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秀吉の天下統一① ~名胡桃城事件~

豊臣秀吉の天下統一は、20万の秀吉軍による小田原征伐の完了をもって成し遂げられた。多くの人が、小中学生の頃にそう習ったはずだ。しかし、その認識は正確なのだろうか?
①小田原城

秀吉は小田原征伐の後も、北関東から東北にかけての領土問題を解決するため「宇都宮仕置」「奥州仕置」を行った。さらに、これに不満を抱いた九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こし、その鎮圧にまで時間を要している。

真の天下統一は、この「九戸政実の乱」の平定をもって完了したのではなかろうか。今回のシリーズでは、この天下統一の総仕上げに至る経緯を紐解いていく。

1.惣無事令(そうぶじれい)

本能寺の変から5年後の天正15年(1587年)、豊臣秀吉が全国に発した「惣無事令(そうぶじれい)」は、大名間の私闘を禁じ、その裁定権を秀吉自身に一元化することを目的としていた。
要するに、秀吉の許可なく勝手に戦をしてはならない、という天下統一に向けた強力な命令だった。

②北条氏邦の鉢形城
この巨岩の上が本丸

この惣無事令違反を理由に実施されたのが、小田原征伐である。 当時の北条氏は約250万石という広大な領土を持つ有力大名であり、天下統一を目前に控えた秀吉にとって、その存在は無視できないものだった。徹底恭順か潰すかの二択を迫られる存在だったのだ。秀吉としてはできれば、何某かの口実でつぶしてしまおうと考えていたのだろう。

後世に、徳川家康が豊臣家を滅ぼす口実とした「方広寺の鐘銘事件」のような、いわば難癖のようなものと小田原征伐の口実も同じではないか、と考える向きもある。しかし、北条氏の惣無事令違反は、決して言いがかりではなかった。

2.北条氏の惣無事令違反① 宇都宮攻め

惣無事令は、関東・東北地方で領土拡大の野心を燃やす武将たちに、特に向けられた命令だった。北条氏は北関東への勢力拡大を狙い、東北では伊達政宗が領土拡大を企てていたのだ。彼らは天下統一に出遅れた分を取り戻そうと、まさに領土欲の塊だった。乗り遅れたと焦る彼らこそ、惣無事令が特に標的とした武将たちだった。

惣無事令発令から2年後の天正17年(1589年)、この命令を無視し、北条氏は下野国(現在の栃木県)へ侵攻した。鉢形城主の北条氏邦は、宇都宮国綱の拠点・宇都宮城を攻撃したのである。 これは、秀吉の定めた秩序を破る、明確な惣無事令違反だった。(写真②、360°写真③)

③宇都宮城
確かに宇都宮城は市街にある平城

宇都宮国綱は、平城だった宇都宮城から、より守りやすい山城である多気城へ拠点を移し、なんとか北条氏の侵攻を防いだ。(写真④)

④宇都宮氏が、宇都宮城から
移った山城・多気城
(宇都宮城内展示模型)

この宇都宮攻めは明らかな惣無事令違反であり、豊臣秀吉が小田原征伐を決意するきっかけの一つになったはずだ。事実、北条氏を降伏させた秀吉は、翌年、宇都宮城に入城し、有名な宇都宮仕置を執り行っている。

しかし、歴史的に見ると、この宇都宮攻めが直接的な開戦理由になったとは一般的には言われない。

秀吉に20万の大軍を率いて小田原征伐を決意させたのは、名胡桃(なぐるみ)城事件こそが最大の引き金だったとされている。

3.北条氏の惣無事令違反② 名胡桃城事件

北条氏の宇都宮攻めは、単純な惣無事令違反だった。しかし、もう一つの違反である名胡桃(なぐるみ)城事件は、さらに悪質だったのだ。
この事件には、秀吉が仕掛けた罠だったという説もある。もしそれが事実なら、秀吉はやはり恐るべき策士だ。徳川家康が方広寺の鐘銘を口実にした「国家安康」の件など、子供の遊びのように思えてくるほどである。
では、なぜこの名胡桃城事件こそが、小田原征伐の直接的な原因とされているのか、その詳細を見ていこう。

4.真田昌幸(まさゆき)のリスクヘッジ

もともと北関東の西側は、信濃の武田、関東の北条、越後の上杉という三国がにらみ合う地だった。武田軍の最前線を担っていたのが、信州・上田城を拠点とする真田昌幸である。

◆ ◇ ◆ ◇

ここで少し脱線しよう。武田家滅亡の直前、織田信長の大軍に攻められ、武田勝頼は居城・新府城を捨てて落ち延びる先を探した。その際、昌幸が「私の岩櫃城へ!」と進言したことは有名だ。
岩櫃城は、信州・上田城と沼田方面の拠点である名胡桃城・沼田城を結ぶ要衝であり、信州にも上州にも機動的に出られる、非常に重要な城だったのだ。(図⑤)

⑤惣無事令発出時の真田領と北条領

岩櫃城は、単に防御に優れているだけでなく、非常に戦略的な位置にあった。織田軍や北条氏の動きに応じて、上田城や名胡桃城、沼田城など真田氏の各城と連携し、臨機応変に対応できる要衝だったのである。
一方で、この時、武田勝頼が落ち延びる先として選んだのは、小山田信茂の岩殿城だった。(写真⑥)

岩櫃城と岩殿城、名前も堅牢さも似ているこの二つの巨岩の城、そして静岡県の久能山城の三つこそが、武田氏の三堅城として知られているのだ。

⑥左:岩櫃城(上州) 右:岩殿城(大月市)

もしあの時、武田勝頼が戦術的にも機動性にも優れた岩櫃城を選んでいれば、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
昌幸は、その機動性の高さを証明するかのように、わずか3日で勝頼を迎えるための屋敷を岩櫃城に建てさせた。(写真⑦)
一方、勝頼が選んだ岩殿城は、勝頼が来ることを恐れ、何も準備しなかった。屋敷どころか、甲斐から郡内へ入る笹子峠に防御柵を設けて、勝頼の入城を阻もうとしたのだ。

⑦岩櫃城を背景とした武田勝頼のための屋敷跡

◆ ◇ ◆ ◇

さて、話を戻そう。北条氏の北関東における勢力拡大は、前述した宇都宮城などの北東方面だけにとどまらなかった。当然、北西方面、つまり沼田領への侵攻も積極的に進めていたのだ。
⑧真田昌幸像
(Wikipediaより)

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が死去すると、旧武田領(信濃、甲斐、上野など)はたちまち大混乱に陥った。武田家が滅亡してからわずか3ヶ月後のことであり、新領主・信長の死は、まさに混沌に拍車をかけた。
この混乱に乗じ、旧武田領をめぐる争奪戦、「天正壬午の乱」が勃発する。その主役は北条、徳川、上杉、そして真田の四者だった。真田家は小大名だったため、生き残りをかけて徳川、上杉と主君を転々としながら領土を守ることに必死だった。特に、沼田領の獲得を狙う北条氏に対抗するため、真田昌幸は徳川家康と手を組む。

しかし、徳川家康は北条氏直との和睦の席で、「沼田領を北条氏に割譲する」という条件を出した。

これに真田昌幸は激怒し、家康を見限って上杉景勝の傘下に入った。家康は代替地として信濃国伊那郡箕輪を準備していたものの、昌幸にしてみれば、沼田領を譲れば、次は岩櫃城、そしてその先と、北条氏の勢力拡大の餌食になってしまうという危機感があったのだ。彼にとって、沼田領は自家の存続を賭けた、決して譲れない土地だったのである。

5. 豊臣秀吉による沼田裁定

上杉景勝を頼った真田昌幸だったが、複雑な経緯を経て、最終的には豊臣秀吉の大名となった。この時、秀吉から徳川家康の与力を命じられている。
それから7年後の天正17年(1589年)、秀吉は改めて北条氏と真田氏の沼田領をめぐる裁定を下した。

秀吉の裁定は、沼田領を分割するというものだった。
  • 北条氏:沼田城を含む、3分の2
  • 真田氏:祖先の墓がある地と主張した名胡桃城を含む、3分の1
この分割は、利根川上流を境界線として行われたと言われている。(写真⑨)
この裁定により、長きにわたる沼田領争奪戦に、ひとまずの決着がつくことになった。

⑨沼田城址(北条)から名胡桃城(真田)
方面を望む

名胡桃城は奥の山の中腹あたりにあるが、
その手前、道路と並行している緑の辺りが
北条と真田の領境・利根川

秀吉による沼田領の分割裁定は、両者にとって不満の残るものだったようだ。真田昌幸は、元々真田氏の領地だった沼田城を北条氏に引き渡すことになり、到底納得できなかった。これは北条氏への大きな譲歩だったからだ。

一方の北条氏もまた、不満だった。7年前の徳川家康との和睦では、沼田領の全面割譲が約束されていた。それなのに、小大名にすぎない真田氏に3分の1とはいえ領地が残されたことに、納得がいかなかったのである。

そして、裁定からわずか3ヶ月後、北条氏の行動が事態を決定的に動かした。彼らは、秀吉の裁定で真田氏の領地とされた名胡桃城を、武力によって奪い取ってしまったのだ。

この行為は、秀吉の定めた秩序を根底から覆すものだった。この事件こそが、天下統一を目前にした秀吉が、ついに北条氏を討つ決意を固める直接的な引き金となったのである。

⑩名胡桃城から沼田城方面を臨む

北条氏の名胡桃城攻めは、秀吉が下した裁定を武力で覆す行為だった。秀吉はこれを「許し難い背信行為」として厳しく糾弾した。
そもそも、秀吉は真田氏が元々領有していた沼田城を北条氏に引き渡すなど、北条氏への譲歩を示していたのである。にもかかわらず、その恩義を無視し、さらに惣無事令を破ってまで名胡桃城を攻め取ったのだ。これは、天下人である秀吉の権威に対する、明白かつ直接的な挑戦にほかならない。秀吉が小田原征伐を決意したのも当然のことだ。

6.小田原攻めの蛙告(けいこく)

北条氏による宇都宮城への侵攻は、確かに惣無事令違反だったが、単純な違反にすぎない。しかし、名胡桃城事件は全く異なる。これは惣無事令違反に加え、秀吉が示した温情による譲歩すら北条氏が踏みにじった、決定的な背信行為だったのだ。
「北条は潰す!」と、秀吉が激怒したのも当然だろう。

これで、小田原征伐が名胡桃城事件によって決定された経緯に納得いただけただろうか。これは、徳川家康が大坂城を攻める口実とした「方広寺の鐘銘事件」とはわけが違う。圧倒的な実力を持つ秀吉が、北条氏に譲歩まで見せたにもかかわらず、それを踏みにじるような態度は、誰の目から見ても「悪は北条」と言いたくなるものだ。

しかし、あまりに出来過ぎた話であるため、秀吉と真田昌幸が共謀した、あるいは秀吉が意図的に仕組んだのではないか、という噂が現在まで絶えないのである。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、このような経緯を辿った後、小田原には、こんな伝承が残っているので紹介する。
⑪蛙石(北条稲荷)

小田原の海岸近く、北条稲荷に蛙石(かわずいし)と呼ばれる岩がある。(写真⑪)
 蛙のような形をしたこの石は、明治35年の大津波でも、関東大震災でも微動だにしなかったという。試しに掘り起こそうとしたところ、3メートル以上掘っても底に達せず、小田原の地下岩盤の先端ではないかと言われている。

この蛙石は、小田原に異変が起こるたびに鳴いたと伝えられている。名胡桃城事件から小田原城が落城するまでの間、昼夜を問わず盛んに鳴き続けたという伝承が残っているのだ。
まさに警告ならぬ、「蛙告(けいこく)」と呼ぶにふさわしい話である。

◆ ◇ ◆ ◇

こうして、小田原攻めが始まった。
詳細は次回に譲るが、北条氏政・氏直父子は豊臣軍に対抗するため、町全体を覆う壮大な防御施設「総構え」を築き上げた。その延長は9kmにも及び、秀吉が築いた大坂城の惣構を凌ぐ規模だったと言われている。(写真⑫)

⑫小田原城総構の一部
小峯御鐘ノ台大堀切東堀


精読に感謝する。次回に続く。