今回は図中「⑥小沢原の戦い」 |
坂の上の雲を目指して、駆け上っていく北条氏、立ちはだかる中心人物は上杉氏です。歴史を振り返れば、北条氏にとって一番の坂の上は、「河越夜戦」です。
これを達成したのは3代目の北条氏康なのですが、この方の活躍ぶりは、他の勇猛果敢な武将とはちょっと違っているのです。
今回は、その辺りを含めて、この氏康のデビュー戦である小沢原の戦いに焦点を当ててレポートしてみたいと思います。
1.北条氏康について
北条氏康 |
一方、北条記等では、「生涯36回の戦いに無敗で、一度も敵に背を向けた事はなく、傷は向う傷ばかりである。」というかなり勇猛な一面も書いています。この辺りの記述が基なのでしょうが、あるCGゲームの氏康のキャラクターは右下の画像のように、アグレッシブ過ぎる印象です。ちょっとかっこつけすぎですよね。
ところが、そこは戦国時代に良くある話。実はかなり偏っていたのです。この時代偏っていた人程、戦国武将として成功した場合、後の江戸時代で矯正され、儒学的に立派な、つまり品行方正な人物像となってしまうのです。ですので、戦国武将の特徴をかなり強調して考えた方が、その豪傑の真の姿に近いように感じます。
前置きが長くなりましたが、では氏康の特徴は?というと、「気の弱い引きこもり型⇒ニート」です。「亀」のようだったのですね。いつも周囲の状況にビクビクしながら、何かあると直ぐに甲羅の中に引きこもるのです。
幼少の頃は、雷が鳴るだけで、部屋の隅で震えているような子であったようで、家臣の中にはその資質を危ぶみ、北条綱成という今川家からの養子に家督を譲るべきではとの声もあったとあります。
とあるCGゲーム上の氏康 |
この辺り、エリート戦国武将の多くが持っているエピソードですね。例えば、信長もご存じのように「尾張の大うつけ」と馬鹿にされ、弟の信行の方が優秀だと家臣の中で噂されていたとか、武田信玄も非力な男で、これまた弟の典厩信繁の方が優秀と言われていたというようなパターンですね。
なので、こういうエピソードが出ている戦国大名は「あれは韜晦だったのだ」と思わせる場面が必ずあります。氏康の場合、このブログで取り上げる「小沢原の戦い」がそれです。
ただ、氏康の場合には、この小沢原の戦いは兎も角、その後はやはり小田原城という甲羅に籠る体質は脈々と続いていて、上杉謙信に攻められても、武田信玄に攻められても、小田原城にこもって出てこないで、敵が去るのを待ち続けました。
氏康(我が家の) |
亀さんのように、いつまで経っても出てこない氏康に対して、しびれを切らして帰って行った謙信、信玄なのですが、これが悪いことに、両方の日本国最強軍を撤退せしめた小田原城という過信が北条軍に出来てしまい、豊臣軍20万に対しても、「甲羅にこもり作戦」で行こうということになったとすれば、北条氏滅亡のDNAは、既に氏康の頃に造られてしまったのではないでしょうか。
2.小沢原の戦い
前回、河越城に撤退した上杉軍が、深大寺城を江戸城奪還の前進基地として改修し、牟礼砦等の付城に来た北条軍と対峙するお話をしました。(リンクはこちら)
実は、深大寺城から、多摩川の方向に向かい、多摩川の稲田堤を超えて、よみうりランドの丘陵を上る道路は、私も良く利用するのですが、この丘陵のあたりで、北条氏康の初陣戦となる小沢原の戦いがありました。
流石に氏康も初陣から、城に籠って戦ったのではありません。
小沢城址入口 |
では小沢原の戦いの状況をお話しします。
当時、16才だった北条氏康は、亀だのニートだのと噂されながらも、多摩川南岸にある多摩丘陵を利用した小沢城主でした。
小沢城も小生の家から近いので行って見ましたが、城址として近隣の住民の方もあまり認識していないようで、まさかここが小田原北条五代の中では一番支配力を高めた氏康が城主だった城と思いもしない様子です。そういうところが、この史跡巡りの面白いところなのですが・・・。話を戻します。
北条氏康の評判を聞いた上杉朝興は、「そんな亀なら、甲羅ごと叩き割ってやろう!」と、江戸城を取られた腹いせもあって、時は1530年6月の草もそよがぬ炎天下に、河越城から軍を進め、小沢城もろとも、北条氏康を叩きに来ます。
勿論、そんなふざけた理由だけで上杉朝興が進軍したのではなく、多摩川以南は北条氏の支配下であった基盤を少しでも崩しておきたいとの思惑があったのでしょう。
小沢原の戦いにおける進軍路 |
また、小沢城を出て、今の矢野口辺りで、上杉軍を迎え撃つことにした氏康、この意外な行動から、「やはり、氏康のニートぶりは韜晦だったのか!」と頼もしく感じた北条軍は、士気も高く出陣したとのことです。
しかし、流石、戦の経験値では上杉朝興の方がベテラン、また江戸城奪取の雪辱をここで濯ぐのだと言わんがばかりの勢いで、深大寺城からの援軍も駆けつけさせ、北条軍に挑みます。
いわゆる蛮勇奮って出てきた氏康も、矢野口での第1回合戦では、散々に上杉朝興にやられてしまったようです。一時小沢城に撤退しました。
まあ、上杉朝興からすれば、「普段籠っている奴は、猪突猛進・イノシシ武者になりやすい。まだまだ若いの。氏康!」という感じでしょうか。上杉軍は、戦場から南西に駒を進め、小沢城からよみうりランドの多摩丘陵を一つ隔てた千代ヶ丘にて、陣の立て直しを図ります。
小沢城址遠望(住宅街の端にある) |
敗色強い北条軍です。普通のニートなら、とりあえず現実逃避に走ってしまいそうな場面です。しかし、それをやってしまったら、亀が甲羅ごと潰されるように、小沢城ごと潰されるのは確実です。
ところが氏康、流石ロイヤルニートです。こう考えました。
「なるほど、朝興は親父(氏綱)と高縄原でも、江戸城でも戦ってきただけのベテランのことはある。まともに戦っては勝てそうにない。」
「朝興は、名前の如く、朝方人間で、夜はめっぽう弱く、特に最近は歳のせいもあってその傾向が強いと聞く。俺は若いし、ニートだから、夜はめっぽう強いぞ!」
ということで、その夜勝いくさ気分で、休んでいる上杉軍に対し、氏康は、軍の一部のわずかな精鋭による夜襲を試みます。
千代ヶ丘にある勝坂 |
そして一気呵成に、夜襲を仕掛け、休んでいる上杉軍に襲い掛かると、上杉軍は、総崩れとなり、上杉朝興も枕を持ったままかどうかは分かりませんが、慌てて河越城方面に撤退したとのことです。
この戦い、両軍どのくらいの兵数かの正確な文献はありませんが、多分矢野口で最初にぶつかった第1回合戦時はほぼ均衡していましたが、夜襲を行った第2回合戦時は、上杉に対してかなり少数の北条氏の兵だったとの記録はあります。真っ暗な闇の中、上杉軍が潰走するには、多分小沢城に残る北条軍も含めて、総がかりで襲ってきたのではないかとの恐怖心からのようです。
もし、そうだとすれば、圧されたとは言え、第1回目の合戦で、北条氏の兵力を見せたのは、夜襲の前哨戦として有効だったのではないでしょうか。
いずれにせよ、若干16才でベテラン上杉朝興を撃退した北条氏康は、やはり初陣を勝利で飾れたのが嬉しかったのか、亀とかニートとかの悪評を払拭できそうな勝ち戦が嬉しかったのか分かりませんが、一人で「勝った!勝った!」と喜びの声を発して、千代ヶ丘からよみうりランド方面へ駆け上った坂が、後に「勝坂」と呼ばれるようになりました。現在も由来含めて史跡の看板が、この坂の途中にあります。
4.河越城夜戦も同じ・・・
勝坂から小田原方面を臨む |
このように初陣を勝利で華々しく飾った氏康ですが、驚くべきことに、日本三大夜戦と言われる河越城夜戦、この戦は北条氏の関東支配を決定的にしたという重要度だけに留まらず、旧日本陸軍によってもかなり研究され、日本のお家芸とまで太平洋戦争で言われた夜襲の手本へも影響を与えた偉業を成し遂げました。
この戦の背景や経緯等はかなり複雑で、別途機会があれば詳細をこのブログでも書きたいと思いますが、簡単に言うと、上杉・足利等関東中の反北条軍団8万を、氏康の軍勢8千でもって夜襲により完璧に打ち負かすという偉業です。
この戦の仕方は、源流を遡ると、この小沢原の戦いにあると小生は思います。
そういった意味では、やはりこの小沢原の戦いについても、決して歴史的には小さなものではないですね。
5.北条五代記について
とりあえず、北条五代記と名を打った3部作で、主に上杉氏から関東を奪っていく北条氏2代氏綱、3代氏康について書いてきました。この2代から先、4代・5代の氏政・氏直は、皆さん良くご存知の豊臣秀吉の小田原攻めにあい、滅びの道を走ります。
実は、北条氏もこのデビュー戦以降、今川義元や、上杉謙信、武田信玄等皆さん良くご存知の戦国ヒーロー達と、色々と相間見え、また秀吉20万の大軍に包囲されドラスティクに滅びるという歴史のメジャー路線を並走するのですが、あえてブログのコンセプトからマイナーな時期の北条氏にスポットを当ててみました。
ただ、書いているうちに、このままこの北条氏シリーズを終らせるのも勿体無いなとも勝手ながら思いましたので、続き物は一旦ここで終わりにしますが、また時々この後の北条氏について、ブログで取り上げたいと思います。
またお付き合いの程、何卒宜しくお願いします。
では、今回はこのへんで!
ご精読ありがとうございました。