前回、以仁王が父・後白河法皇の軟禁に猛烈に反発して清盛追討の令旨を発出。この令旨は伊豆の頼朝のところにも届きます。
この令旨を発出し平家に反旗を翻すにあたり、以仁王が頼りにしたのが源頼政です。
清盛によって源氏の中では三位という高位に就かせてもらっていた頼政も、前々からいつか平家に対する源氏再興のリベンジを狙ってタイミングを諮っていました。
この以仁王からの要請時に、頼政の息子・仲綱が平家の宗盛から侮辱を受けたこともあって、「今がそのタイミング」と頼政も悟ります。
令旨発布は直ぐに平家の知るところとなります。以仁王は女装をして園城寺に逃げ込みます。(360度写真①)
360度写真① 園城寺本堂
頼政も以仁王の後を追って園城寺に入り、仲綱らと挙兵するのです。今回はこの続きからです。
1.渡辺競のリベンジ
家屋敷を焼いて、園城寺に立て籠もる頼政父子と以仁王。1180年5月21日のこと。
実は、この時、頼政の支援部隊である渡辺党の猛者・渡辺競(わたなべ きおう)という豪傑のエピソードが面白いので紹介させてください。
さて頼政の息子・仲綱(なかつな)が、頼政に泣きつくところを前回描写しました。
「父上、愛馬『木の下』虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」
「・・・」
②渡辺競滝口 (競は滝口の武者なのでそう呼ばれます) |
この父子の会話を部屋の外で聞いていた者がおります。渡辺競です。(絵②)
ーそうか。仲綱殿の名馬「木の下」は平宗盛殿から恥辱を受けていたのだな。ー
さて、その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。
競は渡辺党の中核であり、滝口の武者、「競滝口」という異名が付くほどの勇者ですから、当然、頼政も「競、園城寺へ供をせい!」と下知します。
ところが競は
「三位(頼政)殿、私は少々思うところがありますので、ここに残ります。」
と頼政の目を見て言うのです。頼政も、競の目を見てそれ以上は何もいいません。
頼政らが屋敷を焼き払った翌日、競はいつものように滝口の詰所に入ります。詰所は平家の本拠・六波羅の裏手にあり、競が滝口に入るのを平宗盛が見つけました。
「あれ渡辺競が滝口におるわい。奴程の勇者、三位は何故連れて行かなんだのだろう?」
ということで、実は前々から競のような勇者(かなりのイケメンでもあった)を召したいと思っていた宗盛は、彼を六波羅に呼び寄せます。
「御辺は何故、主君三位殿と共に行動しないのか?」
「それでございますが、いつもならすぐに私に色々と指示があるところの三位殿が、この度は何か思うところがあったのか、私には何の指示もありませんでした。気が付けば主君は何と朝敵となって園城寺に立て籠もっています。正直私も困惑している次第です。」
「確かに三位は朝敵となった。ついては競、どうじゃ、この宗盛に使えんか?御辺のような勇者がこの宗盛に奉公してくれれば悪いようにはいたさんが、如何か?」
「もとより、いくら主従の関係が強固であろうと三位殿は朝敵。味方する気はございません。宗盛様にご奉公致しましょう。」
喜んだ宗盛。その日は朝から晩まで、競を何度も呼び出し、主従の信頼関係を深めようと懸命だったようです。そんな心境を知ってか、夕方頃、競は宗盛に1つ願いでるのです。
③上段:宗盛に馬を貸してくれるよう頼む競 下段:秘蔵の名馬「南鐐」を準備する馬方 |
これを聞いた宗盛。流石は競とばかりに、秘蔵の名馬「南鐐(なんりょう)」を引っ張り出してくるよう近衛の馬方に申し付けます。(絵③)
④白葦毛 ※南鐐もこんな感じ |
競は喜び、宗盛に言います。
「お貸し頂いた名馬・南鐐を駆って、これより宮(以仁王)と三位(頼政)の首級を上げたいと思います。」
馬倉から引き出された南鐐。その金覆輪の鞍に競はひらりと跨ると、颯爽と園城寺の門前に駆け付けます。
◆ ◇ ◆ ◇
そして、閉ざされた門の中で陣を張っているであろう頼政や以仁王に、大音声で叫びます。
「競、只今伊豆守殿の『木の下』の代わりに、六波羅の『南鐐』を取ってまいりました!」
おおーっ!
と大きなどよめきが門の中でおこります。直後に園城寺の門が開きます。
南鐐を門内へと進めると、頼政が出てきて(絵⑤)
「競!立派な武者ぶりじゃ!息子・仲綱の恨みを晴らしてくれたのだな!」
⑤頼政陣営 ※競は頼政の右下「瀧口渡邊競」とある |
源平合戦の緒戦としては、馬ばかりが一番可哀そうに感じる話ではあります。
なんと、この後、南鐐はたてがみとお尻の毛を剃られ、「昔は南鐐、今は平宗盛入道」との文字を焼き印されたのです。写真④の名馬のお尻の毛が剃られ、そんな変な言葉を焼き印された南鐐を思うと涙が出ますね。可哀そうな南鐐。
もう「木の下」も「南鐐」も、「仲綱」とか「昔は南鐐、今は平宗盛入道」とか政争の道具に使わないで貰いたい・・・。お馬さんが可哀そうです。
そして、可愛そうな南鐐を六波羅へ馬だけで返したとか。
◆ ◇ ◆ ◇
返ってきた南鐐を見た平宗盛。平家一族に怒りをぶつけます。
「おのれ!競! 知盛(とももり)、はよ園城寺を攻めよ。重衡(しげひら)、競を生捕りにせよ。忠度(ただのり)、ノコギリでやつの首を少しずつ斬って殺すのだ!」
競は見事、源仲綱の恥辱を雪いだのでした。
2.橋合戦(前半)
園城寺に立て籠もった以仁王と頼政・仲綱父子ですが、強大な平家に軍を差し向けられれば、如何にこの園城寺の僧兵が強いと言っても、持ちこたえることは難しいでしょう。
彼らの望みは、全国の源氏に決起を呼び掛けた令旨が効いてきて、反・平家運動が活発化することです。それまでなんとか僧兵らに守られながら時を稼ぎたかったのです。
元々、以仁王らは、園城寺の他に、比叡山、南都(奈良)興福寺の僧兵たちも一緒に決起するよう周旋しておりました。
⑥南都・興福寺 |
ーこれはまずいー
と思った以仁王と頼政は、ひとまず京や比叡山からは遠く、南都興福寺に落ち延びることにしました。(写真⑥)
比叡山の麓にある園城寺は比叡山から攻めやすいのですが、流石に比叡山も南都まで出向いて戦をするような機動力はありません。また平家もいたずらに興福寺等を攻撃すれば、東大寺の大仏をはじめとした日本の伝統ある寺院群が灰燼に帰す可能性があります。それは人心が益々平家から離れることを意味するので、そうそう安易に大軍で攻めるということはできないでしょう。(結果的に平家は南都を灰燼に帰してしまうのですが・・・)
5月25日、園城寺に入って4日目の夜中に以仁王・頼政軍は興福寺目指して行軍を開始します。平家側もこの動きを察知し、即、以仁王らを追いかけ、南都入りを阻止しようとします。この時の平家側の大将は、先に宗盛が宣告した知盛、重衡、忠度。
翌26日、以仁王は夜行軍が響いたのか、元々乗馬も馴れておらず。6回も落馬をしたのだそうです。
流石に、これはヤバいと頼政は思ったのでしょう。途中、宇治平等院にて以仁王を休ませることにしました。(360度写真⑦)
⑦宇治平等院(360°写真)
平等院でのこの停滞が命取りになりました。平家軍は追い付きます。
勿論、頼政側も無防備に平等院で昼寝をしていた訳ではなく、以仁王を平等院にて仰臥させると、取って返し、宇治川を渡る橋の橋板を外し、来るべき平家軍と対するために橋たもとに陣を張ります。(絵⑤のイメージ)
平家軍が現れました。怒涛の如く頼政の陣目掛け、橋を渡ってきます。(絵⑧)
⑧宇治川の橋を渡ってくる平家軍(左) 頼政の軍は園城寺の僧兵が主体(右) ※アニメ「平家物語」から |