マイナー・史跡巡り: 日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~ -->

土曜日

日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~

①将門を祀る神田明神の神田祭
「日本三悪人」ってご存知ですか?

明治から戦前に掛けての皇国史観、日本史上、皇国を脅かしたとされる人物として3人の名前が挙がっています。時代順に

道鏡(どうきょう)
平将門(たいらの まさかど)
足利尊氏(あしかが たかうじ)

3番目の足利尊氏は、既に「首洗井戸② ~土牢~」等にて、護良親王等に対する無情な仕打ちを書きましたので、今回は道鏡と平将門の2人について取り上げたいと思います。

時代が前後してしまいますが、ちょうど今週、平将門と関係の深い、神田祭がありました。まず将門から先に取り上げたいと思います。(写真①

1.京での将門


②平貞盛(将門の従兄弟であるがライバル)
平将門は桓武天皇から5代目にあたる桓武平氏の武将です。

時代は平安時代中期の10世紀初頭、まだ武士が出はじめの頃です。

武士(さむらい)は元々、はべり(侍り)・さぶらう(侍う)の意味で、当時の平安貴族の前でかしこまって控える、つまりボディーガードで、その地位は低いものでした。

ただ、このボディガード集団は、この頃から、平家・源氏という系統を形作っていたようです。

しかし、平家は厳島神社に代表されるように、日本の西海の武士、それに対抗する騎馬を使う陸の武士は源氏、坂東武者みたいな感覚は、もう少し後の時代になってから形成されるようです。

この将門らの基盤は、関東にありました。坂東武者たちは平家も多かったのですかね。将門は下総国佐倉(今の千葉県佐倉市)を領有する武士でしたし、彼の終生のライバルだった従兄弟の平貞盛(さだもり)もこの坂東でした。(絵②

ちなみに貞盛の7代後が、あの平清盛です。

先に述べた通り、将門も地位は低く、衛士(えじ)という天皇のボディガードを拝命していたに過ぎません。当時は軍事警察を所掌する検非違使が武士の出世の目安とされていましたが、及びませんでした。

彼は15歳で、これらの役職の獲得のため、関東から京へ出てきました。

貴族への貢ぎ物をしたり、京風の雅に合わせて和歌を詠む真似等して見せたりして、少しでも高位を狙う所作に、大変な窮屈を感じたのです。
③京の街に出没する餓鬼
※デフォルメされていますが餓鬼は当時栄養状態
良くない浮浪者がモデルと言われています

一方、従兄弟の貞盛は、不器用な将門を尻目に、要領良く朝廷に気に入られます。

この頃、京も御所の周りを一歩出れば、飢饉と疫病で苦しんでいる浮浪者だらけでした。(絵③

教養と雅、貢ぎ物の要領の良さを身に付けなければ出世できない中央政権に対し、雅とは程遠い都の荒れ様に、将門も何か納得の行かないものを感じます。

この強い閉塞感を感じていた18歳頃の多感な若者である将門が、朧気ながら持った構想が、この後の彼の人生、いや日本史に大きな影響を与えていくのです。

2.新皇を称す将門

この後、中央の出世競走に虚しさを覚えた将門は、関東に戻ります。

ところが、自分の伯父である平国香(くにか:平貞盛の父)や良兼(よしかね)等の板東平家一族の内紛に巻き込まれていきます。領有地継承問題、有力豪族の源護(みなもとのまもる)の娘問題等、様々かつ複雑な内紛の中で、将門は頭角をメキメキと現し、関東平野を所狭しと走り回るのです。

④印綬
彼は坂東の自領で豊富に手に入る馬を使い、騎馬団を組んで戦った最初の武士です。また馬上からの斬りつけに便利なように、真っ直ぐだった刀を反りのあるものに変え、その後の反りのある日本刀の原型を考案しました。そして騎馬団とのセットで機動力のある最強の軍団を形成します。

これらの内紛を勝ち抜いた将門に対し、特に父国香を焼死させられた平貞盛は、朝廷への強力なコネを使い、朝廷に将門謀反の心ありと入れ込むのです。

将門が内紛で勝利すると、更に関東一帯の民から、現場を知らない京の中央政府から下ってきた国守に鉄槌を下してくれるヒーローとして持ち上げられます。

常陸(茨城)、下野(栃木)、上野(群馬)の国の印綬(朝廷から拝領している国としての決裁印と組紐:写真④)を国守から奪い、国府から追放します。

このように勢いに乗った将門は、若き18歳の頃、京で朧気ながら持った構想を形にしてみようと決心します。
⑤大ムカデ退治をする藤原秀郷

940年1月、彼は自分を「新皇」と名乗り、中央政権から関東を離脱させ、下総(茨城県坂東市)に本拠を構えます。

3.敗北

平貞盛からの将門謀反の報は、西国の藤原純友の乱の報告と同時に朝廷へ伝わってきました。東西2か所での反乱との認識の元、驚愕した朝廷は、即乱鎮圧のための祈祷がなされ、勅旨が発出されます。940年の1月終りのことです。

一方、将門は、同年1月中旬、朝廷とパイプを持つ貞盛を成敗するために兵5000を率いて、常陸国へ出陣します。しかし、貞盛は見つからず、将門は虚しく下総の本拠に帰り、兵をそれぞれの地元に戻してしまいます。

⑥新橋駅前にある烏森神社
※鳥居や社の形が独特です
そこに、貞盛が下野国の藤原秀郷(ひでさと)と協力して将門打倒のための兵4000を集めているとの報告が将門に入ります。藤原秀郷は、京で大ムカデを退治したことで有名な豪傑です。(絵⑤
このような豪傑に加え、将門朝敵との噂により、集まってきた兵力は増大する気配を見せていました。

兵を戻したので、手元には1000人以下しか残っていませんでしたが、将門は、この段階で貞盛を叩いておかないと、どんどん不利になると考え、2月1日に出撃しました。

最初こそ、将門が陣頭に立って奮戦したため、貞盛・秀郷軍は押されましたが、貞盛らは官軍です。段々と貞盛・秀郷軍が将門軍を押しはじめ、将門軍は退却に追い込まれます。

詳細は省きますが、日が経つにつれ、貞盛・秀郷軍に徐々に追い込まれた将門軍は、2月14日、僅か400の寡兵で、貞盛軍3200と、下総の本拠近くで最後の合戦をします。

当初、将門軍側から貞盛・秀郷軍に、強風が吹いていたので、この風に乗せて、将門軍は矢を大量に射掛けます。これにより、貞盛・秀郷軍は壊乱。一部の部隊が奇襲を将門軍に仕掛けますが、将門得意の騎馬団と反りのある刀を使い、これを撃退。結局、貞盛・秀郷軍は、300の兵を残して逃げ出す惨状となりました。

ところが不思議な事に、今度は風が逆に貞盛・秀郷軍から将門軍へ強く吹くという天候の変化がありました。

⑦白羽の矢が額に刺さる将門
そこで貞盛・秀郷軍、将門軍へ矢を降らせます。この時、かの大ムカデ退治の英雄、藤原秀郷が烏森神社(現在新橋駅の烏森口にあります)の白狐から頂いた白羽の矢を射たところ、みごと将門の額に命中。(写真⑥絵⑦※流れ矢が刺さったとの説もあります。)

将門軍は崩壊します。次々と貞盛・秀郷軍に討ち取られます。

絶命した将門は38歳。彼の遺体は、死者が蘇ることを怖れる当時の風習で、バラバラにされ、胴は合戦場近くの「神田山」(茨城県坂東市神田山)に埋葬されるのです。(写真⑧

ちなみに「神田山」は、将門の「体(カラダ)」を埋めたことから「体(カラダ)山」が転訛して「神田(カンダ)山」となったということです。(※今はカドヤマと呼びます。将門のカドに掛けているとの説もあります。)

そして、彼の首は京の平安京へ持って行かれ、獄門に晒されます。

4.将門の首

獄門晒し首は、彼が史料に残る最初の人物だったと言います。
ここからは、殆ど超常現象の感がありますが、伝説も含め、ご紹介させてください。

京で晒された彼の首は、まるまる3か月間も目をくわっと開けたまま、腐りもせず、まるで生きているような状態であったとされます。(写真⑨

そして、夜な夜な「俺のカラダ(胴体)を返せ、そしてもう一戦やろうぞ!」と、悔しそうに呻いたと言われています。

ところが、3か月経ったある晩、将門の首は忽然と獄門から消えます。

京の人々は、首は宙を舞って、自分の胴体を探して、坂東に向かって飛んで行ったのだろうと噂し合ったそうです。

⑨獄門に掛けられた将門の首
これまた未確認飛行物体のようですが、途中名古屋上空を飛行しているのを矢で射落し、首塚としたとの伝説やら、日本全国あちこちで目撃及び撃墜情報が伝説化しております。

そして、彼の胴がある茨城県坂東市までは飛ばず、途中、今の江戸城辺り、平川(現在の神田川)の河岸、現在の将門塚(千代田区大手町)に落下したとの説も。(写真⑩

しかし、どうやら、真相は当時の平川村の住人が、夜陰に紛れて、平安京の獄門から持ち帰り、将門塚の場所に、盛り土を築き、お祓いをし、明神としました。

盛り土をしたので、そこに築土大明神と名付け、神社を作りました。
この築土神社、現在も九段下駅のすぐ近くにあります。(写真⑪

しかも、なんと近年までこの神社のご神体が、将門の首を入れて来た首桶だったのです。(写真⑫

この首桶には「上平川」や「平河村」「江戸」等の文字が見えますので、やはり将門の首を持って来たことに平川村が関与していた可能性は高いことが分かります。

⑩大手町にある将門塚(首塚)
ちなみに、この首塚の辺りは、茨城県坂東市の神田山と同じように神田山と名付けられました。獄門であれだけ自分の体を欲しがっていた将門の霊に配慮し、その場所に彼の体の一部を持って来たのか、はたまた将門の首が座る場所が胴(カラダ)なのだよと将門の霊を説得するために作ったのかは分かりませんが、「体(カラダ)山」が転訛して「神田(カンダ)山」になったことは確かなようです。

更に、この神田山は、江戸幕府を開いた時に、海が深く江戸城近くまで入り込んでいた日比谷の入江を埋め立てるのに切り崩しました。なので山では無くなり、神田(カンダ)という土地になったとのことです。(地図⑬

更に平川は、この土地が神田と呼ばれるようになって以降、神田川となります。(ただ、土地名として「平川門」とか「平河町」とか名前はまだ残っていますね。)

⑪九段下駅にある築土神社
5.将門の霊の扱い

さて、それから約300年位は、将門の首塚はほぼ忘れ去られるのですが、14世紀に入ると、この将門の首塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、疫病が流行ります。

将門の祟りと恐れた民衆を静めるために原因追求に現れた偉い坊さんが、この首塚に作った築土神社が何故か今の九段下駅の場所に移転していることであると解明します。(地図⑬参照

そこで改めて、1309年に鎮魂のために作った神社が写真①の神田明神です。(現在、神田明神は、この首塚から若干北東にありますが、江戸時代に移設されました。後で詳細は述べます。)

そして、この将門塚(当時は神田明神)を鬼門に据え、守り神として築城されたのが太田道灌の作った江戸城であり、太田道灌だけでなく、後にこの江戸城の主となった北条氏綱も、同様に大事にします。
⑫将門の首桶
※上平川や平河村、江戸等の文字が読め

※氏綱が江戸城奪取した経緯は、拙著ブログ「北条五代記① ~高縄原の戦い~」をご笑覧ください。

更に、ここに幕府を開いた家康は、関ヶ原の戦いに行く前の戦勝祈願として、神田明神に詣でます。その結果の大勝利として、神田明神は「江戸総鎮守」の地位を築くのです。

また、家康亡き後、家康を「大明神」にすべきか、「大権現」かの議論にも将門は影響を与えました。この江戸城鬼門に居座る将門に気を使い、結果、家康を「大権現」とした経緯が見られます。関東一円では、「大明神」は将門のニュアンスが大きかったらしく、家康の方が、将門に「大明神」を譲った格好になったようです。

このように江戸時代に英雄視が進んだ将門は、家光が「将門は朝敵にあらず」の奏上で一時は朝敵扱いから外されたものの、明治維新となり、天皇を江戸城に迎え入れるとなると、朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われました。

そして1874年に、神田明神の祭神から外されてしまいます。
⑬将門(首)塚からの各神社遷座
冒頭の日本三悪人の1人と称されるのも、この頃です。

ところが第2次世界大戦後、また将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年、再度、神田明神に合祀されたのです。

将門塚(写真⑩⑭)は、これを動かそうとすると、色々な祟りに合うという都市伝説(?)は山程あります。近代、大蔵省を建てるために移設しようとした時の関係者の次々の病死、戦後のGHQによる駐車場設置に伴う移設時の変死・病死、大手町のビルの窓は塚を見下ろさない、管理者の席は塚に背を向けないように作る 等等・・・

真偽の程は分かりませんが、小話でも、これらの怨霊説等はご紹介したいと思います。

⑭ビルの谷間にある将門塚
ただ、怨霊説が出てくるというのは、将門の霊が不満だということではないでしょうか。つまり、彼がしたいことへの理解がなされていないということかも知れません。

6.将門がしたかったこと

では、将門は何がしたかったのでしょう。

将門が「新皇」と名乗って、朝廷との敵対関係になった乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平・天慶の乱」と呼ばれます。

一般的な見方は、将門は純友と共に、「朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新しい国家対抗勢力を形成したかった」と捉えられています。そして東国の覇者として将門は「新皇」を名乗るのです。

これが誤解です。不平分子が起こす「乱」とは違い、既存政権の破壊が目的ではなく、既存政権に、更に建設的なものを付け足したかったのです。

彼は、若い頃京で感じたのは、当時の官位授与は、国政を良くすることへの努力や実績等で判断されることは少なく、授与される側の血縁や見込みだけで判断され易いということです。

その結果、絵③のように、街は餓鬼で溢れ、死体は犬が喰い、惨憺たるものです。

だれがそれらの民のケアをしているのか?

そして彼は関東に帰ってきます。そこで武士や農民から「将門さまは、私たちの生活を守ってくれる。将門さまに付いていけば間違いない。」と中央の役職には関係なく、皆付いてきてくれたのです。

⑮江戸(東京)の人々に人気の高い神田明神
俺が民のケアをする!この国で!
これが将門がしたかったことです。

勿論建前上、朝廷の任命する役職には民のケア出来る役職は沢山あります。しかし、その役職者も朝廷に取り入ることしか関心は無く、その役職が中央政権のために機能することはあっても、民をケアすることには役に立たないのです。

将門は朝廷の任命する役職に自分のしたいことが見当たりません。そこで「新皇」という役職外を名乗ったら、「朝廷に対立する気だ!」と誤解されてしまったのです。彼からすれば、「新皇」と名乗った後に、朝廷からその役を事後承認してもらうつもりだったかも知れません。

状況証拠は色々あります。関東一円の国守の指名では、朝廷のやり方を踏襲する等、朝廷に対する配慮が見られるのです。

なんだ、では200年後の源頼朝みたいに征夷大将軍を貰い、幕府を開けば良いではないか。と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

確かに「新皇」は呼称センスが悪すぎます。しかし、武士の棟梁であることを宣言する征夷大将軍という役職は、将門の時代は、土地の農民等を支配する個々の武士団さえ押さえておけば、この国の民のケアが出来ていることになる、と言ったシステムが頼朝の頃程整っておらず、将門がしたいことが実現できる役職ではないのです。

将門の発想は、斬新でしたが、時期尚早だったのかも知れません。
実は、この将門の野望について、一番理解していたのは、徳川家だったのでしょう。なので、将門を朝敵と見る朝廷に対して「朝敵ではない」と弁明している上、かつ幕府が将門の理解者であることを示すために、将門を祀った神田明神の位置を、将門塚から、江戸城の鬼門(北東)である現在の神田明神の位置に移設することで、彼を江戸城の守り神としているのです。(地図⑬参照)

また、やはり彼の江戸における人気は絶大で、写真①に見られる神田祭も盛んです。

江戸城に移ってきた皇族も、将門がそれ程の悪人とは思ってなかったのかも知れません。

なぜなら、日本三悪人の中の2人(道鏡と足利尊氏)に対し、皇族を守ったとされる人物は写真⑯に見られるように銅像が皇居周辺にありますが、将門に関して貞盛や秀郷等の銅像は無いのです。

6.終わりに

⑰1971年のベストセラー
「日本人とユダヤ人」
神田明神移設時にも首塚は動かなかったことや、近代の怨霊説からすると将門の霊は、今の将門塚の場所にこだわりを持っているように見えます。

また、私は、将門の首がカラダを探しに関東に飛んで戻ったとの伝説を聞いた時、ではどうしてカラダのある下総まで戻らないの?って不思議に思いました。

もしかしたら、霊だけに、何百年、何千年もの先まで見通した時に、この江戸に、理想的な朝廷と幕府の二権分立となる江戸幕府が600年後に出来、それはその後も世界的な大都市にまで発展すると見越して、将門の霊は自分のカラダのある下総を捨てででも、この場所を選んだということかも知れません。

半世紀近く前のベストセラーに「日本人とユダヤ人」という良書があり、その中で筆者のイザヤ・ペンダサンは「形式的に三権分立をやろうとしても、上手く機能しない。その前に二権分立が必要で、これを過去、自然にできた日本人は天才である。だれが発想したものなのか?」というような主旨の事を書かれていました。(写真⑰

この二権分立とは、まさにこの朝廷と幕府のことであり、最初に成立させたのは鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

しかし最初に発想し、トライ&エラーをしたのは、平将門なのではないでしょうか?頼朝と違い、将門存命中はエラーで終わりましたが、二権分立へのこだわりは、霊となった後もつよく思念として残り、それが将門塚の怨念として残っているのかもしれません。

そして、彼の霊は、現在も、日本の昔ながらの二権分立に向けて準備をしているのでは・・・?
⑱神田祭りの御神輿

最近の「退位」をめぐる特例法案の決定等を見ていると、そんな風に妄想もします。

この国の民の事を考えてくれた将門のことですから、良い方向に持って行ってくれるのでしょう。

神田祭りを見ている最中、そんな事を考えていました。(写真⑱

今回も、長文のご精読、誠にありがとうございました。

【神田明神】東京都千代田区外神田2−16−2
【築土神社】東京都千代田区九段北1丁目14−21
【烏森神社】東京都港区新橋2−15−5
【将門胴塚】茨城県坂東市神田山715
【将門塚(首塚)】東京都千代田区大手町1丁目1−2−1