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お三の宮 ~吉田新田と人柱~

吉田新田が出来る前の横浜
今回は、横浜市のネイティブであれば、小学生の時に必ず社会科で勉強する吉田新田について書きたいと思います。

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1.吉田新田が出来る前の横浜

吉田新田の概要をご説明します。右図は、吉田新田が出来る前の、大きな入り江の絵です。この入り江を、1654年から、吉田勘兵衛が埋め立て、今の横浜の心臓部に当たる場所を作り出したのです。

元々、横浜という地名も、この絵の左下にあります「横(に出ている)浜(はま)」ということから付いたようです。今の山下公園の辺りですね。

今のJRの3つの駅分はこの釣鐘型の口のところの距離である訳ですから、如何に大きな土地を埋め立てたか分かると思います。

関が原の戦いが終わって間もない頃の江戸時代初期に、これだけ大規模な埋立事業が出来る程、土木技術の進歩や、事業を起こす仕組みが出来上がっていたとは流石文明国家日本という感じです。

ちなみに、この頃はまだイギリスも産業革命前ですから、多分日本の技術というのは世界的にみてもかなり進んだものだったに違いありません。

明暦の大火(振袖火事)
2.吉田勘兵衛

1654年に埋立てが開始された吉田新田は、吉田勘兵衛という材木商が事業として開始した訳ですが、吉田勘兵衛という男、どうも江戸が開けて以来の有名な「明暦の大火」で儲け、事業資金をなしたらしいです。

脱線しますが、明暦の大火は、あの江戸城の天守閣が無くなってしまう程の大火事で(その後も今に至るまでこの天守閣は再建されません)、江戸の大半がこれで焼け落ちてしまったようです。

明暦の大火、ローマの大火、ロンドンの大火と世界三大大火であり、また火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものです。

復興には当時の建造物の主体である材木が沢山必要になるので、一大事業として吉田勘兵衛も取り掛かり、吉田新田への投資元を築いたという訳です。

さて、この吉田勘兵衛さんは、吉田新田以前にも、南千住の辺りで干拓事業を実施しております。

バス停も「お三の宮」
ただ、その干拓地では幕府から名字帯刀をゆるされ、社を築く権限を与えられる1000石の禄高を収穫することが出来なかったため、この横浜の地で、再チャレンジを試みたのです。

この時吉田勘兵衛49歳。江戸時代では既に隠居していても良い歳ですが、頑張りましたね。年代が近い私も見習いたいところです。

そして、この埋立事業はかなり苦労しました。

地図上、釣鐘型の土地の頭のところに流れ込んでいる大岡川が、結構氾濫したようで、この氾濫で河口にある干拓作業中の潮除堤が殆ど押し流されてしまう等、工事は難航を極めました。

これを抑えるために当時の技術の全てを投入して、この一大事業を9年もの歳月を掛けて完遂しました。

3.お三の宮

正面の護岸から先が吉田新田
大岡川が2つに分かれている
そういう高度な技術を持って造った吉田新田にも係わらず、なんて原始的で野蛮なことをするのだろうと驚いたのが、今回の「お三の宮」です。

お三の宮は、吉田新田の一番埋め立て始めの地点、現在の地下鉄吉野町駅の辺りにあります。

吉田新田の真ん中を走る道路(新田開拓当初から昭和40年代までは川でした)沿いのバス停の名前も右上の写真のように「お三の宮」となっています。

丁度、この辺りは、吉田新田が出来る前の汀(なぎさ)にあたる場所です。

まさに先に書いた大岡川の河口辺りの汀ということで、川の氾濫時期に潮除堤を壊しまくった箇所ということになります。

日枝神社(お三の宮)
右上の写真は、大岡川が吉田新田にぶつかり2つの川(大岡川と中村川)に別れる箇所の写真です。先のバス停の直ぐ近くです。

工事が一番難しかったところに、お三さんが人柱となって入水したところから、お三の宮なる名称が出来たのでしょうか?

お三さんについては、過去、色々な伝説がありましたが、大正時代に『烈女お三』と題した小説が、神奈川新聞の前身『横浜貿易新報』に103回に渡り連載され、これを今の伊勢佐木町の日活劇場の前身である喜楽座で上演し好評を博したことに始まり、その後も阪東橋の劇場等、昭和初期にかけて何回か上演されたことから、有名になりました。

簡単にあらすじを書きます。(一部想像で書いている部分もあります。)

お三さんは武家の娘さんで、江戸に住んでおり、両親が決めた許婚の武士が居ました。

明暦の大火で両親を失い、許嫁だけが頼りだったのですが、何故か許婚は、某藩士に暗殺されてしまうのです。

敵討ちを誓うお三さんは、甲州(山梨県)の身延山に必勝祈願に行くのですが、ここで同じく吉田新田成功を祈願しに来た吉田勘兵衛と出会います。

お三さんの入水場所?
釣りしている人がいます
お三さんの敵討ちの志に感動した勘兵衛さん、どうやったのかは分かりませんが、何某かの助太刀をし、見事お三さんは敵討ちを果たし、えらく吉田勘兵衛さんに恩義を感じていたということです。

いつかは恩返しを、と考えていたところに、実は新田開拓にかなり苦戦かつ腐心しているとの勘兵衛の話を聞いて、お三さん

 「では、私が人柱になって氾濫から新田を守らせてください。」

勿論、勘兵衛さんや周りも皆で止めたのですが、そこは烈女、言い出したら聞きません。自分で懐刀を取り出すと喉を突いて死のうとしたので、その意志の固さに、周りも諦めたとのことです。

さて、人柱となる当日、何故か海は荒れ果て、大岡川は氾濫しそうで、またもや完成間近の防潮堤が崩壊しそうなありさまでした。

 お三さんは、白装束で、大岡川の河口にある日枝神社にて、吉田勘兵衛を含む工事関係者と新田事業の祈願をした後、大岡川河口の汀から、後ろを振り向かずに、嵐の中の浪間にザンブと入ったかと思うと、後には白装束だけがゆらゆらと、浪間に浮かんでいたと云います。

不思議なことに、その直後から、嵐は急激に収まり、干拓建造物は無事に難を逃れることが出来ました。また、お三さんの亡骸は出てきませんでした。

それから、大岡川の氾濫などに邪魔されることもなく、新田開拓は順調に行ったということです。

ちなみに、「お三の宮」というのは、この人柱になる前に願を掛けた日枝神社のことです。
横浜開港当時の吉田新田と太田新田

4.その後の吉田新田

その後の吉田新田ですが、勘兵衛さん、やりました。1000石以上の収穫を上げることができ、見事苗字帯刀を許されたようです。

既に、材木商として巨万の富を稼いでいた勘兵衛さん、名誉も手に入れた訳ですが、かなり信心深い方でもあったようで、まあ、この時代の人の逞しさを象徴したような方ですね。

目標達成後、吉田氏は代々この吉田新田に住まわれ、現在は不動産産業をされていらっしゃるのだそうです。横浜人の誇りのご一族ですね。

さて、現在の横浜の礎となった吉田新田ですが、実は右下図のように、埋立てたのは現在の関内駅より西側の部分だけだったのですね。

大発展した現代の吉田新田
(球場より上部の部分)
つまり、ハマスタや市役所等は、日米通商条修好条約が結ばれる幕末まで海の中。

日米通商修好条約が結ばれ、関内(関の内)ということで、外国人を住まわせるために、太田新田というのが、吉田新田以後、200年近く経って造られました。

その第1段で、埋立てたのが、今の中華街の辺りなのですが、見てわかるように斜め45度の作りになっていますね。

簡易船を陸揚げするのに楽なように、このように斜めにしたのだと思われますが、これが中華街となってからは、どうも道に迷いやすい街並みになってしまったようです。

そして、現在の吉田新田が右の写真です。(ちょっと古いですね。昭和40年代かな?ハマスタがその前の平和球場ですし、地下鉄が走っている真ん中の通りが、まだ河になっています。)

吉田勘兵衛さんも、横浜がここまで大発展するとは思ってなかったでしょうね。

5.最後に・・・

このブログの最初に、何故、干拓技術の進んでいた時代に人柱という野蛮な行為が行われたのか不思議であると書きました。

そして、調べれば調べる程、お三さんが、何故それほどまでに人柱になりたいと思ったのか、十分に納得することが出来ませんでした。

下衆の推測ですが、そこまで自分の命を捧げることが出来るのは、彼女が吉田勘兵衛なり、この横浜のだれかを愛したりでもしていない限り、とても出来ないことではないかとも考え、色々その線で調査はしたのですが、残念ながら、そのような事がちらとでも見える資料や事象は見当たりませんでした。

代わりに、お三さんは実は伝説の人で、本当は居なかったという説が見つかりました。「お三の宮」と呼ばれる日枝神社は、住所が昔も今も「山王町」であり、近隣の方々から、「お山(さん)さま」と呼ばれていたとの説があります。

また、この神社に吉田勘兵衛が干拓成就を祈念して、起請文をこの神社に収めているので、その話と「おさんさま」が入り混じって、伝説化されたとの説もあります。

もしかしたら、伝説なのかも知れません。では何故このような人柱伝説が出来たのでしょうか?

ちょうど、江戸時代のこの時期は、かなり近代的な技術が発達し、行政も理路整然としっかりして安定的なものとなってきました。(江戸時代という260年間この行政機構が続くのですから)

そういう時期は、怪談話や人情話等が、合理的なものの精神的圧迫の裏返しとして、人々の間に広まりやすいのだと思います。

心中ものが流行ったのもこの時期ですし、また先にお話しした明暦の大火も「振袖火事」のような怪談めいた話があります。

お三さんが人柱となった箇所の
大岡川を泳ぐボラの稚魚
お三さんの人柱も、全くの作り話ではないかもしれませんが、考えようによっては、こんな巨大干拓が出来る技術の裏返しとして、このような涙を誘う人の話が出来たのかも知れません。

皆さんはどう思われますか?

事実は、全て日枝神社と大岡川が知っていますね。お三の宮のすぐ横の大岡川を泳ぐボラの稚魚たち(右写真)なら、何か知っているかもしれないと思いつつ、大岡川のほとりを歩いて、みなとみらいに向かいました。

それではまた!最後までお読みいただき、ありがとうございました。