋は青砥の十文銭の逸話でも有名
脱線しますが、写真⑩の東勝寺橋は、この時より青砥藤綱(あおとふじつな)が滑川に落とした十文を五十文出して人夫たちに探させた逸話でも有名な橋です。この話何故か「太平記」に書かれているのです。どうやら、青砥藤綱を北条高時の父・貞時の時の人として、この逸話を取り上げているようです。

話を戻します。

高時は、寺の厨房にあった酒を全部引っ張り出し、鎌倉幕府最後の宴会をひらきます。

東慶寺に入寺し、今は円覚寺に避難している北条高時の母御前・覚海尼公(かっかいにこう)の使いとして春渓尼(しゅんけいに)も、北条9代の最期を飾るにふさわしい死に方をする高時を見届けに東勝寺に来ています。

酔うほどに、高時は様々な過去のコンプレックスを思い出します。

そもそも生まれてからこの方、母である覚海尼は常に自分のことを案じてくれました。勿論母たる愛情が故に、子である高時を心配してのことなのです。ただ、この手の愛情は逆に子の高時にとっては「あなたはしっかりしていない。人より劣るのよ。」というメッセージを貰い続けることになるのです。そうなると自分もそのように自覚し、自分でセルフイメージを悪くしてしまうことにより、常に劣等感を抱き、生き方に現れ、それを見て母親がまた心配するという負のスパイラルが廻り続けるのです。

勿論、それだけではなく、色々な要素が交じり合って今の高時があると思います。また全てが高時の凡庸に起因するのではなく、元寇以来の鎌倉幕府の衰退という時代の大きな流れが大方の原因なのでしょう。高時が凡庸・暗愚と全ての責を負う必要はないのです。

それらを色々と思い出しながら、春渓尼に酒を注いでもらっていた高時は、急に立ち上がり、周囲を驚かせます。
⑪東勝寺跡
壮絶な北条一族の最期の地

「舞うぞ、春渓尼!」

彼は幕府政治において、先程のセルフイメージの負のスパイラルから抜け出すために、色々な逃避行をしました。一番有名なのは闘犬。次に田楽舞。これらの逃避行はまた高時の暗愚を象徴する遊興だとの批判を受け、負のスパイラルを抜け出すどころか、高時の負のイメージそのものになってしまったのです。

しかし、高時はそんな浅い風評ごときは流していたのでしょう。やはり彼が鎌倉幕府最期の時に選んだもの。それは田楽舞でした。(絵⑫

世のかぜが酷い故と鎌倉の烏(からす)は言ふ。
烏に似たる天狗ども。
谷(やつ)の穴にや巣食うらむ・・・
天狗、天狗車
人の世の人を嫌って
天狗が廻す
此の世車・・・

扇子をヒラヒラと見事に歌に合わせ、まるで自分が天狗と一緒に宙に舞っているかのような軽やかな舞です。

これはかつて楠木正成が天王寺に陣を張る宇都宮公綱を惑わした時に、生駒山中から天狗のような声が聞こえたという伝説(拙著ブログ「大楠公⑥ ~正成の心理戦~」をご参照ください)に由来します。またちょうどその頃、京では妖霊星(ようれいぼし)という天下が乱れる時に現れる怪奇現象を、天王寺の天狗伝説と一緒に京童(きょうわらべ)たちが歌い流行ったものが、鎌倉にも流れてきたものなのです。

⑫妖霊星を踊る北条高時
(画:月岡芳年)
これに高時が思うこと、言いたいことを即興で加え舞ったのですが、いつしか酔いが廻ってきた高時には、本当に宙に天狗が見えたのでしょう。世俗の全てを忘れ嬉しそうに宙を見上げて天狗らと舞う高時。顔の険が取れ、晴れ晴れした高時の表情をはじめて見た周囲の者たちは、皆泣きました。彼が北条得宗家にさえ、生まれてこなければ・・・。

6.長崎高重の帰還

その時、ボロボロになり抱きかかえられながらも武装姿で高時の前に現れた武者がいました。
武者は恍惚と踊る高時に、腹から絞り出すような声で

「太守!」

と叫びます。声の主は、そう、長崎高重です。

◆ ◇ ◆ ◇

なんとか敵の追従をかわし、東勝寺に戻ることができた長崎高重らは、たった8騎だけでした。東勝寺はまだ戦火に晒されず無事です。ただ新田軍の侵攻は、乱橋を突破した今、滑川沿いに鶴岡八幡宮の二の鳥居あたりまで迫っていますので、ここが火の海になるのは時間の問題です。

23か所の矢が突き立ち、数か所の刀傷を負った重傷のまま、8騎の同志に抱きかかえられながら帰還した高重ではありましたが、北条高時の前ではしっかりとしています。

◆ ◇ ◆ ◇

「太守!」
「敵大将義貞の首級をとること敵わず、申し訳ございません。20数回に及び義貞が本陣へ切り込みましたが近づくことは出来ませんでした。代わりに雑兵らの首400~500はあげたのですが、一方で太守の御身が心配となりとって返した次第です。」

これを聞いた北条高時は、現実に引き戻されます。彼は扇子を帯に収めると

「高重、よくぞ戻った。今朝敵中へ馳せ入る前に、『どんなことになろうとも、もう一度帰参し、お側で一緒に相果てる』との約束を守ってくれたことの方が、義貞の首級を持ってくるよりどんなに嬉しい事か!」
「高重、高時はソチが冥途へ御伴するために帰参してくれたことから、これからすることの覚悟は決まった。じゃが高重。笑うが良い。ワシは正直自害が怖いのじゃ!この寺が焼け落ちるまでずっと舞っていたいのじゃ。」

高時の話を聞いている高重は、重傷のためゼイゼイと激しく過呼吸をしながら耐えているのですが、聞き終わると、ニヤッと笑い高時を見上げ言い放ちます。

「太守!」
「早々に御自害なさいませ。高重が先に手本をお見せいたします。」

と言うやいなや、鎧を脱ぎ、傷だらけの上半身を露出します。そして太守の前にあった大きな盃を取り上げ、取巻きになみなみと酒を注がせ、3回程飲み干すと

「酒の肴にこれを!」

と左の脇腹に小刀を突きたて、右の脇腹まで切目長く掻破りました。
そして中なる腸を手掴みで引っ張り出し盃に盛ると、そこで力尽き突っ伏しました。

7.北条高時の最期

一瞬のことでしたが、あまりに壮絶な長崎高重の最期。数分前まで世俗を忘れ、田楽舞を舞っていた高時の酔いは吹っ飛びました。

周囲の女子たちから嗚咽も聞こえてきます。

そんな中で春渓尼は、先程の舞の時から微動だにせず高時を見つめていました。

うつろな目で四囲を見回す高時。春渓尼の険しい目と目が合います。

「お覚悟を」

春渓尼は静かに言います。

「うむ・・・」

突っ伏している長崎高重が右手に握りしめていた小刀を、彼の手の指一本一本を開きながらゆっくりと取り上げようとします。

⑬東勝寺 腹切りやぐら
東勝寺に1000人で来た北条一族・郎党らは、今は900人弱まで減りましたが、それら全員固唾をのんで高時の一挙手一投足を見守ります。時々寺の西側で、鬨の声や叫喚が聞こえますが、まるで現世のものではなく、遠い世界のように聞こえ、東勝寺は静寂につつまれているようです。全てがスローモーションのようです。そこに居るもの皆、頭の中は空となり、ただただ高時の行うゆっくりとした動作を音の無い映像をみるかのような感覚でその映像を脳の奥へと運んでいるような感覚に陥っているのです。

ズバッ

急に見えている映像に音が戻ってきました。

「伝えよ・・・母ごぜ、これでよろしいかと・・」

春渓尼が、お腹に小刀を突き立てた高時の目を見て、わずかにほほ笑むのが分かります。
高時も少し笑いかけましたが、そのまま前に突っ伏しました。

「太守!」

次々と高時の後を追います。まるで高時に置き去りにされて、この場に残る方が苦しくて仕方がないような雰囲気があたりに充満していたのです。

パチパチと火の手があがる音も聞こえてきました。高時の側近の誰かがこの後追いの場所を敵に見せたくないと考えたのかもしれません。まだ新田軍が到着する前に東勝寺は炎上し始めました。

8.おわりに

⑭腹切りやぐら
東勝寺は2日2晩燃え続けたそうです。その焼け跡からは、男女とも正体の分からない遺骨は870余程見つかりました。鎌倉幕府開闢以来、これだけの規模の集団自害はここ東勝寺だけです。(写真⑬

東勝寺が鎮火した日の朝、新田軍が手を付けなかった北鎌倉方面の円覚寺の一院で、高時の母・覚海尼公と春渓尼が、5月の鳥たちのさえずりの中で、姿を並べて自害していました。その二人の表情は従容として、特に母・覚海尼公は少し笑みをすら浮かべていたと言われています。

◆ ◇ ◆ ◇

この鎌倉攻めにおける鎌倉中での総死者は6千余人に上りました。

その最後の舞台となった腹切りやぐらには、小さな供養塔が1つあるだけです。(写真⑭

私たちがそこを訪問した時には、とても870余の人が、ここで集団自決をはかったような凄惨な感じを受けませんでしたが、いつも何故かジメジメとし、夏でもひんやりとしている場所であることから霊気を強く感じる方もいらっしゃるようです。

怖かったですが、私もこのやぐらに体を入れ、高時や高重に想いを馳せて、外の世界を見てみました。(写真⑮

高時の一生は、優秀とされた彼の父親である執権・北条貞時と比較され、暗愚・凡庸と評され続けたコンプレックスの塊だったことは確かでしょう。勿論、母親の「心配」という愛情の現れが、もしかしたらそのコンプレックスを増大させたかもしれません。一説には北条家の近親交配が続いたせいで奇形児だったのではないか等の噂もある程、なにかにつけ可哀そうな高時です。

ただ、やぐらから高時の霊の気持ちになって世界を見てみれば、そのような彼の気持ちの片鱗でも分かるかと思いましたが、あくまで木々の緑は青く、この世界は美しい以外の感慨はおぼえませんでした。

⑮腹切りやぐらからの景色

考えようによっては高時と一緒に冥途に旅だってくれる長崎高重がいたこと、いくら主従といえども、一緒に死んでくれる仲間はなかなかいませんよね。勿論高重だけでなく870余人の中にも高重と同じ気持ちの人がいたかもしれません。それだけで北条高時は、最期の最後に自分の人生に満足できたのかもしれない、それを母・覚海尼公は春渓尼から聞き、安心して息子・高時の後を追えたのかもしれないと想像し、東勝寺の腹切りやぐらを後にしました。

長文、ご精読ありがとうございました。

【宝戒寺(御所跡)】〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町3丁目5−22
【九品寺】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座5−13−14
【町屋址】〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町2丁目3−2
【乱橋】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座2丁目8−41
【弁谷の碑】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座6丁目9−23
【化粧坂切通し】〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目14−7
【東勝寺跡】〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町3丁目10−1