マイナー・史跡巡り: 三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~ -->

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三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~

①三増峠合戦場
前回まで3回に渡り、三増峠の戦いについて、その歴史的背景から戦本番まで解説しました。(写真①

今回は、戦のその後ということで、北条軍を中心に、ヤビツ峠の話と、この戦に関係する北条方の人物を取り上げたいと思います。

三増峠の戦いの拙著ブログを読んでいらっしゃらない方は是非シリーズ①をご笑覧頂けると幸いです。

1.ヤビツ峠の餓鬼伝説

さて、三増峠の戦いでは、武田・北条合わせて4000人以上の死者が出たことは、前回のブログで書いた通りです。

また、戦当日の夕刻辺りに、赤備えの山県昌景隊が、北条軍の裏側に廻りこみ、北条軍に大混乱を引き起こしました。

②妖怪「餓鬼」 いつも腹を空かしている
北条軍が散り散りになって、近くの山々へ逃げ込んだということも書いた通りです。

さて、この散り散りになった北条軍の中には、丹沢山中を彷徨い、餓死した兵士がいました。

丹沢にはヤビツ峠という、有名な峠があります。

私も子供の頃から、秦野駅から出る神奈中バスの表示板に「ヤビツ峠」とカタカナ表記されているのが、日本の地名なのに漢字表記でないのは珍しいなと思っていました。

このヤビツ峠、「矢櫃峠」という説があります。三増峠の時に、彷徨った北条の兵士が背負っていた「矢櫃」を投げ捨てて登ったのだとか。

で、この峠で餓死した兵士は、妖怪「餓鬼」となり、この峠を越える人に乗り移るのだそうです。(絵②
③ヤビツ峠を通って小田原へ

なので、この峠を越える時、旅人は異様な空腹感に悩まされ、歩行困難に陥るという伝承が、三増峠の戦い以来、江戸時代を通じて約400年間まことしやかに伝えられ続けています。

そこで、三増峠合戦場に行った帰り道、このヤビツ峠を越えてみることにしました。

自分の体に「餓鬼」が乗り移るか!?伝承に対する捨て身の実験です(笑)。

さて、ヤビツ峠は、三増峠の合戦場から約30km南西の方向にあり、ちょうど小田原への撤退ルートの途中にあります。

現在は途中に宮ケ瀬湖がありますが、当時はこの人造湖はありませんから、三増峠を出るともう直ぐ丹沢山系の中を彷徨うことになります。(地図③

私も、この峠に向かう道路に驚いたのですが、かなり狭いです。昔、紀伊半島を一人で車で廻った時にも、かなり狭い林道を30km以上走り続けたのを覚えていますが、あの時のような道が神奈川県にもあるとは思いませんでした。

時刻も16時を回っていたので、周囲は薄暗くなり、途中何度か車のすれ違いが在るたびに、どちらかが、すれ違えることが可能な場所までバックし、やり過ごすというような走り方をしました。

④道は細く山は険しい(奥に見える山がヤビツ峠)
かなり寂しい場所です。(写真④

こんな寂しい山奥を、手負い状態で、逃げる北条軍の兵士達はさぞ大変だったのでしょう。

今でこそ、寂しいと言っても道路がある状況ですが、当時はきっと獣道のような道だったでしょうし、なんとか太陽の方向で方角だけは分かったとしても、この険しい山道が一体いつ終わるのか、空腹感と不安で一杯だったのでしょう。

と思うと、急に寂寥感が襲ってきました。

俺は、こんな処で何をしているのだろう。ブログを書くため?どうせ暇人の娯楽だろう。

手負いで、彷徨しながら、餓死して行った北条軍の気持ちを、本当に考えられる訳でもないし・・・

運転しながら、だんだんと、ブラックな気分に・・・

こ、これはヤバい!もしかしてそろそろ来たか!!
⑤通行止めでした

確かに、空腹も感じ始めました。この伝承は、かなり信ぴょう性が高いかもしれない・・・

と、その時、何と写真⑤のようにヤビツ峠6km手前で通行止の看板が・・・

看板の前で、車を降りると、看板の奥で、何やら、ゴソゴソと動く物音が、看板の裏の林の中からします。

餓鬼かっ!

殆ど暗くて見えなかったので、かなり慌てましたが、餓鬼ではなくて、鹿でした。(写真⑥

時計を見ると、既に18時を廻っていました。昼飯オニギリ2つのみでしたので、お腹が空く訳です。

⑥ガキではなくてシカ
ということで、幸か不幸か、今回のこのわが身を挺した伝承の検証については、通行止めで分からずじまいでした。

また12月16日以降チャレンジしたいと思いますが、どなたかヤビツ峠を越えた時に強い空腹感を感じられた方いらっしゃいましたら、玉木までご連絡をお願いします!

2.その後の早川殿

さて、話変わりますが、最近の戦国バサラもののゲームソフトは、意外と日本史の人物を幅広く調べ、その特徴を上手くビジュアル化してあるなあと感心します。

例えば、シリーズ①で出てきた、駿河攻めで信玄と意見が合わず東光寺に幽閉された武田義信は、右の絵のように、幽閉されている雰囲気が上手く描かれています。(絵⑦

⑦東光寺の義信
また、武田・今川・北条の三国同盟で交換しあった政略結婚の姫の中で、早川殿という今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘についても、同じシリーズの①で、ちょっと触れました。

この人についてのゲームの中での描かれ方も、右下図左のように、父親である氏康との2ショット、なかなか美人に描かれています。(絵⑧

早川殿は、信玄の甲相駿三国同盟破棄の結果として、3カップルの中で、唯一最後まで破局しなかったことや、武将として無能と言われ続けた今川氏真を、陰ながら支えたという、優秀でありながら、一途な女性であったことから、気立ての良い、美人として描かれることが多いです。

今川氏真が、信玄に駿河を追われて、掛川城に逃げた後、結局、氏真は掛川城を開城します。

早川殿の父親、北条氏康が婿である氏真を客分として、小田原城下へ迎え入れるのですが、その屋敷を小田原城の西側を流れる早川沿いに建て、そこに住んだので、早川殿呼ばれるようになったのです。

⑧左:「戦国無双」の早川殿
  右:「信長の野望」の早川殿
ちなみに、「信長の野望」の早川殿は、まるで今風の可愛い女性として描かれています。(絵⑧右)

しかし、この方、単なる可愛い女性だけはないことが、次のエピソードから分かります。

氏康が無くなった1571年に、再び甲相同盟が北条氏政と信玄の間に結ばれ、小田原に居る今川氏真追討のために武田信玄が兵を廻します。
⑨今川氏真

屋敷に兵が到着し、氏真を捉えようとした時、早川殿は激怒します。

そして、小田原から譜代の水軍に、早川の河口から船を仕立て、白昼堂々と、氏真と一緒に小田原城下を脱出したという話です。

その後、氏真との間には4男1女を設け、江戸で氏真に看取られながら亡くなります。ちなみに氏真も77歳まで徳川の高家としての知遇を受けながら、こんなに素晴らしい女性と一緒に、一生を全うしているところを見ると、武将としては残念だった彼も、この時代の人間としては幸せな一生だったのかも知れません。しかし、大体ゲームに描かれる氏真は、こんな感じになってしまいます(笑)。(絵⑨


3.間宮氏について

結構最近なのですが、平成10年にこの古戦場の辺りで、人骨と六道銭が発見されました。(写真⑩
⑩間宮善十郎遺骨発見の看板

どうやら、間宮善十郎という北条の家臣の骨のようなのですが、この善十郎を含む、間宮氏というのは、私事で恐縮ですが、私の実家の直ぐ近くの笹下城という城の城主でした。(写真⑪
⑪幻の笹下城※左上の住宅街の辺りが本丸跡
間宮氏は、横浜を本拠とする北条の大水軍だったのです。
先に早川殿が譜代の水軍を使ってとあるのは、この間宮水軍かもしれません。

間宮氏の子孫に、間宮林蔵が居ます。

ご存じのように、彼は江戸の後期に、樺太が半島ではなく、島であることを発見したこと等、有名な冒険家として、またロジアからの海防に非常に役に立つ人物として名をはせました。

また、間宮林蔵と同時期に杉田玄白という人物がいます。

ドイツの解剖医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を書き上げ、日本の医学の開拓者となった人です。

笹下城から、横浜の磯子の浜に向けての土地が「杉田」となっていますが、彼は、ここ杉田の出身で、実は間宮氏の子孫なのです。

間宮林蔵と杉田玄白、両者とも分野は違えど、江戸時代には珍しいパイオニア精神に富んでいる人物であることは確かですね。

きっと大水軍であった間宮水軍の血を受け継いでいるからなのでしょう。

そう考えると、この三増峠で戦死した間宮善十郎という人物も、きっと気骨のある勇敢な漢だったと想像します。

ただ、水軍の頭らしく、海で死にたかったでしょうが、不運にも、多分一番苦手である山岳戦で若くして命を落とすとは、無念だったと思います。

大丈夫。一族のご子孫が大活躍されてますよ。と、三増峠合戦場の墓前で手を合わせておきました。

以上、
雑多ですが、三増峠の戦いに関係した北条軍について、シリーズで書き残したことをここにブログとして残すことができました。

お読みいただき、ありがとうございました。