マイナー・史跡巡り: 義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~ -->

日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~


①義経最期の地 高館(たかだち)
前回、奥州藤原氏3代目の藤原秀衡(ひでひら)源頼朝の謀略比べで、最後は江の島弁財天への祈願をしたことによる、紙一重の差で勝った頼朝の話をしました。(詳細はこちらをクリック

奥州王国の末路、話を続けます。

1.頼朝の深慮遠謀第2段

さて、秀衡亡き後の奥州藤原家を継いだのは、4代目、泰衡(やすひら)です。

秀衡は臨死に際し、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせたことは前回お話した通りです。

深慮遠謀を持つ秀衡の遺言的な起請文。これが健在である限り、秀衡程の智謀を持たない泰衡と義経をトップとする奥州王国軍17万騎を切り崩すのは、頼朝にも大変な事です。

②後三年合戦における同族の争い
清原家衡(左)と清衡(右)
※出典:胡原おみ氏「後三年合戦物語」
奈良時代の律令という国家のシステムが形成されてから、平安時代に入り、摂関政治等を経ながら、システムとして複雑化し、東北の蝦夷(えみし)の地にバーチャル(仮想)国家である奥州王国まで出来てしまいました。
この混沌とした日本を、シンプルな武士による統一国家になんとか再構成し直したいと考える頼朝。

当然彼はこのバーチャル国家である奥州王国を潰す必要を強く感じているのです。

というより、当時1189年より133年前の1056年に源頼義(よりよし)から始まった前九年の役と、その息子・源義家(よしいえ)が中心となった後三年合戦(1083年)で、源氏のDNAには「蝦夷の国は色々な意味でキケン!徹底的に排除すべし」という掟が刻み込まれてしまったのかも知れません。

現代と違って、この時代は時間の割に物事の進歩が遅いので、100年以上前と言っても、たかだか10数年前のことのように語り継がれているのだと思います。

そこで、頼朝は100年前の後三年合戦で、源義家(よしいえ)が用いた謀略に倣(なら)った深慮遠謀第2段を発動します。

以下の図③を見て下さい。
③後三年合戦の反省を活かした頼朝の構想
※図中の「外交圧力」とは
朝廷を介した間接的な圧力のこと
図③の上段ですが、義家は後三年合戦で奥羽の清原一族(藤原氏の始祖)を潰すために、兄弟である清衡(きよひら)家衡(いえひら)をワザと対立させるよう仕向け、同族同士で死力を尽くして戦い合うことで両者の力を削ぎ、最終的には両者ともに自分が潰してしまおうと考えていたのです。(絵②も参照)(詳細はこちらをクリック

④高館の義経堂
これは上手く行くように見えました。しかし、その義家の考え方を事前に察知した清衡が、義家を巧みに使い家衡を滅ぼした後、義家が清衡に手を出す前に京の朝廷等へのロビー活動による外交圧力により、義家を京へ呼び戻す事態を作り、更に義家を奥羽から退去するように仕向けるのです。そして清衡は、義家を追い出した後、奥州藤原氏を名乗り、最後の勝者となります。

図③下段ですが、この後三年合戦を参考に、頼朝は自分を義家に見立て、泰衡と義経の2人を、清衡と家衡に見立てます。そして、後三年合戦で何故義家が清衡と家衡の2氏諸共滅ぼせなかったのかを分析し、以下の2つの結論に達しました。

①義家自体が抗争の前面に出過ぎ
②義家が京の中央政権を抑えず、清衡に抑えられたことにより外交圧力を掛けられた

これらの反省を活かすことで、藤原泰衡と義経両者とも間違いなく潰し、自分が勝者になろうというのが、後に起こる奥州合戦への頼朝の構想です。

2.義経の高館(たかだち)での最期

頼朝は、早速朝廷に宣旨(せんじ)を出させ、泰衡に対し、義経を討伐するように外交圧力を掛けます。当然、泰衡は亡父・秀衡との約束上、これを拒絶します。ただ返答の言い方は、「義経は平泉に見当たりません。」との建前(たてまえ)で報告するのです。

しかし、これは頼朝の思うつぼ、頼朝は朝敵を匿う泰衡は賊軍として、またまた朝廷から泰衡討伐の宣旨を出してもらうよう京の中央政権に対して圧力を掛け続けるのです。

⑤奥州高館城大合戦之図(歌川国芳作)
※真ん中で奮戦するのが弁慶
暫くすると泰衡から頼朝の元に書状が来ます。内容は「もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します。」

これを見た頼朝はニヤッとします。「泰衡の奴、余程朝敵にされるのが怖いと見える。この書状で許せと言うのか?先代の秀衡だったら、こんな書状を送って来るようなヘマはせず、黙って今頃は義経と一緒に17万騎率いて鎌倉に攻めているであろうものを・・・」

そして、更に朝廷に対し、泰衡討伐の宣旨発出の要請を強めるのです。

やはり泰衡も義経らと同じ、将来を見通す構想力・戦略能力は殆ど持たない武将なのですね。完全に頼朝の手のひらで転がされています。

とうとう、朝敵にされそうな泰衡は、プレッシャーに耐えきれなくなり、平泉で義経が住んでいる高館(衣川館:ころもがわやかた とも言う)を数百騎で攻めます。(写真④絵⑤

⑥高館から北上川を臨む
※「夏草やつわものどもが夢のあと」
の句がここにある
本当に頼朝の思惑通りですね。もしこの数百騎が泰衡軍ではなく、頼朝の鎌倉軍だったら、多勢に無勢で勝ち目の無い戦いであったとしても、戦上手の義経の事ですから、撃退する可能性もあったかも知れません。しかし、そこは人情に篤い義経。ずっと世話になった奥州藤原氏から攻められれば、やられるに任せるしか無かったのでしょう。(写真⑥

実際、絵⑤のような弁慶の大立ち回りや、部下の奮戦とは対照的に、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず写真①のお堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自刃します。享年31歳。1189年4月30日のことです。

そして、弁慶はご存知の通り、最期は写真①のお堂の前で、義経が自刃する時間を作り出すために、どんなに槍で刺されても、矢が刺さっても倒れることなく死んでいった「弁慶立ち往生」の伝説が残っています。

弁慶のお墓は、中尊寺の前の大きな松の下にあります。(写真⑦

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」
⑦中尊寺門前にある弁慶の松(墓)

後世に中尊寺の僧が詠んだ歌です。

3.義経の御首(みしるし)

泰衡は、6月に酒に浸した義経の御首を頼朝の居る鎌倉へと送り、恭順の意を示します。

義経の御首は、鎌倉の西の外れ、腰越の海岸で検視されます。前々回の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」(ここをクリック)でも書きましたが、どういう訳か義経は壇ノ浦で平家を滅ぼして以来、兄・頼朝の居る鎌倉へは入れず、鎌倉の西の外れ、腰越止まりなのです。

しかも、この腰越海岸で検視された後、義経の首は海岸に打ち捨てられたままなのでした。(写真⑧

さて、義経が討たれたと聞いてから、1か月程、頼朝はいつも考えていました。

というのは上記作戦に2つ程見込み違いがあったのです。

1つは、義経を立てて鎌倉を攻めるのかそれとも鎌倉へ恭順の意を示すかで、奥州藤原一族の中でももう少し混乱があり、むやみに一族同士で消耗してくれればと思っていたのに、あまりにあっけなく恭順となってしまったことです。特に義経の御首を差し出されてしまえば、鎌倉方は本命である奥州王国殲滅の口実が霧消してしまいます。

⑧義経の御首が討ち捨てられた腰越海岸(手前)
海岸越しの湾を挟んで対岸は江の島です
もう1つは、朝廷がなかなか泰衡追討の院宣を下してくれなかったことです。頼朝のシナリオでは、泰衡たちが恭順の意を顕すのに、もう少し時間が掛かり、その間になんとか朝廷から泰衡朝敵の院宣を取り、それを錦の御旗に、奥州王国を殲滅する、そういう構想だったのです。

しかし、奥州から義経の御首が腰越で検視され、そのまま打ち捨てられたと聞いた時、頼朝は、ハッと思いつきます。「そうだ!そうしよう。江の島弁財天さま、ありがとうございます。」

4.奥州合戦と征夷大将軍

義経の御首を差し出すことで、恭順の意を示し、討伐の院宣の申請を取り下げてもらうよう努力した奥州藤原氏を、頼朝は1189年7月に大軍を持って鎌倉から攻めに出かけます。

頼朝は院宣の発出は諦めました。江の島弁財天に秀衡調伏の祈願をしていた1182年当時とは、平家を滅亡させた鎌倉軍の規模も強さも違います。また戦の天才、義経が指揮をしない奥州軍なぞは、院宣が無くても十分勝てると見込んだのです。

⑨灰となった平泉の中央庁舎「柳之御所」
※奥に見える小山が「高館」
以前Blogにも書きましたが、院宣がある場合は「役」、院宣が無い私戦の場合は「合戦」と呼びます。「前九年の役」は源頼義が安倍氏討伐の院宣により安倍氏を討ったのですが、「後三年合戦」では、源義家が清原家衡らを院宣無しで討伐しました。
同様に、この奥州王国殲滅作戦は、のち「奥州合戦」と呼ばれます。

ただし、殲滅のための口実は必要です。そこで、江の島弁財天が頼朝に囁いたかどうかは分かりませんが、屁理屈を考えついたのです。

「泰衡は『もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します』と言ったよな?それなのに大事な私の弟、義経を殺してしまうとは何事か!成敗してくれるわ。」

あきれてモノも言えない口実ですね(笑)。

しかし、それでも充分な勝算があれば、口実なぞ後で何とでも評価してくれというのは、大阪城を攻める口実を方広寺の鐘の刻印に求めた徳川家康と同じです(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
8月、緒戦で負けた奥州軍は、平泉に火を放ち、北に逃走します。

⑩厨川柵(盛岡市)
夏真っ盛りの夕刻に頼朝が平泉へ到着しますが、広大な庁舎などは灰となり、人影もない寂寞とした景色が広がっていたと言います。(写真⑨

また焼け残った倉庫からは、予想通り莫大な「金」が出てきました。
鎌倉軍は目を見張りましたが、頼朝は一言、「この財が基で奥州王国は、100年以上の独立性を確保できていた訳だ。これで終わりにしよう。統一(武家)社会の幕開けだ。」

そして、泰衡を追いかけ、最後は100年以上前の前九年の役源頼義が、安倍頼時を滅ぼした現在の岩手県盛岡市にある厨川柵にまで進軍します。(写真⑩

この時頼朝の軍は28万4千にまで膨れ上がりました。

泰衡は、逃走中部下の裏切りにより、既にこの時、首をとられていました。
源頼義前九年の役の将軍として討ち取った安倍頼時にした故事に倣い、頼朝はこの泰衡の首を、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けたのです。それを見ていた28万の軍勢は一斉に鬨の声を上げ、源氏が奥州と戦い始め、100年以上経った今、新しい統一(武家)社会を完成に導いた頼朝に対し、歓喜したのでした。

⑪義経の御首は江の島の海岸から境川を遡り
6㎞上流の白旗神社まで頑張って北上
5.おわりに

いかがでしたでしょうか。前九年の役の話から始まった源氏と蝦夷(えみし)との対立抗争、100年間のスパンの話を全10回のシリーズでお届けして来たお話もこれが最後となります。

8月頭の2日間の調査以降、約4か月間の長きに渡り、お読み頂きどうもありがとうございました。

最後に腰越海岸に打ち捨てられた義経の御首がどうなったのか、物語風に描かせていただくことで、このシリーズをしめくくりたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

義経の首は、腰越海岸が満潮になると、潮にさらわれ流されました。沖には江の島があります。江の島弁財天は近づいてくる義経の首に声を掛けます。

「義経、義経、ご苦労様でした。この江の島の岩屋でゆっくりと休んでくださいね。あなたの活躍は充分見ていました。あなたは最期まで仁のある人物でしたね。」

⑫白旗神社にある義経首塚
「弁財天さま、私は尽くしてくれた泰衡殿も兄上である頼朝殿も、皆争わないで欲しかった。なので抵抗せずに泰衡殿に殺されることで、鎌倉にも奥州にも戦う口実を与えず平和が来ることを願って岩屋で休みます。」

「義経殿、それはちょっと違います。7年前、頼朝殿は私に奥州藤原氏の調伏を祈願しました。私もこの国が本当に統一された平和な社会になるには、バーチャルであっても奥州王国のような形は無い方が良いと考え、その計画は現在も進行中なのです。あなたには残念でしょうが、奥州王国は無くなってもらいます。」

「そ、それでは義経は何の役にも立たなかったのですか?犬死ですか?」

「いえ、平家を倒したことは勿論、奥州にあなたが居たことも全て、統一(武家)社会を創るという大きな貢献であったことが分かりませんか?」

「岩屋で休んでいる場合ではございません。今より北へ向かい少しでも泰衡殿、いや奥州の役に立たねば・・・。」

と言って、少しでも奥州へ戻ろうと、江の島に注いている境川を、どんぶらこ、どんぶらこと満ち潮に乗って北上していました。
しかし、6㎞遡ったところで、首は力尽き果てました。(地図⑪
そこで御首を川からすくい上げ、首塚を作ったところが、白旗神社です。(写真⑫
⑬江の島のトンボロ
出典:高橋由一「江の島図」

これを江の島の上から見ていた弁財天は、至急、江の島周辺の海流の流れを変え、江の島と本土が繋がる砂浜を作ります。これはトンボロ現象というもので、現在の江の島もそうですが、1216年に突然出来たとの報告が当時の源実朝(さねとも)になされています。(絵⑬

地続きになったトンボロを通り、白旗神社の義経に会いに行った江の島弁財天は義経に何を伝えたかったのでしょうか。

勿論、トンボロが急にこの鎌倉時代初期に出来たことは、単なる偶然かも知れません。
ただ、悠大な源氏と奥州の歴史の区切りと何らかの関係があると思う方がロマンチックだなあと感じるのは私だけなのでしょうか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。