頼朝挙兵前の最後の周旋を文覚が、相模の三浦半島や房総半島で行っている間、伊豆は守山の頼朝挙兵準備も、ほぼ出来上がりました。
そして挙兵当日。
今回は1180年8月17日の挙兵当日の模様をお伝えしたいと思います。
1.佐々木兄弟の遅延
計画では、前日16日夜に頼朝を含め全員守山館に集まり、朝を待って、山木館を襲撃することとしていました。
ところが、ずっと懇意にしてた佐々木四兄弟が、約束をした夜になっても現れません。
「うーむ、大庭景親に捕まったか・・・」
と頼朝の中に不安が過ぎります。よもや、山木館襲撃の情報を大庭景親に簡単に漏らすようなことを、近江源氏の流れを汲むプライド高き佐々木一族がするわけはないと思いながらも、実は渋谷荘の早川城へ戻ったのは、景親に寝返り、こちらの挙兵情報を伝えるためだったのではないのか・・・。(写真①)
①佐々木四兄弟が戻った渋谷荘 (丹沢の大山と左にうっすら富士山が) |
しかし、今となっては総大将たるもの、少しでも不安を表に出せば、今、ここに参集している土肥実平を始めとする数十騎への動揺を与えかねません。旗揚げは失敗するかもしれないのです。
「いいや、この後に及んで誰一人疑ってはいけない。これだけ神仏に縋ってきたのだ。旗揚げが失敗する訳が無い。」頼朝は、子供の頃から大事な場面では肌身離さずの小さな持仏観音像を手の中で握りしめます。(写真②)
②頼朝の持仏(髻)観音(伊豆の国市大河ドラマ館) |
頼朝は意外とゲン担ぎの性格でもあります。
この物語の原点、智満寺で「この杖が大木に育った時に、自分は源氏再興の大願を果たせることができる」と宣言し、文覚をもって杖が大木になった奇跡を確認させています。
今回の挙兵も、千回読むと決めたことができないのは、マズいのではないかと、わざわざ伊豆山権現の覚淵(かくえん)に相談する始末。
「800回でもご利益はある」
との覚淵の言葉に安心し、この持仏観音を綺麗に洗浄し、挙兵に臨んだのです。
◆ ◇ ◆ ◇
頼朝は、現場で具体的な襲撃指示をする北条時政と相談し、今晩中に佐々木四兄弟が戻らなかった場合も想定しての対応を協議します。
集まった武者達の間に、「なんだ、なんだ。」「佐々木兄弟が来ていないらしい。」「もう計画が漏れたか。」等、動揺が広がります。
そんな状況を察し、この気弱で若い頼朝を少しでも楽にしてあげようと時政が頼朝に言います。
「佐々木兄弟が遅れてくるのは三嶋大社の神々が明日の早朝の旗挙げは止めよと言っているのでしょうな。明日は三嶋大社の御神事、それが始まる前に弓矢を取ること候はずということでしょう。とりあえず早朝の挙兵は延期しましょう。逆に三嶋大社に奉幣使(ほうへいし、神社に代理で詣でる使者)を遣わし、まずは挙兵の成功を祈らせましょう。」
それを聞いて頼朝は、また少し安心しました。この頃の頼朝は兎に角、流人生活が長かったせいか、何をやるのにも自信がないのです。
翌朝には戻るだろう・・・
頼朝は、朝日が昇る暁七つ(午前4時頃)には起き出し、佐々木兄弟が今戻るか、今戻るかと悶々としておりました。
結局、佐々木兄弟が帰ってきたのは、翌17日の午後2時を回った頃でした。計画では、15日の夜中には頼朝との約束通り、戻るつもりで行動していたのです。
彼らは、今回の一大事に、是非先祖伝来の近江源氏の由緒ある鎧を着たいと感じ、相模の早川城に取りに戻ったのは前回お話した通りです。ところが、台風の影響により河川の氾濫等で行く手を遮られ、この遅参が生じたのです。
頼朝の挙兵時は台風による河川の氾濫が多発していたようで、これはこの挙兵後の石橋山合戦の敗戦の一原因にもなっています。
頼朝は佐々木四兄弟を強く叱責し、この失態は挙兵時における四兄弟の大活躍で償ってもらうとまで言い切りました。
内心は「佐々木兄弟は近江源氏の由緒ある鎧を着たいと張り切っている。誰も裏切っていない。やはり今回の旗揚げは幸先いい。」と正観音像を強く握りしめます。
そして、全軍に「山木と雌雄を決し、源氏再興の吉凶を占う!」と宣言し、来襲計画変更で不安になりかけた同志を鼓舞します。
2.三嶋大社への願掛け
③三嶋大社の安達盛長警護の跡 |
地元である伊豆の国市には、この百日詣に関する数々の伝承が残っていますし、三嶋大社にも、「百日間毎暁蛭ヶ小島より三嶋大社に日参するに際し、従者・盛長が此処の所で警護したと伝えられる」箇所があります。(写真③)
この百日詣、もし4月27日に叔父・源行家が頼朝へ以仁王の令旨を届けてから始めたとすると、8月17日挙兵の直前までかかったことになります。先の経文千回の話もそうですが、頼朝って結構完璧主義者というのか、験担ぎというところがあるというのか、信心深いのか。ちょっと気弱な性格が見え隠れもしますしね。
でも本当は、先の先まで見えていた人で、わざとそう見せていたのかもしれません。そのような抜けたところが無いと、挙兵以前に平家側に殺される可能性があるわけです。源氏の嫡流なだけに。そういった頼朝固有の事情による処世術だったと考えても不自然ではないのです。
④三嶋大社にある「旗揚げの碑」 ※この碑には以下のことが書いてあります。 ⑤旗挙げの碑にかいてあることとは 三嶋大社の御大祭は8月16日であり、その日夜討ちにて 山木(八牧)兼高を討つべしと頼朝が時政に相談すると 時政は「今夜は三島社の御神事にて国中には弓矢とる事 候わず」と答え、挙兵は翌日17日となったとあります。 微妙に挙兵の日時が文献その他によって違うのですね。 |
3.挙兵