昨今、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKで2年間に渡り、放映されたお蔭で、つい最近まで、正岡子規についても世間での関心が高まっていたようですね。
私も高校生の頃は、この小説のファンで色々と調べて歩き回りました。
その頃は、3人の主人公であるうちの2人秋山兄弟の陸海軍での活躍ばかりに目が行き勝ちでした。
若くに亡くなり、また詩の世界で有名となった正岡子規にはあまり目が向きませんでした。
しかし、当時若くして、紀貫之をこきおろし、万葉世界を褒め称えて、自分で写生主義を実践して行った生き様を見て、「こいつ絶対血液型B型やな!」と思ったりした事を覚えております。(B型の方、すみません。ちなみに私もB型です。)
さて、前振りが長くなりましたが、今日はこの正岡子規が、東京にて文学活動を繰り広げると同時に、闘病生活の中心となった子規庵を訪問しました。(写真右上)
【※写真はクリックすると拡大します。】
鶯谷か日暮里で山手線を降り、根岸というところまで歩きます。
この昔懐かしいサザエさんの家のような佇まいからは想像できないかも知れませんが、廻りはラブホテルだらけで、子供3人連れて行った私としては、少々戸惑いました。
結構歩いて、子規庵に到着しました。
旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋だったもののようで、高級住宅ではなかったようです。
勿論今この土地にこれだけの庭付きの平屋が持てれば、贅沢な話なのですが。
明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進したようです。
間取りは、右の図のようになっています。
上記写真正面8畳の座敷、右側、ヘチマ台が見える奥に左下の写真のような書斎6畳が一つ、この書斎の奥に4畳半の部屋(今は受付になっています)、3畳茶の間(今は展示部屋)とトイレというものでした。
お風呂は付いていません。その当時は銭湯が当たり前だったようです。
この10~12畳の部屋と6~8畳の書斎の間の襖を外して、門弟たちと病床に伏せる子規とは、歌会だ宴会だと盛り上がったようです。
右の写真で、私の家族が記帳している文机も実際に子規が使っていたものです。
右下の写真が中から写したものですが、ここに写っている机の手前が四角く切り取られているのが分かります。
これは子規が脊椎カリエスという病気で、左足を伸ばして座る事が困難であったため、それでも左足を曲げて座って執筆が出来るように、左足がぶつかる部分を切り取ったそうです。
ヘチマ台は、子規が病床からいつも眺めていたもので、辞世の歌もこのヘチマを題材にしています。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「痰(たん)一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をととひの へちまの水も 取らざりき」
当時、へちまの水は結核に良いとされていたようです。
子規はこれを「まじないみたいなもの」と理性的には信じていないような記録もありますが、やはりどこか藁をもすがるような気持ちがあったのでしょうかね?
最後の歌には、ヘチマの水を信じているような感じがあります。
この一事を見ても、実は子規は、当時の廻りが評価するほど、写生主義一徹に拘っていなかったのではないでしょうか?
「古今集」の代表的な歌人である紀貫之をこきおろし、百人一種の藤原の定家まで馬鹿にした強気ぶりも、ある意味、世間が作った子規の虚像であり、実際の子規は、このヘチマの件を見ても分かる通り、「理だけが全てではない大切なものが人にはある」と信じていた優しい人のような気がします。
今回高校生の娘を筆頭に、子供3人を連れて行ったのですが、子規庵の来訪者は私の年以上の年配者が多かったです。
なので、子規庵の解説者(ボランティア)の方が、若い学生が来たので張り切って色々と説明してくださったので、ラッキーでした。
皆さんもお子様連れで来訪されることをお勧めします。ただし、子供には色々と「お嬢さん、この写真の子規は機嫌がいいと思いますか?それとも悪いですか?」等と質問責めに合い、ちょっと引き気味でしたが・・・
子規庵から日暮里駅に帰る途中に「羽二重団子」を出してくれる茶店があります。
これは「坂の上の雲」にも出てくる子規が大好きだった茶店で、ドラマでも秋山真之役のモックンが、小説に出てくる以下のやり取りを再現していました。
真之「めしがあるかな」
小女(給仕さん)「団子ならありますよ」
真之「鶯横丁はすぐそこじゃな」
小女「半丁ほどむこうです」
真之「正岡子規という人の家があるのが知っておいでか」
小女「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
このお店、こじんまりしておりますが、庭が右上の写真のように大変綺麗に出来ておりました。
羽二重団子と、抹茶を頂きましたが、大変美味しかったです。
子規もこの店の団子は大好きだったようで、彼の「仰臥漫録」の9月4日、亡くなる半月前の記録にも以下の記述があります。
間食 芋坂団子を買来らしむ(これにつき悶着あり)
あん付3本 焼1本を食ふ
多分、悶着は当時、子規を看病していた妹の律さんとの間で、病気なのに大食な子規と揉めたのでしょうね。団子の量多いですよ。1串4団子ですよ。4串は病人の食べる量ではないですね。
これを律さんに買いに行かせたことで揉めたのかな?なんて想像しながら、我々も美味しく頂きました。
ご精読ありがとうございます。