①第一次木津川口海戦イメージ |
石山本願寺・雑賀衆・根来寺や毛利家・村上水軍らの連合軍と戦う織田信長、これらの戦いを尼崎の地から望見していた荒木村重は何を感じたのでしょうか。(絵①)
やはり、この瀬戸内海の制海権を握る者の優位性、摂津国はこの優位者に付くべきではないのか。
その考え方が、荒木村重の織田信長離反を促したと考えてもおかしくはないのだろうという論考を書きました。
今回、この謀反の頃を前回と同じ制海権争奪戦という視点で描いていきたいと思います。
お付き合いください。
お付き合いください。
1.木津川口海戦の分析
前回の海戦で圧倒的な強さを見せた毛利・村上水軍。荒木村重はそれらを見て「信長おそるるに足らず」「やはりこれからは水軍だ!毛利氏には勝てない」と思ったかもしれません。勢いってやつですね。これも一因で2年後の1578年7月に伊丹・有岡城で信長への謀反を起こすのです。
一方、信長らは、今回の海戦の敗因は何かを冷静に分析していました。
当然、2倍近い船数の違いは大きな敗因ですが、それ以上に重視したのが、敵の武器・焙烙玉です。これを抑えない限り、海戦での勝ち目はないのです。
◇ ◆ ◇ ◆
話しが逸れますが、信長は、今までも、毛利・村上水軍の焙烙玉という火器だけでなく、根来寺の根来衆・雑賀衆の鉄砲でも、その高度な活用手法にはかなり影響を受けていました。
後の長篠の戦で、馬柵の後ろに鉄砲射手が3人ずつ組みになり、ローテーションで武田騎馬軍団に鉄砲を撃ちかけることで、通常一発撃ってから次の発射まで30秒以上かかると言われたものを10秒までに短縮。武田騎馬隊は「信長軍が間断無く鉄砲を撃ってきた」ように見えたという鮮やかな鉄砲活用術も、これら根来・雑賀衆にあった手法(つるべ撃ち)を活用したものとの説があります。(絵②)
この時、そもそも3段撃ちは無く、一斉射撃の轟音により馬を驚かした鉄砲活用術だったとの説もあります。もしこの活用術が長篠の戦いで使われていたとしても、これも雑賀衆のオリジナルで次のようなものを応用した可能性が高いです。
鉄砲は弾込めのプロセスで砲身を掃除する作業が結構大変なのです。ただ火薬に点火し轟音だけを出す(つまり弾は飛ばない)のであれば非常に短時間に準備が出来ます。これを上手く使い、空砲含めた一斉射撃で誰が撃っているか分からなくすることで敵をパニックに陥れるという手法です。
今回の焙烙玉対策もそうですが、このように信長は、敵による火器の斬新な活用方法に悩まされ、その対策を考えることで、他の武将より、この火器を誰よりも上手く活用できるようになったのでしょう。
◇ ◆ ◇ ◆
さて、火器の話から派生してしまいましたが、信長は今回は焙烙玉に驚かされた訳ですが、冷静かつシンプルに対策を考えました。
防御:「焙烙玉でも燃えない、壊されない頑丈な船を作る」
攻撃:「焙烙玉を投げて届く距離に船が来る前に、こちらの火器で敵の船を破壊、または延焼させる」
この2点だけです。
前回の海戦で圧倒的な強さを見せた毛利・村上水軍。荒木村重はそれらを見て「信長おそるるに足らず」「やはりこれからは水軍だ!毛利氏には勝てない」と思ったかもしれません。勢いってやつですね。これも一因で2年後の1578年7月に伊丹・有岡城で信長への謀反を起こすのです。
一方、信長らは、今回の海戦の敗因は何かを冷静に分析していました。
②長篠の戦では 火器を有利に使う信長ではあるが オリジナルは雑賀衆という説がある |
◇ ◆ ◇ ◆
話しが逸れますが、信長は、今までも、毛利・村上水軍の焙烙玉という火器だけでなく、根来寺の根来衆・雑賀衆の鉄砲でも、その高度な活用手法にはかなり影響を受けていました。
後の長篠の戦で、馬柵の後ろに鉄砲射手が3人ずつ組みになり、ローテーションで武田騎馬軍団に鉄砲を撃ちかけることで、通常一発撃ってから次の発射まで30秒以上かかると言われたものを10秒までに短縮。武田騎馬隊は「信長軍が間断無く鉄砲を撃ってきた」ように見えたという鮮やかな鉄砲活用術も、これら根来・雑賀衆にあった手法(つるべ撃ち)を活用したものとの説があります。(絵②)
この時、そもそも3段撃ちは無く、一斉射撃の轟音により馬を驚かした鉄砲活用術だったとの説もあります。もしこの活用術が長篠の戦いで使われていたとしても、これも雑賀衆のオリジナルで次のようなものを応用した可能性が高いです。
鉄砲は弾込めのプロセスで砲身を掃除する作業が結構大変なのです。ただ火薬に点火し轟音だけを出す(つまり弾は飛ばない)のであれば非常に短時間に準備が出来ます。これを上手く使い、空砲含めた一斉射撃で誰が撃っているか分からなくすることで敵をパニックに陥れるという手法です。
今回の焙烙玉対策もそうですが、このように信長は、敵による火器の斬新な活用方法に悩まされ、その対策を考えることで、他の武将より、この火器を誰よりも上手く活用できるようになったのでしょう。
◇ ◆ ◇ ◆
さて、火器の話から派生してしまいましたが、信長は今回は焙烙玉に驚かされた訳ですが、冷静かつシンプルに対策を考えました。
防御:「焙烙玉でも燃えない、壊されない頑丈な船を作る」
攻撃:「焙烙玉を投げて届く距離に船が来る前に、こちらの火器で敵の船を破壊、または延焼させる」
この2点だけです。
2.鉄甲船の建造
結論からお話すると九鬼嘉隆が造ったのは戦艦です。正確には鉄甲船です。
「えっ、黒船が来る300年も前に戦艦が日本で作れたの?」と思われるかもしれませんが、この頃の日本はかなり造船技術も高かったようです。(勿論、黒船のような蒸気機関を持つような船を産業革命前に造るのは無理ですが)
江戸幕府が鎖国政策を取ったこともあり、かなりこの造船技術は廃れていった訳ではありますが。
まず、防御に対する対策として、鉄の船であれば焙烙玉が飛んできて、爆発直後に高熱の鉛を飛散させても木材ではないので燃えることはありません。ただ、戦艦大和のように厚さ30cm以上の装甲板が全部鉄のような、魚雷や大砲を考慮する訳ではありませんから、従来の木材の甲板や舷側に鉄の板を張り巡らしたものとなります。
また、攻撃に関しては、焙烙玉が飛んでくる前に、敵の船に穴を空けて浸水させ、船を沈めてしまう戦法をとることとしました。そのための武器を作りました。
と言ってもそんな大層な発想ではありません。従来の鉄砲では小さな穴しか空けることができないので、浸水効率は悪い、じゃあ、従来の鉄砲を大型化しようということなのです。まあ、その発想が後々大砲に繋がるのですが、この当時は大筒といっていました。1隻の舷側あたり3門、計6門の大筒を備えました。
なので、結果的に鉄の甲板と大砲を持つ船、つまり戦艦を作ったという訳です。
3.大阪湾口での海戦
この鉄甲船を九鬼義隆は伊勢の本拠地で6隻作ります。長さ22m、幅12mというこの当時としては非常に大きな船でした。
5000人は乗船できたという記録もあります。
ついでに九鬼義隆が伊勢の北畠氏から信長の軍門に入った時の直属上長である滝川一益(かずます)も1隻鉄甲船を建造。
1578年6月26日、計7隻の鉄甲船は伊勢志摩の浦を出航し、大阪湾を目指します。(絵③)
これを察知した石山本願寺。雑賀衆の門徒船を500隻準備し、雑賀沖は紀淡海峡で鉄甲船を迎え撃ちます。(地図④)
前回の海戦で負けている九鬼水軍としては、大軍とはいえ、こんな小舟の群れに負けては、大枚はたいて建造した鉄甲船が泣くというものです。
一方、雑賀水軍も考えます。
「よし、あのデカい船を乗っ取ってやろう!随分重そうな図体しているし、我々小舟のように小回りが利かんだろうから、次々に近づいて雑賀得意の鉄砲つるべ撃ちにし、焙烙玉を甲板に投げ込めば、船上の敵はいなくなるだろう。そうしたら我々の舟を横付けして乗り込み白兵戦で残兵を撫で斬りにして乗っ取ればいい。船数なら圧倒的にこっちが多いのだから。」
船数の多い雑賀水軍は、少数の敵を包み込んで殲滅する鶴翼の陣、九鬼水軍は一点突破に有利な魚鱗の陣の隊形を取り、お互い間合いを詰めていきます。(地図④参照)
◇ ◆ ◇ ◆
両船団の間合いが1km近くなってくると、雑賀衆は舟上で鉄砲の火縄に火を点けはじめます。300m程度の距離になれば射かけるつもりです。
また村上水軍から分けてもらった焙烙玉(写真⑤)も100m以下の距離になれば九鬼水軍の軍船に投げ込むつもりで、準備を開始していました。その時です。
ドン!、、ドン!、ドン!、、、ドン!、、ドドン!
と立て続けに大きな太鼓を打つような音が響いてきて、雑賀水軍舟の目の前に水柱が数本立ち上がりました。
なんだ?なんだ?
と雑賀衆は驚きます。
と、直ぐ隣の舟が浸水し始め、あっという間に沈んでしまいました。
鉄砲の有効射程距離が300mですが、筒が大きい程長距離飛びますので、九鬼水軍の大筒はそれの2倍の距離600mは飛ぶのです。そのリーチの違いが攻撃の先制の違いとなって現れたのです。
水柱による水しぶきが凄い勢いで降ってきます。
最前列の舟があらかた浸水、航行不能状況に陥っています。後続の舟も上手くそれらの舟の前に出ることが出来ません。
そこを狙うがごとく砲弾が飛んできます。
殆ど当たらず、水面に落ちるのですが、それでももう雑賀水軍の舟は水浸しで、焙烙玉に火を点ける余裕はありません。また準備中だった鉄砲の火縄もずぶ濡れで消火してしまいました。
今までは木造船を「焼き払う」戦い方だったのが、鉄甲船に装備された大筒6門の砲弾で「破壊し沈ませる」という新しい戦い方となり、雑賀水軍は驚きます。
歯が立ちません。
そんな大混乱の大阪湾口の雑賀水軍の中から、1,2隻、飛び出して鉄甲船に近づきます。そしてなんとか火を付けられた焙烙玉を投げつけるのですが、鉄甲船は看板からして鉄を貼ってありますので、熱した鉛が飛び散っても火災が発生しません。歯が立ちません。(絵⑥)
こうして雑賀水軍500隻は、九鬼水軍の鉄甲船7隻に、ほぼなす術もなく大阪湾突入を赦してしまうのです。
4.堺での「大船御覧」
紀淡海峡から大阪湾へ入った九鬼水軍は、7月17日に堺へ入港します。
堺は当時、信長配下の港町でした。
堺と信長について少々書きたいと思います。
◆ ◇ ◆ ◇
信長は、尾張半国から版図を拡大し、美濃、北伊勢等の中京地域をほぼ制し、他の戦国武将からも一目置かれる存在になりました。(地図⑦)
そんな信長は、足利義昭(よしあき)を伴って上洛。第15代室町幕府将軍(征夷大将軍)に据えます。
感激した義昭は、信長に副将軍職や管領(執事)等、幕府としての要職を与えたがりますが、信長は一向に欲しがりません。
義昭は信長に聞きます。
「我が父君(信長のこと、義昭は信長をこう呼んでいた)は無欲じゃのう。一体何が欲しいのじゃ?」
「はっ、さすれば町を3つ程頂きたい。」
「まち?この京の街を欲しいと申すのか?」
「いえいえ、恐れ多くも京は朝廷や将軍の街でございます。私はその周辺の地・堺、大津、草津あたりを頂ければ幸いかと。」
「とはいえ、堺は会合衆(えごうしゅう)という商人どもが共同で納めている自治の町と聞く。ワシが幾ら『下賜する』と言うたところで、これを従えるのは至難の技じゃぞ。」
「下賜するとお言葉だけで十分です。」
◆ ◇ ◆ ◇
この時信長は何を考えていたのでしょうか。勿論、実質主義で天下布武の構想に突き進む信長が、既に形骸化した室町幕府の要職なぞ、貰って益になるどころか却って弊害の多いものを望むわけがありません。
よく言われる説は、信長が親・信秀の代から引きついだ領国・尾張には津島、熱田等の良港があり、これらの港から上がる利益は国1つ以上の莫大なものでした。当初尾張半国という小さな版図しか持たなかった織田家に、それに不釣り合いな程、軍資金があったのも、これらの良港があったおかげなのです。関東の土地と共に生きる坂東武者等とは違い、彼はこの普通の武者では目に見えない経済論理を貿易という形で体得していて、これが実質的に大きな資金を生み出すとの強い認識を持っているのです。
なので、堺という西日本側に開かれた港を何としても手に入れたい。ついでに言うなら堺は根来衆らが種子島から持ち込んだ鉄砲の製造技術を堺の町で大量生産することに成功したため、鉄砲欲しさにこの堺を欲しがった。大体、この2つの説が堺を信長支配下に置く理由として挙げられています。(写真⑧)
そして、草津・大津は堺ほどではないにせよ、水運による日本の東側への物流拠点なので、ここを制すれば、例えば、東の雄・木曽氏、武田氏、上杉氏等へのけん制となったのではないかという説もあります。
でも、地図⑦を良く見て下さい。私にはどうもこの3都市の配置を見ると、京に対する物流制御の布石のようにも見えるのです。既に信長の版図自体が東側への物流制御を果たせると想定されますので、やはり西の堺、東の草津・大津を抑えて有事の際に京を制御したいという思惑があったのではないかと想像してしまいます。
ただ、堺だけは確かにその要素だけでははく、海外交易と鉄砲という魅力もあったのでしょう。
◆ ◇ ◆ ◇
ということで、信長は軍を引き連れ、堺に出向きます。信長に服従し、その証として矢銭(軍用金のこと)2万貫(約20億円)を払うこと。さもないと町を焼き払うと脅すのです。これが本気であることを会合衆は知っています。というのはちょっと前に、やはり自治都市であった尼崎にも同じ2万貫の矢銭を要求し、払わないとなると焼いたのですね。流石信長です。やる時は徹底してやるのです。
堺の会合衆は、それこそ名前のように会合を開き、この「服従か?抵抗か?」の要求に対し、大勢は「抵抗」を選択するのです。そして町は濠に架かる橋を上げ、櫓には鉄砲を並べ、来る信長軍に備えます。(地図⑨)
ところが、この信長の要求を「服従or抵抗」と捉えず「投資」と捉えた商人がいました。
今井宗久(そうきゅう)です。(絵⑩)
彼は、信長等、将来天下人になる人材に投資することで、将来自分達に利潤が廻ってくるという発想に立つのです。そして2万貫を信長に払うのは「服従」ではなくてあくまで「投資」と考えるのです。
今でこそ当たり前になったこの辺りの経済学的なセンス、当時分かっていたのは信長や秀吉等の天下人となる人物、堺の有力商人の一部くらいですかね。逆に見えないものが見えるからこそ、天下人の器なのかもしれません。
◆ ◇ ◆ ◇
長くなりましたが、話を戻します。
堺は、この鉄甲船にも投資していました。(正確にはさせられていました。)「九鬼兵糧」と称して毎月鉄甲船に掛かる莫大な投資資金を、この堺から出すように信長から指令を受けていたのです。
なので、当然投資案件のお披露目のために、この堺に鉄甲船は入港したのです。
ある意味、堺入港前の雑賀水軍への圧勝は、まさに今井宗久ら堺の商人らに対する良い土産話になったことでしょう。鉄甲船は1か月程度堺の港で「大船御覧」という形で、信長の政界関係者(近衛、細川、一色氏等)や会合衆、一般民衆にまで公開されたようです。
また信長の「総見記」には、この時宗久の屋敷で九鬼嘉隆や信長等を交えた茶会が開催されたとあります。(写真⑪)
この時に信長から九鬼嘉隆と滝川一益らに褒美が下されました。
九鬼嘉隆も面目躍如というところでしょう。
5.毛利水軍との対決
さて、冒頭にも述べましたが、1578年7月、丁度、九鬼水軍が雑賀水軍と交戦をする頃、荒木村重は信長に反旗を翻したのです。
彼からすれば、2年弱前の1576年11月に毛利・村上水軍が信長・九鬼水軍を鮮やかに破り、大阪湾を含む瀬戸内海の制海権を握った圧倒的な勝利に直ぐに感化されることなく、慎重に様々な要素を検討し悩んだ結果、信長を寝返り、毛利方に着く結論に至ったと思うのです。
もし、九鬼水軍の鉄甲船による勝利を知ったとしたら、どうだったのでしょう?
いや、知っていたのかもしれません。しかし、もう2年にも渡る謀反への思いは、鉄甲船くらいでは変わりようもないフェーズまで行っていたのかもしれません。
そして、荒木村重が謀反を起し、有岡城へ立てこもってから4か月後の1578年11月。
鉄甲船で大阪湾口の警戒に当たっていた九鬼水軍に再び、毛利水軍600隻が襲い掛かります。
長くなりましたので、続きは次回へ。
ご精読ありがとうございました。
《続く》
【鉄砲鍛冶屋敷】〒590-0928 大阪府堺市堺区北旅籠町西1丁3
【今井宗久屋敷跡】〒590-0955 大阪府堺市堺区宿院町東3丁1
結論からお話すると九鬼嘉隆が造ったのは戦艦です。正確には鉄甲船です。
「えっ、黒船が来る300年も前に戦艦が日本で作れたの?」と思われるかもしれませんが、この頃の日本はかなり造船技術も高かったようです。(勿論、黒船のような蒸気機関を持つような船を産業革命前に造るのは無理ですが)
江戸幕府が鎖国政策を取ったこともあり、かなりこの造船技術は廃れていった訳ではありますが。
③大阪湾に現れる九鬼水軍の鉄甲船群 |
まず、防御に対する対策として、鉄の船であれば焙烙玉が飛んできて、爆発直後に高熱の鉛を飛散させても木材ではないので燃えることはありません。ただ、戦艦大和のように厚さ30cm以上の装甲板が全部鉄のような、魚雷や大砲を考慮する訳ではありませんから、従来の木材の甲板や舷側に鉄の板を張り巡らしたものとなります。
また、攻撃に関しては、焙烙玉が飛んでくる前に、敵の船に穴を空けて浸水させ、船を沈めてしまう戦法をとることとしました。そのための武器を作りました。
と言ってもそんな大層な発想ではありません。従来の鉄砲では小さな穴しか空けることができないので、浸水効率は悪い、じゃあ、従来の鉄砲を大型化しようということなのです。まあ、その発想が後々大砲に繋がるのですが、この当時は大筒といっていました。1隻の舷側あたり3門、計6門の大筒を備えました。
なので、結果的に鉄の甲板と大砲を持つ船、つまり戦艦を作ったという訳です。
3.大阪湾口での海戦
赤字:毛利側
青字:信長側
|
この鉄甲船を九鬼義隆は伊勢の本拠地で6隻作ります。長さ22m、幅12mというこの当時としては非常に大きな船でした。
5000人は乗船できたという記録もあります。
ついでに九鬼義隆が伊勢の北畠氏から信長の軍門に入った時の直属上長である滝川一益(かずます)も1隻鉄甲船を建造。
1578年6月26日、計7隻の鉄甲船は伊勢志摩の浦を出航し、大阪湾を目指します。(絵③)
これを察知した石山本願寺。雑賀衆の門徒船を500隻準備し、雑賀沖は紀淡海峡で鉄甲船を迎え撃ちます。(地図④)
前回の海戦で負けている九鬼水軍としては、大軍とはいえ、こんな小舟の群れに負けては、大枚はたいて建造した鉄甲船が泣くというものです。
一方、雑賀水軍も考えます。
「よし、あのデカい船を乗っ取ってやろう!随分重そうな図体しているし、我々小舟のように小回りが利かんだろうから、次々に近づいて雑賀得意の鉄砲つるべ撃ちにし、焙烙玉を甲板に投げ込めば、船上の敵はいなくなるだろう。そうしたら我々の舟を横付けして乗り込み白兵戦で残兵を撫で斬りにして乗っ取ればいい。船数なら圧倒的にこっちが多いのだから。」
船数の多い雑賀水軍は、少数の敵を包み込んで殲滅する鶴翼の陣、九鬼水軍は一点突破に有利な魚鱗の陣の隊形を取り、お互い間合いを詰めていきます。(地図④参照)
◇ ◆ ◇ ◆
⑤村上水軍の焙烙玉 |
また村上水軍から分けてもらった焙烙玉(写真⑤)も100m以下の距離になれば九鬼水軍の軍船に投げ込むつもりで、準備を開始していました。その時です。
ドン!、、ドン!、ドン!、、、ドン!、、ドドン!
と立て続けに大きな太鼓を打つような音が響いてきて、雑賀水軍舟の目の前に水柱が数本立ち上がりました。
なんだ?なんだ?
と雑賀衆は驚きます。
と、直ぐ隣の舟が浸水し始め、あっという間に沈んでしまいました。
鉄砲の有効射程距離が300mですが、筒が大きい程長距離飛びますので、九鬼水軍の大筒はそれの2倍の距離600mは飛ぶのです。そのリーチの違いが攻撃の先制の違いとなって現れたのです。
水柱による水しぶきが凄い勢いで降ってきます。
最前列の舟があらかた浸水、航行不能状況に陥っています。後続の舟も上手くそれらの舟の前に出ることが出来ません。
⑥戦闘状態の鉄甲船 |
そこを狙うがごとく砲弾が飛んできます。
殆ど当たらず、水面に落ちるのですが、それでももう雑賀水軍の舟は水浸しで、焙烙玉に火を点ける余裕はありません。また準備中だった鉄砲の火縄もずぶ濡れで消火してしまいました。
今までは木造船を「焼き払う」戦い方だったのが、鉄甲船に装備された大筒6門の砲弾で「破壊し沈ませる」という新しい戦い方となり、雑賀水軍は驚きます。
歯が立ちません。
そんな大混乱の大阪湾口の雑賀水軍の中から、1,2隻、飛び出して鉄甲船に近づきます。そしてなんとか火を付けられた焙烙玉を投げつけるのですが、鉄甲船は看板からして鉄を貼ってありますので、熱した鉛が飛び散っても火災が発生しません。歯が立ちません。(絵⑥)
こうして雑賀水軍500隻は、九鬼水軍の鉄甲船7隻に、ほぼなす術もなく大阪湾突入を赦してしまうのです。
4.堺での「大船御覧」
紀淡海峡から大阪湾へ入った九鬼水軍は、7月17日に堺へ入港します。
堺は当時、信長配下の港町でした。
堺と信長について少々書きたいと思います。
◆ ◇ ◆ ◇
信長は、尾張半国から版図を拡大し、美濃、北伊勢等の中京地域をほぼ制し、他の戦国武将からも一目置かれる存在になりました。(地図⑦)
そんな信長は、足利義昭(よしあき)を伴って上洛。第15代室町幕府将軍(征夷大将軍)に据えます。
⑦信長が欲しがった3都市(緑字) と版図内の港町(青字) |
感激した義昭は、信長に副将軍職や管領(執事)等、幕府としての要職を与えたがりますが、信長は一向に欲しがりません。
義昭は信長に聞きます。
「我が父君(信長のこと、義昭は信長をこう呼んでいた)は無欲じゃのう。一体何が欲しいのじゃ?」
「はっ、さすれば町を3つ程頂きたい。」
「まち?この京の街を欲しいと申すのか?」
「いえいえ、恐れ多くも京は朝廷や将軍の街でございます。私はその周辺の地・堺、大津、草津あたりを頂ければ幸いかと。」
「とはいえ、堺は会合衆(えごうしゅう)という商人どもが共同で納めている自治の町と聞く。ワシが幾ら『下賜する』と言うたところで、これを従えるのは至難の技じゃぞ。」
「下賜するとお言葉だけで十分です。」
◆ ◇ ◆ ◇
この時信長は何を考えていたのでしょうか。勿論、実質主義で天下布武の構想に突き進む信長が、既に形骸化した室町幕府の要職なぞ、貰って益になるどころか却って弊害の多いものを望むわけがありません。
⑧堺市の鉄砲鍛冶屋敷 |
なので、堺という西日本側に開かれた港を何としても手に入れたい。ついでに言うなら堺は根来衆らが種子島から持ち込んだ鉄砲の製造技術を堺の町で大量生産することに成功したため、鉄砲欲しさにこの堺を欲しがった。大体、この2つの説が堺を信長支配下に置く理由として挙げられています。(写真⑧)
そして、草津・大津は堺ほどではないにせよ、水運による日本の東側への物流拠点なので、ここを制すれば、例えば、東の雄・木曽氏、武田氏、上杉氏等へのけん制となったのではないかという説もあります。
でも、地図⑦を良く見て下さい。私にはどうもこの3都市の配置を見ると、京に対する物流制御の布石のようにも見えるのです。既に信長の版図自体が東側への物流制御を果たせると想定されますので、やはり西の堺、東の草津・大津を抑えて有事の際に京を制御したいという思惑があったのではないかと想像してしまいます。
⑨当時の堺はぐるっと濠で囲まれた 強力な自治都市でした |
ただ、堺だけは確かにその要素だけでははく、海外交易と鉄砲という魅力もあったのでしょう。
◆ ◇ ◆ ◇
ということで、信長は軍を引き連れ、堺に出向きます。信長に服従し、その証として矢銭(軍用金のこと)2万貫(約20億円)を払うこと。さもないと町を焼き払うと脅すのです。これが本気であることを会合衆は知っています。というのはちょっと前に、やはり自治都市であった尼崎にも同じ2万貫の矢銭を要求し、払わないとなると焼いたのですね。流石信長です。やる時は徹底してやるのです。
堺の会合衆は、それこそ名前のように会合を開き、この「服従か?抵抗か?」の要求に対し、大勢は「抵抗」を選択するのです。そして町は濠に架かる橋を上げ、櫓には鉄砲を並べ、来る信長軍に備えます。(地図⑨)
ところが、この信長の要求を「服従or抵抗」と捉えず「投資」と捉えた商人がいました。
⑩今井宗久 肖像画 (京都市立芸術大学所蔵) |
彼は、信長等、将来天下人になる人材に投資することで、将来自分達に利潤が廻ってくるという発想に立つのです。そして2万貫を信長に払うのは「服従」ではなくてあくまで「投資」と考えるのです。
今でこそ当たり前になったこの辺りの経済学的なセンス、当時分かっていたのは信長や秀吉等の天下人となる人物、堺の有力商人の一部くらいですかね。逆に見えないものが見えるからこそ、天下人の器なのかもしれません。
◆ ◇ ◆ ◇
長くなりましたが、話を戻します。
堺は、この鉄甲船にも投資していました。(正確にはさせられていました。)「九鬼兵糧」と称して毎月鉄甲船に掛かる莫大な投資資金を、この堺から出すように信長から指令を受けていたのです。
なので、当然投資案件のお披露目のために、この堺に鉄甲船は入港したのです。
ある意味、堺入港前の雑賀水軍への圧勝は、まさに今井宗久ら堺の商人らに対する良い土産話になったことでしょう。鉄甲船は1か月程度堺の港で「大船御覧」という形で、信長の政界関係者(近衛、細川、一色氏等)や会合衆、一般民衆にまで公開されたようです。
この時に信長から九鬼嘉隆と滝川一益らに褒美が下されました。
九鬼嘉隆も面目躍如というところでしょう。
5.毛利水軍との対決
⑪今井宗久の屋敷跡 |
彼からすれば、2年弱前の1576年11月に毛利・村上水軍が信長・九鬼水軍を鮮やかに破り、大阪湾を含む瀬戸内海の制海権を握った圧倒的な勝利に直ぐに感化されることなく、慎重に様々な要素を検討し悩んだ結果、信長を寝返り、毛利方に着く結論に至ったと思うのです。
もし、九鬼水軍の鉄甲船による勝利を知ったとしたら、どうだったのでしょう?
いや、知っていたのかもしれません。しかし、もう2年にも渡る謀反への思いは、鉄甲船くらいでは変わりようもないフェーズまで行っていたのかもしれません。
そして、荒木村重が謀反を起し、有岡城へ立てこもってから4か月後の1578年11月。
鉄甲船で大阪湾口の警戒に当たっていた九鬼水軍に再び、毛利水軍600隻が襲い掛かります。
長くなりましたので、続きは次回へ。
ご精読ありがとうございました。
《続く》
【鉄砲鍛冶屋敷】〒590-0928 大阪府堺市堺区北旅籠町西1丁3
【今井宗久屋敷跡】〒590-0955 大阪府堺市堺区宿院町東3丁1