マイナー・史跡巡り: 善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~ -->

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善光寺と戦国武将について ~歩き廻る御本尊~

私は、このブログ調査のために行った場所で、他の史跡等にもついつい寄り道をします。

甲斐善光寺にて
寄り道した場所の話はショートなものなので、もう一つの拙著ブログ「Tsure-Tsure」の方に「外小話」として掲載するのですが、今回の話は、ショートではなくある程度ちゃんとお話ししたいので、こちらのブログに掲載し直しました。

さて、何の話かと言うと

「牛にひかれて善光寺参り」

と言っても、本元の信濃善光寺ではなく、甲斐善光寺です。

【※写真・地図・絵はクリックすると拡大します。】

1.甲斐善光寺

ご存じのように、「牛にひかれて善光寺参り」とは、ことわざで、
信濃善光寺御開帳

「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。」

なので、今回「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」のブログ関係で訪問した東光寺の帰りに、この甲斐善光寺にお参り出来たことは、偶然とは言え、きっと良い方面へ導かれていると信じます。(笑)

善光寺が、何故このことわざになる位、全国的に有名なのかについては、諸説ありますが、私が思うに

「宗派を問わない」ことと、「一生に一度お参りすれば、極楽浄土へ行ける」と言う簡素ながら分かりやすい教えが広まったお陰だと思います。

遠くとも 一度は詣れ善光寺
救い給うぞ 弥陀の誓願

甲斐善光寺の前立仏
本家本元の信濃善光寺は、去年5月に、最大の行事である7年に1度の御開帳の最中に、15歳の少年がドローンを飛ばし、墜落させたことでも、ニュースになりましたね。

ドローンというIoT時代のエッジ的な技術と、善光寺や姫路城(白亜に塗り替えられた姫路城にもぶつかって墜落しました。)等の日本のレガシーとの共存が話題性を持っていたように感じます。

彼も上空からの御開帳の中継に熱心の余りの墜落行為だったようです。

このように、どの時代の日本人をも惹き付けて止まない善光寺ですが、御本尊(如来像)は秘仏で、誰も見たことがありません。

代理の如来像を前立仏と言います。

これは全国に複数あります。

信濃善光寺の御開帳時でも、前立仏を御開帳し、あくまで御本尊は出て来ません。(これについては後程またお話します。)

また、現在の甲斐善光寺にも、この前立仏が、この寺の本尊として祀られているという訳です。

2.実はアクティブな善光寺御本尊

このように、丁寧に、信濃善光寺の奥の奥にしまってある感の御本尊・秘仏如来像ですが、実はかなりアクティブな仏像様なのです。

歴史のメインストリームに自ら積極的に係わりに行っています。

(1)欽明天皇、蘇我氏、物部氏

御本尊は、天竺(インド)で作られ、百済(韓国)へ渡り、そして日本の欽明天皇のところにやって来ます。

甲斐善光寺本堂
欽明天皇は、この仏像を拝むべきか、蘇我氏物部氏に相談しました。

そもそも蘇我氏は仏教擁護派、物部氏は反対派であることは有名です。

後の聖徳太子は、蘇我氏側で、物部氏を蘇我氏と一緒に滅ぼしたからこそ、法隆寺を始め、伝来仏教の普及を行うことができたのです。

話を戻しますが、欽明天皇の問いかけに蘇我稲目(そがのいなめ)が拝むべきということで、蘇我の屋敷に持ち帰り、お堂を建てました。

ところが、この後、全国に疫病が流行しました。

それみたことかと八百万の神信仰の物部尾輿(もののべのおこし)が、蘇我氏の屋敷を焼討にし、この御本尊を難波の堀へ投げ込んでしまうそうです。かなり過激な行為に思えます。

数年後に、本田善光という信濃(飯田市)の人が、この堀を通りかかると、「善光、善光・・・」と言って、御本尊がこの人の前に堀の水から飛び出してきました。

そして本田氏が、信濃にご本尊を持ち帰り彼の名前「善光」を取って、今の善光寺の基となった訳です。


(2)上杉謙信、武田信玄(川中島の戦い)
信濃善光寺と川中島は8km程度しか離れていない

その後、源頼朝が詣でたりしましたが、著名人が神社・仏閣に詣でるのは、ある意味珍しくはありません。

この御本尊の凄いところは、自分から移動するのです。

縁起にあるように、天竺から信濃まで移動してこられたのが最初だとすると、次の移動は戦国時代なのです。

戦乱の世が大丈夫かどうか、御本尊自ら歩き回って確かめたようです。

当時、信濃善光寺のすぐ近くでは、あの有名な川中島の戦いで、上杉謙信と武田信玄が国境紛争を繰り返していました。

当然、紛争地域のこの善光寺が戦火にまみれて、御本尊が燃えてしまわないかと、両武将とも心配します。一応、両者とも坊主ですからね。とてもそうは見えませんが。特に信玄(笑)。

右上の写真を見ると分かるように、川中島古戦場と善光寺は2里(約8km)しか離れていません。

まず謙信から、御本尊を新潟は直江津に持ち帰る行動に出ます。

第4次川中島合戦
但し、この時は実は偽物を掴まされていたそうです。

既に善光寺には信玄派の人間が入り込んでいたのです。

そして、1558年、あの有名な謙信と信玄の一騎打ちが行われる第4次川中島合戦の3年前に、信玄は甲斐に御本尊を含め、信濃善光寺組織ごと甲斐善光寺へ移行したのです。

甲斐の人々は狂喜乱舞しました。逆に長野の人々はがっかりします。

その恨みもあってか、あの第4次川中島合戦は世に残る大戦(おおいくさ)になったのかも知れません。(写真右上)

(3)織田信長・徳川家康

1582年に武田勝頼は、田野にて滅びます。

この時、甲斐善光寺の御本尊は、甲州征伐の総大将である織田信忠の弟である信雄(のぶかつ)によって、尾張清州城下に持ち去られます。

そして、ここでもまた御本尊は、滅びゆく織田家を見る訳です。本能寺の変の後、この善光寺御本尊を引き継ぐのは徳川家康です。

彼は、御本尊を甲斐善光寺へ戻しました。

武田家が1582年の3月に滅び、織田家が3か月後の6月に本能寺の変と短期間に大物武将が亡くなるを見て、世間では少しづつ、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」とか「武田家の怨念だ」と言う噂が出始めました。
方広寺の大仏頭部
(頭部の木像のみは近年まで残っていたそうです)

家康も当初は、浜松の鴨江寺に移したのですが、この祟りの噂を聴いたのか、直ぐに甲斐善光寺に戻しています。

(4)豊臣秀吉

さて、最後に御本尊が出向いて会うのは、豊臣秀吉です。

1596年の慶長元年に、近畿を中心とした大地震(推定マグニチュード7.5)が起きます。

夜中に起きたこの大地震、当時伏見城に居た豊臣秀吉は、かなり慌てふためいた事でも有名ですが、この地震により、当時建設中であった方広寺の大仏殿が崩れ落ちます。

奈良東大寺の大仏より大きくしようと、秀吉は自分の権力の一つの象徴にしたかったので、この崩壊は痛いところです。
方広寺の鐘

そこで、大仏に劣らぬ権威と思い、甲斐善光寺より、また御本尊を方広寺にお連れし、方広寺の御本尊とする訳です。

ところが、これをした頃から秀吉の体調が崩れ始めます。

もしかすると、甲斐善光寺の御本尊を方広寺へと勧めたのは、豊臣家を退け、天下を狙う家康ではないか?と私は邪推します。

ただ、世間でも当時盛んに「善光寺御本尊の祟りでは?」と噂されたようです。

そして、ある日この御本尊は秀吉の夢枕に立ちます。

「秀吉や。そろそろ、信濃の国へ帰しておくれ。」

慶長3年(1598年)、秀吉は急いで信州長野の現在の善光寺へ御本尊を送り返しましたが、御本尊が出発した翌日、秀吉は亡くなりました。

そして、御本尊が居た方広寺は、彼の有名な「国家安康」で「家康」の2文字を切り離したという言いがかりを付けられ、豊臣家が滅びるきっかけとなったことは、「善光寺の御本尊は、持ち出すと滅びる」の法則に則ったものでした。

雲海の下にある甲斐善光寺
ざっと40年間、善光寺御本尊は信濃善光寺を出て、戦国時代の時の有力者たちを見回して、信濃へ戻ってきました。

3.おわりに

如何ですか?

このように有名武将の間を時代の流れとともに、全国を回ってきた仏像は珍しいと思います。

ところが、意外な事に、この御本尊、誰も見たことが無いのです。

これは、我々のような一般庶民が ということではありません。信濃善光寺に運ばれてから10年ほど経つ頃に自身のお告げにより、御隠れになったと、縁起に書かれています。

「聖☆おにいさん」のブッダ
なので、現在に至るまで参拝者のみでなく、善光寺の僧侶ですら見たことが無いのだそうです。

一応、善光寺本堂の厨子の中に安置されているということですが、Web等では「本当にあるの?」「誰も見たことないってどういうこと?」等の疑問が結構出ています。

もしかしたら、御本尊を見たら・・・

等、考えてしまいます。

また、このようにアクティブに出回る御本尊は、生身(しょうじん)すなわち本当に生命が宿っている霊像として信じられています。


もしかしたら、結構、身近にお友達感覚で、我々と一緒に生活しているかも・・・
雲海で湖のような甲斐の国

と最近流行った漫画で、聖人2人が若者の姿で、東京の下宿生活を、「バカンス」と言って過ごすという「聖☆おにいさん」というのがありますが、その中の主人公の1人がブッダ。(右上絵)

不謹慎で申し訳ありませんが、御本尊がこの漫画のようなキャラクタだったらと、勝手に想像してしまい、1人で吹き出しながら、雲海で湖のようになった甲斐の国を後に、東京に車を走らせていました。

ご精読頂き、ありがとうございます。