あと2日。福原の都(今の神戸市)で後白河院の院宣をもらった文覚が、伊豆に帰り、入定(にゅうじょう)を7日目にして完了としなければなりません。
そこで文覚は福原の都・大輪田の泊から船を出してもらいます。右大将という高位にある藤原光能にとって、文覚を船で伊豆へ送り届ける等というのは非常にたやすいことなのです。
ところが・・・
1.船中の文覚
順調に風を帆にはらませ、東へ疾走する船は、大輪田の泊を出航してたった1日で、遠州灘から駿河湾へと滑りこみました。
①遠州灘の大しけ(イメージ) |
「こりゃ、どうしたことか!」
船子は皆、慌てふためきます。今まで何度も大しけには遭っていますが、これほど急激な変化をみせ、今回の規模になったものには遭ったことが無いのです。
皆が、船酔いして苦しみ、かつ船が難破してしまうことに慄く中、一人静かな者がいます。
そう、文覚です。文覚は大願成就のための断食を京を出て福原に向かう頃から行っていたのです。
船子たちは座って動かない文覚に言います。
「あんたは、僧だよね。皆がこんなに苦しんでいるのに、僧のあなたが何もしようとしないとはなんたること。役立たず!」
すると文覚は、言い放った船子をじっと睨みつけ、やおら立ち上がりました。
周りで見ていた人たちは、殴りかかろうとするのではないかと感じましたが、文覚はそのままドカドカと船の舳先に行き、荒れ狂う海上を睨みます。
「この船中には大願を発したる文覚が乗ったるなり、我昔より千手経の持者として、深く観音の悲願を憑(たの)み、龍神八部正しく如来説教の砌(みぎり)にして、千手の持者を守護せんとの誓いを発するに非ずや」(「源平盛衰記」)
要は、千手経を持っている者は龍神八部衆という仏神が守ってくれる約束ではなかったのか?(写真②)しかも、大願を果たそうとする文覚に対して海が荒れるとはなんたることだ!
と文覚は一喝したのです。するとどうでしょう。たちまち波が静まったのです。
この法力の凄さを目撃した船子たちは驚き、多くの者が文覚の弟子になることをその場で申し入れた程だったと源平盛衰記には書かれています。平家物語にも同様の話があります。
この話どこかで聞いたことがありませんか?
2.キリスト教の聖書との奇妙な一致
《マルコ4章35節~41節》
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、艫のほうで、枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
いかがですか?似ていませんか?
◆ ◇ ◆ ◇
ついでに、もう1つ聖書と似通った話だなあと私が感じた伝承が、頼朝がこの後、文覚と会見する高源寺にもありましたので紹介させてください。(写真④)
④高源寺(函南) |
《実無し椎(高源寺看板より)》
頼朝がこの寺の境内にある椎の木の下でまどろんだ時に、椎の実が頼朝の顔面に落ちてきた。(写真⑤)
⑤椎の実 (ドングリですね) |
頼朝は怒って
「若し椎なるとも実らざれ」
するとその椎には二度と実がならなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
一方、聖書の箇所の方ですが、
《マルコ11章12節~20節》
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかには何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなったからである。(写真⑥)
⑥いちじくの実 |
朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
◆ ◇ ◆ ◇
頼朝よりイエスの方が手厳しいようにも感じますが、両エピソードの共通点は「木の実」に対する影響力の凄さですね。ちょっと椎もいちじくも可哀そうな気もしますが、多分、聖書の書かれたいちじくの話の中のキリストを英雄というとらえ方をした日本人が、同じく英雄的な頼朝に置き換えて話を作ったのではないかと想定します。
キリスト教が日本に初めて伝来したのは戦国時代の1549年となっていますが、聖書にあるいくつかの話は、鎌倉時代にはかなり日本に入り込んでいたようです。
お隣の中国には西暦250年くらいには景教としてキリスト教が西から伝わってきました。そして日本が盛んに遣隋使や遣唐使を送るころは、かなりの勢いで中国国内に拡散し始めているのです。
その時期に遣唐使や遣隋使等を介して日本に入ってきた聖書の話は、一部仏教的な逸話と混同されて国内で伝搬されていったのでしょう。平家物語や源平盛衰記等のような一級書物に記載されるまでに至ったのは、とくに文覚のような仏教系でありながら、不思議な力を持つ怪僧に当てはめるのはピッタリの話だったことからではないかと想像されます。
⑦太秦にある三位一体鳥居 |
まあ、それ以外にも伊勢神宮の灯篭にある紋が旧約聖書・ダビデの紋章と同じ等、神社とキリスト教との類似性を指摘する多くの説があります。中には旧約聖書に出てくるイスラエル12部族のうちの1部族が消えた年代と皇族の起こりの時期が重なることから、その部族が日本の皇族の起源なのではないか?という大胆な説もあるようです。
3.伊豆・奈古谷みせかけ入定の成功
興味は尽きませんが、話を戻します。
海上での嵐を収め、無事伊豆に上陸した文覚。夜を徹して歩き、7日目の未明に元の奈古谷のお堂に飛び込みました。あまりの強行軍と空腹で疲れ切ってお堂の中で死んだように寝ていると、
ガチャガチャガチャ
と正面の鍵が村人たちにより開けられる音がします。
開けられた扉からの陽の光が、徹夜明けで死んだように眠った後の文覚にとっては、非常に眩しく感じられ、また逆光なので誰が入ってきたのか確かめようと文覚が目を細めて扉の方を凝視します。村人たちはそれが文覚が7日間に渡り日の目を見ずしてここに籠り続けた努力の証と勘違いしたようです。
「文覚殿、大丈夫か!」
と2,3人が走り寄り、目をこする文覚を抱き起こします。
そして2人が文覚の両側から肩を貸し、お堂の庇まで文覚を連れて行きます。
「皆の衆!文覚殿は生きておられるぞ!」
「おー」
と沸く民衆。とりあえず文覚は何も考えずにこの愛すべき村人たちの歓喜の顔を呆然と眺めていました。その中にはあの頼朝の姿もありました。
4.頼朝との駆け引き
さて、なんとか入定7日内に院宣持ち帰りの目的を果たすことができた文覚ですが、頼朝との面会には文覚の庵のある奈古谷や、頼朝のいる蛭が小島等から少し離れた函南(かんなみ)の高源寺でおこなうこととなりました。
これは、頼朝が蛭が小島に流されてから、その乳母である比企尼(ひきのあま)も伊豆に来て、頼朝に付かず離れずの、函南・大竹に起居していたことから、頼朝が比企尼に頼んで、この高源寺を面会場所として用意してもらったのです。(写真⑧)
⑧高源寺の手前にある比企尼の供養塔(左側) |
文覚が伊豆に戻って3日後の夜、文覚はこの高源寺の本堂にて、頼朝と座を並んで赤不動明王に手を合わせた後、対座しなおします。
「して文覚殿、院宣はどちらに?」
「頼朝殿!」
頼朝は文覚が大声で名を呼んできたのでビクッとします。
「1つ院宣をお引渡しする前に、お約束願いたい。」
「約束?」
「左様。この文覚、この院宣を貴殿にお渡しするからには、貴殿に天下をとって頂くよう粉骨砕身の働きをする覚悟。で、天下をとった暁には、京・神護寺の復興にご尽力を賜りたい。」
タダでは院宣を渡さず、自分の夢の実現を交渉材料に出すあたり、流石策士文覚です。
「あははは。文覚殿、そなたは確か神護寺復興の勧進に、後白河院の宴会に乗り込んだことが原因でここに流されてきたのでしたね?あきらめた後白河院の代わりに、私に神護寺を復興せよと。院宣にはそう書かれているのではないでしょうね?」
頼朝の嫌味も文覚の策士ぶりに負けていません。
「まさか・・・」
真っ赤な顔になる文覚。これに対して頼朝は微笑みながら話を始めるのです。
《つづく》
【高源寺】〒419-0101 静岡県田方郡函南町桑原1265
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