①鎮西八郎為朝(国芳画) |
義経は父義朝(よしとも)の八番目の子なのに、九郎(くろう)殿と呼ばれる理由をご存じでしょうか?
源氏は必ず〇郎(〇は何番目の子かを表す)をミドルネームにしていました。
義経は、自身が元服して牛若丸から義経を名乗る時、その時永久欠番の「八」を遠慮し、一つ下の番号「九」を使うことにしたのです。なので九郎義経。
では、その永久欠番の八郎は?というと、頼朝が挙兵する24年前、1156年の保元の乱で、大活躍した源氏のヒーロー、源為朝(みなもとのためとも)のミドルネームなのですね。
鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)
今回から、この豪快なヒーローを描いてみたいと思います。(絵①)
1.鎮西(ちんぜい)
為朝は、頼朝の父、義朝(よしとも)の弟にあたります。為朝は弱冠13歳にして、父親の為義(ためよし)に勘当されてしまいます。
素行が相当な悪(わる)で、気性も荒かったようです。しかも、体がデカい。2mを越えていたとの記録があります。また、13歳の頃ということですから、反抗期でもあったのでしょう。
②鎮西山から佐賀平野を見る |
勿論、彼は八郎というくらいですから、兄弟は他にも沢山居るのですが、どうも長男の義朝に対し、次男坊的性格の為朝は、そのやんちゃさが、後々の平家の在り方や、更にその後の源氏の再興後の武家社会の確立に影響を及ぼしたように見えるのです。
さて、勘当された為朝は、九州の有力者を頼り、13歳にして、その家の婿になります。そして、手下を次々に従え、九州の地を15歳までに制圧するのです。
なので、鎮西(ちんぜい)。
佐賀県には鎮西山という佐賀平野が良く見える山がありますが、ここに鎮西八郎為朝が城を築き、5万の兵を撃ち破ったところとして伝説化しています。(写真②)
2.為朝の剛弓ぶり
このように九州で大暴れ、制圧までしてしまう程に、やたらと強い為朝のシンボルは何といっても弓です。彼の左腕は右腕より12cmも長く、剛弓を引くために進化したようです。
詳細は次回お話しますが、伝説だけを頼りに、為朝の弓の凄さを、ある理系に優れた知人が定量的に計算してくれました。
③大人2人が引いてもビクともしない為朝の弓 (葛飾北斎画) |
為朝の矢は、新幹線の10倍以上、つまり時速3000km以上です(笑)。
大体物理的にそんな矢を撃てる弓が存在する訳はないのですが、昔の人がそこまで誇張するからには、やはり相当迫力ある弓だったのでしょう。葛飾北斎は、2人の大の大人が為朝の弓を引っ張っても、弦がビクともしない様子を描いています。(絵③)
私も子供の頃、5人の大人が一緒にうーん、うん言いながら、弓の弦を引く横で、「一寸でも俺の弦を引けたら、平定した九州のうちの一国をやるぞ!」と左手で弓を持ち、右手で骨付き肉を持ち、それに武者ぶりつきながら話すワイルドな為朝の漫画絵を強烈な印象で覚えています。
3.京へ戻る為朝
破竹の勢いの為朝に、困った九州の国人たちは、こぞって朝廷に為朝の乱暴振りを訴え出ます。朝廷は為朝に京に戻ってくるように命令するのですが、流石為朝、朝廷の命令さえも無視します。
ところが、この為朝の態度が、頭に来た朝廷は、為朝の父・為義を解任するのです。父親に勘当されたはずの為朝でしたが、これを聞くと慌てて28騎の伴を従えて、京都へ上洛します。
やはり、実は暴れん坊の為朝も、父親思いの根はやさしい漢(おとこ)なのですね。
さて、帰参した為朝に待っていたのは、また上皇対天皇の政治的対立に伴う武家の対立、1156年に起きた保元の乱でした。(図④)
④保元の乱対立図 ※実際には信西等も天皇側に加わり もう少し複雑な様相を呈している |
拙著blogの「道鏡」でも書いた上皇vs天皇対立図(ここをクリック)ですが、やはりこの対立構図は、歴史上何度も繰り返され、それだけに現代の皇室典範の改編等にも慎重にならざるを得ない訳です。
崇徳上皇と後白河天皇の対立に巻き込まれ、特に源氏は父・為義と子・義朝が敵味方に分かれて戦うという悲劇が発生しました。
この時、為朝は九州から駆けつけた28騎と一緒に、例の剛弓を持って崇徳上皇の御所(白河北殿)の西側の門を守りました。(写真⑤)
崇徳上皇を始め、公家たちは為朝に興味深々です。何故なら彼は前にも書いた通り2m越えの大男、味方として頼もしい限りです。そこで、彼を見たいばかりに、軍議に上皇や公家たちも参加するのです。
「おおっ、さすがにでかいですなぁ」と扇子を口元に当てて囁き合う公家たちを尻目に、為朝は、彼が思う作戦を述べます。
⑤保元の乱の中心となる白河北殿址 (崇徳上皇の御所) |
天皇を討ち取るという発想は当時も無く、悪いのはその取り巻き、つまり君側の奸にあるとされ、この作戦も後白河天皇だけは敵方より助け出すというものです。
「後白河天皇側には大した奴はおりません。兄である義朝くらいは多少刃向かってくるかも知れませぬが、この為朝が必ず射貫いて見せます!」
「平清盛ですか?ああ、あいつは「へろへろ矢」しか撃てません。鎧の袖ででも、彼を払いのけて、蹴り倒せばそれで終わりです!」
清盛を「へろへろ」と言うとは・・・。為朝、体もデカいが、態度もデカすぎます。最初は好意的に聞いていた公家たちも、段々と為朝に反発したくなります。昔も今も謙虚でない者は「打たれる杭(くい)」の法則です。
「夜討ち等は、武士同士の私戦でする乱暴な方法です。為朝殿はちと若すぎますな。上皇殿と天皇殿の間の対立回避という今回の仕儀は、正々堂々とすべきです。吉野と興福寺の僧兵が加勢に来て下さるので、それまで待つべきと存じます。」
と落ち着いた長老格の公家が言うと、皆上品なこの人の発言に素直に従うのです。そして、体躯も良く、ワイルドな雰囲気の為朝は、完全に公家たちから下品な武者として見られてしまうのです。
為朝はがっかりです。「戦(いくさ)は武士に任せるもの。それを公家が出てきて掻きまわすのは止めて欲しい。兄の義朝は絶対夜討ちを仕掛けて来るぞ!」と周囲に愚痴るのです。
◆ ◇ ◆ ◇
為朝の予想通り、源義朝と平清盛は、夜討ちを掛けてきます。上皇は、あわてて為朝をなだめるために急遽役職を上げますが、為朝は鎮西のままで良い、とこれを拒否。こうなっては致し方ないと、剛弓を取って、当初の配置である西側の門に立ちます。(地図⑥)
⑥保元の乱 配置図 |
そこに攻め入ってきたのは、あの「ヘロヘロ」と揶揄された清盛の軍勢です。
早速為朝は、示威行動のため、矢を番(つが)えて放つと、やはりこれがロケット弾なみ。
3人の兵士を貫き、まだ矢速が落ちず、そのまま3人を空中搬送するありさま。
これを知った清盛、たった一矢(いっし)にも係わらず、驚愕し軍を北門へと移動させ始めます。残念ながら清盛は「ヘロヘロ」返上には至りませんでした。
次に、為朝の兄、義朝が攻めてきます。為朝28騎に対して、義朝200騎。(絵⑦)
⑦馬上の義朝と郎党たち |
すると恐れをなした義朝が、大声で叫びます。
「兄に弓引くとは、神仏の加護を受けられなくなるぞ!為朝!」
為朝も返します。
「では、父・為義に弓引く兄者はどうか?」
「・・・」
言い返せない義朝は悔しくなり、自軍に対し、
「ものども、為朝は脅しているだけだ。矢を兄に対しては放てまい。馬上での戦なら我々坂東武者の方が技に長けている。恐れず白兵戦で為朝を討ちとれい!」
と下知しますが、その発声が終わるか、終わらないかのうちに、義朝の兜の鍬形を矢が射削るのです。勿論為朝の矢です。為朝が狙った通りです。為朝は優しい漢なので、流石に兄を射殺すことは出来ず、兜の一部を綺麗に射削ることで、威嚇をしたのです。
義朝は「こ、こ・・・」と一瞬言葉を失います。しかし、流石は義朝です。
「こ、こいつ(為朝)の矢の命中度は、これこの通り、大したことは無い。皆のモノひるまず戦え!」
◆ ◇ ◆ ◇
さて、白兵戦の結果は、義朝の坂東武者を53騎も倒した為朝たち九州武者も、28騎中23騎も討ち取られてしまいます。為朝たちはやむなく西門から撤退します。
それにより、門の中に入った義朝らは、次々に上皇側の白河北殿の建物に火を付けて廻ったため、崇徳上皇らは総崩れとなりました。
崇徳上皇は後白河天皇側の追捕により捕まり、為義・為朝らは個別に脱出、東国での再挙を図るべく、都落ちをするのです。
後白河天皇、平清盛、源義朝側の勝利に保元の乱は終わりました。
5.為朝の隠れ里(伝説)
⑧上大岡の隠れ里にある為朝の祠 |
実は、この場所、この保元の乱で東国での再挙を図ろうとした為朝が、隠れ住んだ里とされています。そこに「為朝の祠」があります。(写真⑧)
祠の写真では、私がいつも持ち歩く1m程度の杖が右側に立てかけてありますので、大きさが分かると思います。
非常に小さく、駐車場の一角に隠れるようにある祠ですが、そのマイナーさが却って本当にこの辺りに隠れ住んでいたのではないかというリアリティを感じさせてくれます。
実際に、明治2年にこの祠近くの丘の崖が崩れ、横穴が発見され、更にその中から古い鏡の入った壺が見つかった時には、ここが為朝の隠れ穴だったのではないかと大騒ぎになったそうです。(写真⑨)
⑨横穴が発見された八郎ケ谷の斜面(左、右上) 右下は八郎ケ谷から見た上大岡駅 |
私が思うに、義朝が住んだ鎌倉に近いこの上大岡の地に、為朝は隠れ住み、乱後の対応について、義朝のところに忍んで交渉に来ていたのではないでしょうか?
というのは、この保元の乱で、源氏が上皇側と天皇側に分かれたのは、戦国時代の真田家が徳川側と豊臣側の両軍に別れ戦ったのと同様、一族の存続を図ったという説もあるのです。
私は、心優しい為朝のこと、兄・義朝に父・為義の助命を嘆願していたのでは?と想像しながら、この八郎ケ谷周辺を歩きました。
6.おわりに
しかし、父・為義の助命はなりませんでした。自首してきた父・為義を、義朝も泣く泣く斬首せざるを得ない状況になったのです。(絵⑩)
実は、これを源氏の勢力縮退の絶好の機会と捉え、為義の斬首を強烈に主張する貴人が居ました。またご存じのように、後白河天皇は、のちに法王になってからの義経の使い方等を見ても分かるように、武士のパワーバランスをコントロールするのに長けた大狐でしたので、ここは助命受け入れずで対応します。
⑩源為義 |
面白いことに、この源氏の一族内の争い・凋落を反面教師とし、清盛は平家一族の結束強化を推進するのです。
ただ、これが頼朝が挙兵する20年後になると、一族の横の繋がりばかり重視する平家に対し、主従の縦の関係強化を欲する全国の武士にとっては、大きな不満の種(たね)となり、結果はご存じの通り、平家一門は壇ノ浦で滅びてしまうのです。
そう考えると、この時敵味方に別れて戦った源氏と、結束を強めた平家どちらが良かったのでしょうか?
皆さんはどう思われますか?
ところで、このようにその後の源平の在り方にも大きな影響を残した為朝はどうなったのでしょうか?
逃亡生活を続けますが、最後は捕らえられます。
しかし、武勇を惜しまれ助命され、得意の弓が撃てないように、肘の健を切られ、伊豆大島へ島流しとなるのです。
鎮西八郎為朝の後半の生涯、島流し先等での大活躍(大暴れ?)ぶりは、次回お話をさせてください。
長文ご精読、誠にありがとうございました。
【鎮西山】佐賀県三養基郡上峰町堤
【白河北殿址】 京都府京都市左京区東丸太町
【為朝の祠】神奈川県横浜市港南区上大岡東1丁目7