前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。
大返しは、約230kmの行程をわずかな期間で踏破し、3万もの大軍を率いて戦闘にまで及んだ作戦である。この成功の鍵として、近年、海路の活用が注目されている。本能寺の変からわずか2日後には大返しが開始されていることを考えると、急遽、大返しのために海路を準備したとは考えにくい。
この問題の解決策として、皮肉にも、もはや訪れることのない信長のために秀吉が準備した御座所が活用されたのではないか、という説が浮上している。
以前の論考でも述べたように、秀吉は信長に出陣を促した。これは、自身の力では中国攻めが限界であるため主君・信長を頼る姿勢を見せつつ、実際には水攻めなど、中国攻めでの自身の活躍を信長に見せつけることが目的であったと考えられる。そうであれば、備中高松城までの道中に信長の御座所(貴人が宿泊・休憩する場所)を準備する配慮を秀吉が怠るはずがない。
当然、御座所を準備するのであれば、その間の移動手段も抜かりなく準備するはずである。前回の論考でも触れたが、当時、毛利氏は村上水軍による瀬戸内海の制海権掌握に努めていた。しかし、当時の秀吉は、村上水軍の一部である来島水軍を味方につけ、また児島水軍なども配下に加えており、毛利水軍に対抗できるだけの水軍力を有していたことが明らかになっている。
とすれば、御座所間の信長の移動に船を用いることを考えても不自然ではない。かつて平家の都として栄えた福原に位置する大輪田泊(写真②)には、戦国時代に兵庫城が存在した。そして、この兵庫城こそ、本能寺の変がなければ信長の御座所として準備されていた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっているのである。
②ここ大輪田泊には、戦国時代に兵庫城が存在 (現在のイオンモール辺り) |
2.秀吉の「神速」と戦略
では、なぜ秀吉は、3万の軍が追いつかないほどの勢いで、単身でも帰路を急いだのだろうか。この疑問は、山崎の戦いの布陣図を見ると氷解するだろう。図③をご覧いただきたい。これは、天王山山頂付近から見える各軍の陣立てに基づき解説した看板の抜粋である。
③天王山山頂付近(旗立松展望台)の看板に ある山崎の戦いの配陣図 |
であるならば、秀吉はまず、播磨・摂津の武将たちに、鬼神のごとき迅速性と勢いを見せつける必要があった。光秀が彼らや京周辺の武将らを自陣に取り込み勢力を拡大する前に叩くためには、合戦は早ければ早いほど良いという判断があったのだろう。そのため、備中から速く京へ引き返すことが作戦の基本であった。しかし、単に速いだけでなく、「鬼神」のごとき神がかった速さが必要であった。これが光秀の勢力拡大を阻止し、周囲を巻き込み天下人となる「勢い」となるのだ。
まず6月6日に備前沼城を出発した秀吉は、海路も活用し、他の兵に先駆けて70kmも離れた姫路城へ早々に到着した。ここで、上記の摂津・播磨の武将たちに檄を飛ばす書状をしたためたのである。信長や信忠は生存しているという偽情報を流したという説もある。
④姫路城 |
なぜ、沼城から姫路城までこれほど急いだのか。沼城までは、信長の変死を知った毛利軍が猛烈に追撃してくる状況を想定し、秀吉は緊張していた。しかし、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から献上された姫路城まで一気に逃げ切れば、ひとまず安心できたのだ。毛利の脅威はほぼなくなり、次なる大敵である明智光秀に対する様々な策略に没頭できるというわけである。
光秀もまた賢い武将であった。柴田勝家が越中・能登の北陸戦線(対上杉氏)に、滝川一益が後北条氏の上州討入り計画への対応に追われ、もちろん秀吉も中国戦線で膠着している状況を見極めたからこそ、変を起こしたのだ。しかも、秀吉への援軍として控えている丹波・播磨・摂津の武将たちは、旧来から光秀とは昵懇の仲であったため、交渉次第では全員が、秀吉の援軍どころか、光秀の援軍、つまり秀吉の敵になりうる立場にあったのだ。
実際、大返しを行った秀吉こそ、毛利からの追撃だけでなく、丹波・播磨・摂津の武将たちからも襲いかかられ、光秀から血祭りに挙げられる最初の武将となるかもしれない状況であった。
彼らが光秀についてしまうと、万が一光秀との合戦に敗れた場合、京から姫路への退路も閉ざされかねない。そう考えると、備中高松城から姫路までは、まず逃げるように駆け込み、ここで丹波・播磨・摂津の武将たちを自分の味方につける方策を早急に立てる必要があったのだ。つまり、大返しの兵員よりも、上記の陣形で先陣を切っていた武将たち(中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰ら)の確保が重要だったのである。
その根拠に、明石を通過してからの1日の行軍距離が30km以下となっている点が挙げられる。これは、先に姫路城で書状をしたためた播磨・摂津の有力武将たちに、迅速な秀吉軍、無傷の秀吉軍、そして忠義の秀吉軍を見せつけ、その後の光秀討伐を有利に進めようという秀吉の思惑があったためと推定されるのだ。
⑤秀吉が髻(もとどり)を切って光秀への復讐心 を見せたのは、尼崎はこの寺町付近と言われる |
もちろん、元播磨出身の黒田官兵衛が秀吉の背後で、地元の武将たちを説得していたことも大きな要因である。秀吉も、いくら素早く戻ったとしても、自軍の疲労度を考えれば、待ち構える光秀と対等に戦えるわけがないことは理解していた。しかし、その行動力を見せつける効果がいかに重要であるかを、さすが「人たらし」と称されるだけあって、彼は深く理解していたのだ。
3.山崎の戦い
こうして、摂津・播磨衆を先鋒に従えた秀吉軍と、軍師・斎藤利三を前面に出した明智光秀軍との間で山崎の戦いが始まった。天王山頂上付近から現在の戦場周辺を写したのが写真⑥である。
⑥山崎の戦い古戦場 |
写真⑥の正面に見える京滋バイパス(名神高速道路の迂回路)の、やや左側でとぐろを巻いているのが大山崎ジャンクションだが、ちょうどこのあたりを中心に明智軍と秀吉の先鋒がにらみ合ったのだ(地図③ご参照)。
長文になったため、山崎の戦いのクライマックスについては次回に描くこととしたい。
ご精読に感謝する。
【備中・高松城】〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2
【備前・沼城(亀山城)】〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801
【姫路城】〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
【兵庫城】〒652-0844 兵庫県神戸市兵庫区切戸町5−26
【尼崎・寺町】〒660-0867 兵庫県尼崎市寺町
【天王山・旗立松展望台】〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎