①上 北条夫人 下 早川殿 |
小田原の北条氏康です。
北条氏康の娘二人、武田勝頼に嫁いだ北条夫人と、今川氏真に嫁いだ早川殿です。(写真①)
この二人の旦那の名前を聞いただけで、「滅びていった残念な武将達」と思われる方もいらっしゃると思います。
両者とも父親が戦国大名として有名かつ素晴らしいだけに、どこか頼りなく、物足りない人物に感じるかもしれません。
しかし、この二人、ともにこの氏康の二人の娘たちから、しっかりと愛されています。
どうしてなのでしょうか?
また、二人は滅び方が違うのです。夫婦は似ると言いますが、奥方二人を分析することによって、二人の滅び方の違いについても検証してみたいと思います。
前置きが長くなりました。まずは、北条夫人からです。
1.武田家の危機
さて、北条夫人、1577年に、なんと14歳で勝頼の正室に輿入れして来ます。
この時、勝頼32歳の男盛り、既に亡くなっている前妻との間に信勝という11歳の長男が居ます。勝頼より信勝の方に夫人の年齢は近いですね。(写真②)
②勝頼家族 上:勝頼 左下:北条夫人 右下:信勝 |
出動した1万7千人の軍のうち、甲斐に帰還したのはたったの3千人、しかも信玄を支えた重臣たちを軒並み失い、戦国最強軍団武田家の基盤が揺らぎます。
この戦いの直後、信長が家康に「朽木のように、武田はこれからどんどん内部から朽ちていくので、当面手出ししない方が上策」と言って、放置している最中なのです。
勝頼、かなり自信を無くしていた時期と言えましょう。
敗北直後、信濃の駒場まで迎えに来たのは、高坂弾正です。彼は、武田家家臣の中で、上杉謙信の抑えである川中島の近くの海津城を守っていました。
この時、弾正は勝頼に武田家建て直し案を献策します。
(1)北条との同盟を強化し、織田・徳川連合への対抗勢力として結束すること
(2)戦死した重臣の子弟を奥近習(勝頼の直近部下)として取り立てること
(3)戦場を離脱した武田家親族の穴山梅雪らの切腹を命じること 等
しかし、この中で、勝頼は(1)しか実行しませんでした。同盟強化策として、北条夫人が勝頼の元へと嫁いで来たという訳です。
この時、勝頼が英断を持って(3)を実行していたら、武田家の滅亡は逃れられたかも知れません。
③信玄公祭りの勝頼隊 「大」の旗印の元、沢山の北条夫人が? |
余談ですが、穴山梅雪は武田姓を名乗っても良い程の親族であったため、実は勝頼に見切りを付け、武田家再興のために、裏切ったとの説もありますが、結局巧妙に、本能寺の変のドサクサに紛れて、穴山梅雪は、暗殺されてしまうのです。
結局は主家を裏切ったことしか出来ず、武田家にとっても穴山梅雪自身にとっても残念でなりません。
話戻りますが、また、この(3)のような手厳しいことが出来れば、後に武田家滅亡のきっかけとなる木曽義昌になめられて、謀反を起されることも無かったかも知れません。
この時自信を無くしていた勝頼の限界だったのでしょうか。
そんな勝頼にとって、この可憐なまだ少女である夫人は心の安らぎだったと思います。
また、ちょっと自信を失って、憂いを持つ勝頼は、まだ少女である夫人にとっても理想的な男性に見えたかもしれません。
お互い、武田家が危機であればある程、絆を強めるタイプだったのでしょう。
④諏訪大社 下社 |
勝頼と夫人は、諏訪大社の落成式に新婚旅行を兼ねて一緒に行きます。(写真④)
多分、この時が夫人にとって短い勝頼との結婚生活の中で、最良の時だったでしょう。
この頃、夫人は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な、武田家菩提寺の恵林寺、快川和尚と会っています。
この時の夫人の印象を、快川和尚は、香草の「芝蘭(しらん)」に例えています。
北条夫人がそこに居ると、居合わせた人達が香しい中で段々と皆良い雰囲気になるような、素晴らしいムードメーカーだと評しています。これは、香草は香の芯を内に秘めているのと同様に、彼女の内に秘に何か強い芯があることを示唆しているとの説があります。
弱冠14歳で輿入れしてきた彼女も、やはり氏康の娘、秘めたる芯は強く、勝頼の最期に向い、この性格が色濃く出で来るのです。
3.武田八幡宮への願文
⑤勝頼の新府城(韮崎市) 設計は真田昌幸が担当した |
色々と経緯はありましたが、信長の想定どおり、木曽義昌は勝頼に反旗を翻します。
これは武田家側に大きな痛手となります。義昌の正室、真理姫は、勝頼の妹なのです。勿論義昌の母親も、当時新築したばかりの新府城(写真⑤)に人質として預けられているにも係わらず離反したということは、相当勝頼の将来が無いと踏まない限りできない所作です。
勝頼は、木曽義昌の討伐軍を出しますが、織田・徳川と木曽義昌の連合軍は、木曽と信濃の国境でこれを撃退し、信濃への連合軍の侵攻が始まります。
これで歯止めが利かなくなりました。武田家臣団の離反が後を絶たない最悪の事態となります。朽木がボロボロと崩れ落ちていくようです。
この時、夫人は19歳。新府城に居ましたので、近くにある武田八幡宮に願文を捧げます。
武田八幡宮は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の息子、武田王を祀った祠が起源で、平安時代末期、新羅三郎義光(源義光)のひ孫である信義が、この社前で元服し、武田王にあやかり、武田信義を名乗ったことから武田家が始まった、いわば武田家の聖地です。(写真⑥)
⑥武田八幡宮と北条夫人の願文碑 |
《願文 訳》
八幡大菩薩さま、この国の主として、武田八幡太郎(八幡太郎義家、義光の兄)の代より、代々お守頂き、誠にありがとうございます。
さて、ここに不慮の逆臣(織田信長や徳川家康の事)が出て、この国(甲斐)を悩ましています。
これに対処すべく、勝頼は運を天に任せ、命を投げうつ覚悟で敵陣に向かいました。
しかし、その家臣や士卒たちは利が得られないと思うのか、その心はまちまちで、一致してこの難局に当たろうとしておりません。
特に木曾義昌は、神の御心に背いて逆臣に内通し、哀れにも父母を捨ててまで、謀叛の兵を挙げました。
これは自ら人質の母を見殺しにしただけでなく、甲斐の民の苦悩を増長し、かつ神の御心をないがしろにするものです。
そもそも勝頼にどうして悪心などがありましょう。
無念の焔(ほむら)は、天に昇るほど、憤怒は増々深く地に穴を開けるほどです。
私も勝頼と共に悲しみ、只々涙が溢れ続けるばかりです。
神慮天命というものが本当にあるのでしたら、反逆の家臣たちに対する私たちに、どうかご加護を下さい。
今この時、信仰の気持ち、神に対する慎み深い気持ちを強く感じています。
しかし、悲しくてなりません。
神様の御心を本当に下されるのであれば、運命が時に至るとも、神の力を勝頼に与えて頂き、敵を四散させてください。
この兵乱が終わり、元の長寿で子孫繁昌の世の中が来ます様に。
これらの願いが成就したあかつきには、社壇、御垣を建て、回廊も建立致します。
どうぞ宜しくお願い致します。
源勝頼 うち(内とは夫人のこと)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
⑧「王仁(わに)塚」の桜 |
現代で言えばまだ未成年の女性ですが、この願文から、只々世情に流されていくという弱さよりも、芯の強い性格を感じます。
武田八幡宮の近くに「王仁(わに)塚」の桜という名木があります。(写真⑧)
この桜の木、美しくかつ儚く散らし続ける桜の花は、どこかこの夫人の「涙が溢れ続ける」様子のようですが、写真のように、広い野原に1本だけ立つ姿も、夫人のように、気品と、うちに秘めたる強さのようなものを感じることが出来ます。
この桜の名木が夫人の生まれ変わりではないかとさえ思えました。
⑨高遠血染めザクラ 仁科五郎盛信以下城を枕に全滅した兵士の血で 普通の桜より赤みが強いと言われる |
4.天目山へ
このような決死の願文も虚しく、崩壊する武田家臣団の中で、唯一、武田を裏切らず、織田・徳川連合軍の城明け渡しに応じず、連合軍の10分の1の兵力で戦っていた仁科五郎盛信の高遠城が全滅します。
盛信以下全軍、城を枕に討死したとの悲報が、新府城にいる勝頼に入ります。
(詳細は「松姫と八王子① ~武田家の滅亡~」参照)
勝頼は、最後の頼みの綱である高遠城が落ち、穴山梅雪のような影響力の大きい親族家臣も裏切る等、裏切りの連続で崩壊する家臣たちの現況、かつまだ完成しきっていない新府城で、破竹の勢いで迫る織田・徳川軍を迎え撃つのは無理と判断します。
先程、勝頼は穴山梅雪を切腹させなかったのは失敗だったと述べましたが、彼は、またこの落ち延び先の城を選ぶに当たっても、武田家と古くから姻戚関係がある小山田信茂を頼ってしまったことが、更なる失敗で、滅亡へのトドメとなってしまいました。
どうしても親戚等の身内を頼ってしまうことが仇となってしまったようです。
さて、甲府盆地の東端まで落ち延びて来た勝頼らは、これから小山田信茂の領地に入ろうとする現在の中央自動車道の笹子トンネル辺りで、岩殿城からの城兵たちから矢を射かけられます。
なんと小山田信茂も裏切っていたのです。
もはやこれまでと、勝頼は笹子トンネルから北東にある武田家とゆかりの深い天目山を目指します。新府城を出発した時には700人居た家臣たちも、次々に逃亡し、既に50人を切っています。
⑪「環甲の礼」を行った松 |
天目山であれば、武田の最期の地としてふさわしいこと、また山奥なので、少人数でも敵と戦い易いことから選定したのでしょう。
しかし、途中の田野という川(日川)沿いの場所で、織田方の滝川一益の別働隊が、もうすぐそこまで来ていることを知り、勝頼はここで、甲州を治める権利を信勝に継承する「環甲の礼」を行います。(写真⑪)
具体的には、武田家代々から伝わる「御旗」(写真⑫)の前で、後継者たる信勝に新羅三郎義光から伝わる「楯無」(写真⑬)を着せます。そして、武田家が次の世代に継承されたことを祝い、宴を開きます。
勿論、皆、これが最期の別れの宴と分かっています。
勝頼は、「環甲の礼」を行うことで、せめて信勝が武田家惣領として死ぬ栄誉を得ることが出来るようにと考えたのでしょう。武将らしい親の愛情がうかがえます。
この時、勝頼は、北条夫人にも、最後の配慮を見せ、実家である小田原城の北条氏政の元に帰るよう説得します。
しかし彼女は言います。
⑫御旗 |
「勝頼殿と手を取り合って三途の川を渡ります。そして生まれ変わり、もう一度会いましょう。」
まだこの場で北条氏政を頼って逃げれば、先のブログで書いた松姫のように逃げ切ることも出来たでしょうに・・・。
やはり彼女は芯の強い女性でした。
彼女は、お供の者たちに、立派に自害したことを小田原に伝えてほしいと、辞世の歌(以下)と一緒に、自分の黒髪を一筋渡します。
夫人の「果てしなき思い」とは何だったのでしょうか?
願文で、只々一生懸命踏ん張っている勝頼を見捨てないでくださいとお願いしたにも係わらず、毎日裏切る者ばかり。
それこそ、ただ涙が果てしなく溢れる日々でしたが、その涙さえも、自害すれば露の玉と同じように消えてなくなるのでしょうね、という強い無常観をこの歌から感じます。
それこそ、ただ涙が果てしなく溢れる日々でしたが、その涙さえも、自害すれば露の玉と同じように消えてなくなるのでしょうね、という強い無常観をこの歌から感じます。
そして、彼女を介錯する者が、全てを覚悟し、凛とした夫人のあまりの美しさに身動きがとれないでいると、それを察した夫人は自らの懐刀を取り出し、それを口に含んで前に倒れ込みます。(写真⑭)
苦しませてはならないと、夫人に駆け寄って介錯した勝頼も、暫くは茫然として彼女の亡骸を抱きしめていたということです。
そして、勝頼もそれからすぐに北条夫人の後を追うのです。(写真⑮)
5.おわりに
武田勝頼と夫人が、滅びていく武田家を支えようと一生懸命努力奮闘しますが、やはり支え切れずに終わってしまうのは、本当に哀しく感じます。
一生懸命努力しても、皆彼の周りから家臣が離散していってしまう勝頼。夫人も願文を掛けますが、これも虚しくも叶えられません。
これら懸命に、運命に対して奮闘する二人には、滅んでいく運命の中だからこそ、強く愛を感じることが出来たのだ思います。
ただ、これより少し前に、滅びた戦国大名の今川氏真、正室の早川殿は、何故か両者ともその後30年以上も生き抜き、70歳代後半での天寿を全うするという勝頼らとは似て非なる運命を辿ります。
この違いは何なのでしょうか?
私は、北条夫人が芝蘭に例えられたように、勝頼も多分そうですが、二人とも芯の強い香草のようだったことに、一つの原因はあるような気がします。
つまり、悲劇の香りを発しはじめた二人は、それを滅亡するまで止めることが出来ないのです。
どうして出来ないのか?
勝頼に対する信玄の武将としての英才教育、北条夫人に対する勝頼の教育が一因ではないかと考えはじめています。
これらの違いを、次回は今川氏真と早川殿を調査し、さらに分析してみたいと思います。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
最後に一言。北条夫人は生まれ変わり、やはり生まれ変わった勝頼とあの桜の下で再会することが出来たと信じたいです。
ご精読ありがとうございました。