マイナー・史跡巡り: のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~ -->

土曜日

のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~

①忍城攻略の石田三成が陣を張った
丸山墓山古墳を仲間たちと登る
映画「のぼうの城」で忍城(おしじょう)が有名になってから、早5年が経とうとしています。

この映画を見た時は、「へぇー、小田原征伐に、こんなに生き生きした物語が隠れていたなんて」と感じたのがつい昨日のようです(笑)。

それが昨年、Facebook仲間と一緒に行田市へ行って色々と調べると、この映画(小説)も、史実と史実の不明な箇所は、筆者、和田竜氏の思い描くストーリーで埋める方式で作られるからこそ、あそこまで生き生き描けることが良く分かりました。

まずは和田竜氏の「のぼうの城」の小説に大方沿う形で、この忍城の水攻めについてレポートします。

その後、僭越ですが、この城攻めに関する石田三成についての和田竜氏と私の受ける印象の違いについて、考察させて頂ければと思います。

1.忍城について

忍城は、1478年、この地方の豪族 成田氏が、やはりこの地の忍(おし)一族を攻め滅ぼし、築城したと言われています。

②元々城郭の殆どが水の中にある
この成田氏、かなり自由闊達なタイプの一族のようで、まず、関東一円に勢力を伸ばしてきた北条氏康に対して反発します。

反発のために手を結んだのが上杉謙信。

1561年の上杉謙信による小田原攻めの時には、謙信に同調し、小田原城を攻めているのです。

ところが、15年後に謙信が関東管領に任命されると、どういう訳か、今度は謙信に対して反発。北条と手を結びます。

謙信は怒って忍城を包囲しますが、持ちこたえます。防衛力の高い忍城は関東七名城の1つとして名を馳せます。

それから16年後の1590年、この忍城を、豊臣軍が、まさに攻めに来ます。あの20万の大軍と一夜城(石垣山城)で、小田原城を包囲したことで有名な小田原征伐の一環の軍事行動なのです。

この時、忍城を包囲した豊臣軍は、2万、それに対する忍城は、戦のプロである城兵はたったの500、一緒に籠城した農民らを合わせても2~3000と、約10倍の敵と戦うこととなるのです。

2.大軍の総大将 石田三成

③小説「のぼうの城」の
下巻表紙(左)は三成
右は「のぼう」こと成田長親
忍城は、元々荒川と利根川の間に挟まれた土地にあり、大きな沼地となった中の島々を上手く繋ぎ、造られた城です。(写真②)

だからこそ、攻めづらく、あの上杉謙信でさえ、落とすことが出来ないくらい堅牢な城構えだったことが分かります。

豊臣軍が、幾ら軍勢力2万を頼みに力押しに押しても、かなりの犠牲者を覚悟しないと、この城は落ちません。

そこで検討されたのが水攻めです。

豊臣軍の忍城攻略大将として、任命されたのは石田三成。(写真③左)

「のぼうの城」では、官僚的な仕事ばかりやり、軍功が皆無である三成に、秀吉が親心を出して、この忍城攻めの総大将をさせるのです。

放って置いても2万の大軍の総大将なのですから、軍功間違いなしだろうというところですが、更に、忍城城主 成田氏長(なりたうじなが)が秀吉と内通している既成事実を、わざと三成に伏せた上での総大将です。負ける訳がありません。

④石田三成の本陣 丸墓山古墳
かなり甘いです。秀吉は三成に。

この話に出てくる三成は、秀吉の戦(いくさ)ぶりに感化され、特に秀吉の有名な備中高松城の水攻めのスケールの大きさに純粋に感動したことをから、是非自分でも、この水攻めをやってみたいと虎視眈々と狙っていたので、喜々として出撃していきます。

また、武将としては初々しい(うぶい?)三成は、忍城攻略前に、館林城を攻めようとするのですが、戦う前からこの城が、あまりの大軍に戦意喪失し、降伏してしまうことに、がっかりし、「大権力にもめげずに、戦う筋のある武将と合い間見えたい」と考えます。

そこで、忍城の城代として守備兵の総大将である「のぼう」こと成田長親(まさちか 城主氏長の従兄弟)に、挑発的かつ居丈高な降伏勧告を行うことで、わざと怒らせ、当初は最初から城を明け渡す予定であった成田長親に、開戦に翻意させるよう仕向けるのです。

このように、筆者の和田竜氏は、官僚として、人心コントロールには長けているものの、戦(いくさ)は初心者、非常に純粋、そして自由奔放な総大将石田三成を描いています。

⑤忍城水攻めの地図上プロット
さて、忍城まで兵を進めた石田三成らは、この城を一望できる丸墓山古墳に陣を張ります。(写真①、写真④)

3.忍城水攻め

開戦当初、たかだか500の兵力に対して、2万の兵が初手から水攻めというのも能が無いということで、忍城との開戦当初は、数にモノを言わせた力押しで忍城を攻めます。

最初に述べた通り、やはり沼地を上手く利用して作られた名城だけに、簡単には落ちず、いたずらに豊臣軍の負傷兵を増やしてしまいます。

そこで、兼ねてより三成らが計画していた水攻めに切り替えます。(地図⑤)

地図⑤の緑の線が、この水攻めのために築いた堤(石田堤)です。

今でこそ、荒川の流れはこの堤の南側を流れていますが、当時はこの堤の若干北側を流れていました。現在は「元荒川」の名前で流れ跡が残っています。

⑥今も残る石田堤 高さは約3m
この荒川の流れと北側を流れる利根川を堰き止めるために、この石田堤は総延長28km、秀吉の備中高松城水攻め時は、10kmの堤だったことを考えると実に2倍以上。

こんな長大な堤を、石田三成はたったの5日間で完成させたというのですから、如何に彼のプロジェクト完遂能力が高かったのかが覗えます。

ただ、兵士だけでなく、地元の農民も高額報酬を払い、日雇労働者として雇っての完遂工事です。

兎に角、石田三成は兵数は滅茶苦茶多いわ、軍資金は湯水のように使って良いわで、どうやったら負けることができるのかといった戦の総大将ではありましたが・・・

⑦「忍城は浮き城か?」と
腕組して考える石田三成
映画では、この堤が出来て、荒川と利根川の堰を切ると、まるで津波が押し寄せるように、地図⑤の水色でハッチングした部分に水が押し寄せる場面がありましたが、あれは大袈裟ではないでしょうか。

実際にはちょろちょろと溜まりはじめ、数日掛けて、1~2mも水没すれば良い状況で進捗したのではないかと思います。堤自体の高さが3m程度なのですから。(写真⑥)

水攻め当初、忍城は沈みませんでした。
「浮き城か?」と石田三成も言ったようです。(絵⑦)

元々、この辺りは荒川や利根川の氾濫水域だからこそ、忍城のある沼地も出来たのです。なので、しょっちゅう河川の氾濫は起きており、忍城もそれらに耐えうるだけの高さ設計等は成されていたようです。

ただ、この水攻めを行っている時期が6月の梅雨時であることも、実は三成の計算に入っていました。

梅雨で水嵩の増した荒川と利根川は、忍城自体も水没させはじめます。

⑧石田堤の決壊
困った忍城側大将である成田長親は、決死隊を募り、石田堤の破壊工作を実施。

これがまた見事上手く行き、崩れた堤の上部を守っていた豊臣軍270人が死亡。みるみる水は引き、忍城は水没を逃れます。(絵⑧)

4.忍城開城

水攻めに失敗した三成らは、また最初の兵力にモノを言わせた総攻撃で、忍城を落とそうとしますが、水が引いた後の城の周りは、以前にもまして泥濘が強く、馬の蹄も立たない、兵士もくるぶしが泥に埋まって身動きしづらいという不利な状況で、水攻めをしたことが却って仇となり、益々城を落とすことが難しくなってしまいました。

そこで秀吉は、戦上手の真田昌幸・信繁と調略上手の浅野長吉ら援軍6000を、6月下旬に送り込んでいます。

しかし、彼らが活躍するまでもなく、7月に入ると直ぐに、北条氏政・氏直父子が小田原城を開城、降伏します。

忍城で籠城している意味が失われました。ただ、小田原征伐で最後まで落城しなかったのは忍城だけであり、実質2万対500の対決は、500の忍城側の勝ちとなります。

そこで、成田長親は、なるべく良い降伏条件を石田三成から引き出し、忍城を開城するのです。

5.忍城攻めに見る石田三成

「のぼうの城」にほぼ則し、ざっと忍城の水攻めについてレポートしました。

⑨映画「のぼうの城」キャスト
この本では、他にも甲斐姫の話、成田長親の個性あるリーダーシップの取り方や、豊臣軍2万を虜(とりこ)にする命がけのある秘策等、面白い見せ場が満載です。

それらの真偽は良く分かりませんので、割愛させて頂きましたが、読み物としての物語性が高く、また和田竜氏の含蓄の深いメッセージもその中にふんだんに読むことが出来ます。

石田三成に関しても、非常に正義心に溢れ、敵であっても立派な武将であれば、その指揮する規模や、肩書によらず心腹する等、好男子である反面、優しいために詰めが甘く、理想に憧れ、少年のようなやんちゃな人物として描いています。

映画もこのイメージに合う上地雄輔氏を使っていますね。(写真⑨)

しかし、本当にそうだったのでしょうか?

この忍城攻めに関しても、この時の秀吉や三成、浅野長吉らの書状等から、幾つかの説があります。(表⑩)
⑩忍城 水攻めに関する説
水攻めの命令者はだれかというポイントで、石田三成のイメージが大きく変わります。 

小説「のぼうの城」では、説3を取っています。三成が「水攻め」をやりたがり、また秀吉は彼に軍功を建てさせてキャリアアップをしてやろうとします。このような豊臣方に対し、ある意味現代のノンキャリに近く、無能で「(でく)のぼう」の成田長親が、却って人心を集め、たった500の兵で2万の敵に勝つという痛快劇となっています。

しかし、現実は説3では無いかも知れないのです。

であれば、この「水攻め」をやりたかったのは、豊臣秀吉本人であり、相手の首をとるだけの武功オンリーのような戦い方ではなくて、資金と人足が必要となる堤の工事を短期間でやり遂げるプロジェクトマネージメントに長けた人材として、石田三成がふさわしいとした適材適所人事だったのではないでしょうか。

⑪三成本陣の丸山墓山古墳
から見た忍城
また、石田三成の性格は、やんちゃ坊主というよりは、官僚特有の「上(秀吉)からの命令は絶対」という気構えを持っていることです。

私は、石田三成が水攻めの時に本陣を構えた丸山墓山古墳に登り、忍城の方を見た時に、咄嗟に感じたのは、

「こりゃ、水攻めするにはちょっと無理がないか?」

ということです。(写真⑪)

勿論、私は土木工事のプロではないので、確かな事は分かりません。あくまで素人の直感ですが、あまりに土地が広く、平たいのです。28kmの石田堤を作ったとしても、これ程の平地、殆ど水を貯めるような土地構造を持たないところで、人工の湖を作るというは、大事業で、それをたった5日で本当に出来たのか?出来たとしても、だからこそ、簡単に決壊したのではないだろうか?と思い、この景色を見た三成も、実は同じような思いを抱いたのではないかと想像した訳です。

ただ、彼は先に述べたように、秀吉の命令は絶対と言う信念があります。秀吉が得意とする城の包囲作戦の中では、一夜城を作って、小田原城の度肝を抜くと同様に、備中高松城で魅せた水攻めを関東諸将にも見せ、その権威を高めたいと考えるのであれば、多少無理でもそれを遂行するのが三成の役目だと彼自身、強く認識しているのです。

そこで、彼は腐心します。戦に参戦した諸将にとって、水攻めは、武功が取れなくなるので戦闘意欲は低下しますし、堤は上手く出来ず、ちょっとしたことで崩壊する等、三成はこの戦で、自分の官吏としての能力を最大限出して頑張りますが、労報われず、上手く行かないのです。

そんな三成を見て、彼に従って忍城攻めをした大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、多賀谷重経、真田昌幸ら諸将は、こう思ったに違いありません。

石田三成は、一生懸命の「でくのぼう」・・・「のぼう」だ!

6.おわりに

和田竜氏の「のぼうの城」の「のぼう」は、忍城城代の成田長親が、あまりにのんびりとし、何も出来ない不器用なので、この領主を、「でくのぼう」の「でく」を外して、農民たちが呼んだあだ名です。ただ、愛嬌がある長親は馬鹿にされながらも皆から愛されたという設定。

この戦でも、「のぼう様じゃあ、何もできねぇ。おらたちが守ってあげんと」と言って、農民や、城兵の「なんとかしてやらんと」という人心を集め、勝利したという、この時代には、稀有なリーダーシップについて書いているのです。

⑫石田堤史跡跡にて
堤を俵を積み上げ構築しているつもりです
これは、石田三成にも当てはまるのではないかと思い、先の赤太字の言葉、またこのブログの表題を付けました。

その証拠に先に列挙しました諸将は皆、関ヶ原の戦いの時に石田三成方に付いています。

現場を知らない秀吉の無茶な要求に対しても、一生懸命に応えようとする三成のひた向きかつ純粋な姿、それは天下分け目の関ヶ原の戦いへ向かう彼の姿に通ずるところがあり、政権にあっては色々と黒い噂が多い彼も、現場で一緒に戦った諸将からすると「なんとかしてやらんと」と思える、「のぼう」様だったのではないかと思えるのです。

楽しい仲間と一緒に行った忍城調査。仲の良い我々と同様、大変だった忍城攻めの中でも、三成はこれらの諸将と心を一つに出来た場面がきっとあったのだろうと思います。(写真⑫)

ご精読ありがとうございました。