父・知盛を逃がすために戦う知章 |
そして、これらの戦の中における平家の武者達の滅びの美学について、一番の哀話である「平 敦盛」から見て参りました。
(平 敦盛はシリーズ②にて掲載しています。ここをクリック)
今回は、あと2人の平家の武者、平 盛俊と平 知章について、お話させて頂きます。
今回のシリーズでお話する平家の武者の布陣場所の位置関係は、下図の通りです。
1.平 盛俊(もりとし)
さて、平 盛俊の最期の話です。
平家が守る3方面のうちの鵯越方面を守っていた大将であることは、シリーズ①の後半にもお話させて頂きました。
ここも、一の谷が義経によって落とされたことが分かると、脆くも平家軍は押され始めます。
たった1人で船を上げ下ろしする盛俊 |
この防衛ラインの崩壊を見た盛俊は、茫然とし、「逃げても敵わない」と、ただ一騎踏みとどまります。
彼は、木曽義仲との倶利伽羅峠の戦いで、大敗を喫し、北九州まで撤退を余儀なくされた平家が、やっと、ここ福原まで復活したことにかなり貢献しています。
しかし、京都への完全復権の直前のこの事態に、「平家もここまでだな」という諦観を持ったのかも知れません。
そこに源氏方、猪俣範綱(のりつな)が馳せ参じました。
この男、鹿の角を素手で簡単に引き裂いてしまう程の怪力の持ち主なのですが、盛俊も60~70人で浜に上げ下ろしする船をたった1人で持ち上げるという怪力の持ち主です。(右上絵参照)
腕力に自信のある2人は、組打ちをして地面に落ち、範綱が組み伏せられてしまいます。
首を斬られようとすると、範綱は叫びます。
「もののふ(武士)は、名を惜しむものです。敵の首を取る時は、自らも名乗り、相手にも名を問うてこそ、手柄となるもの。名も知らぬ者の首を取るのですか。」
これは敦盛が名乗らないと宣言して直実に首を渡したのと対照的です。潔くないですね。
盛俊は、それもそうだと思い、この鵯越方面の大将、平 盛俊であることを名乗ると、範綱は、
盛俊塚(左)の直ぐ横を 流れる苅藻川(右側) |
と言います。これに盛俊は怒り、
「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない。」
と言って首を刎ねようとします。
「こっ、降参している者の首を刎ねるのですかっ!」と、懸命な範綱。
盛俊は哀れに感じ、抑え込んでいた範綱を放してやります。
2人は、畦道に腰を下ろし、田に水を引き入れる苅藻川を、息を整えながら、茫然と見ております。
盛俊塚 |
そこに、武者が馳せ寄ってきました。
盛俊が不審に思っていると、範綱は「あれは私と仲の良い人見四郎と言う者です。ご安心ください。」と、盛俊の警戒を解こうとします。
それを聞いて、フッと、盛俊の目に安心の色が浮かび、駆け寄る人見四郎へ再び目を向けた一瞬、範綱は拳で盛俊の胸板を突き、畦道から田んぼへ突き落とし、馬乗りになって首を掻きました。
すぐさま盛俊の首を自分の太刀に刺して高く掲げ、
「鬼神である平家の猛者、平 盛俊を武蔵国御家人、猪俣範綱が討ち取ったり!!」
と大音声(だいおんじょう)で名乗りを上げました。
これは駆けつけた人見四郎と後に功名争いが起こらないようにするためでした。
範綱が、この日の功名の筆頭に名を連ねたのは言うまでもありません。
ただ、他の説には、人見四郎は、範綱が半ばだまし討ちのようにして取った首を、多くの手下を従えて来たことにより、横取りするというものがあります。
東京都にある人見街道 |
ちょっと話が脱線しますが、私が昔東京は吉祥寺に住んでいた頃、生活道路として人見街道という道を良く使いました。国道20号等と並行して、府中から杉並区まで東西を結ぶ道路なのですが、これと人見四郎が関係があるのかを調べましたところ、やはり関係がありました。(右写真)
人見四郎らは、人見街道辺りを拠点とする武蔵七党のひとつ猪俣党の支流とされていました。
つまり武蔵野国の御家人である猪俣範綱とはある意味親戚です。やはり似た者同士だったのでしょうね。
盛俊を讃える看板 |
前回の熊谷直実のような葛藤は、この2人には読み取れないのが残念です。
討ち取るという、卑怯も何も討った方の勝ちみたいな・・・
それが却って、盛俊の純粋で優しい心持を引き立てているような気がします。
盛俊が討たれたのは、この碑が立っている辺りであり、塚には神戸市から盛俊を讃える右上のような看板もありました。
また、今は密集した住宅街の中に、狭いながらもちゃんと土地を確保して、塚を維持していることからも、討ち取られてから現在までも、皆、盛俊への同情が篤いことが分かります。(写真上)
2.平 知章(ともあきら)/知盛
下関に建つ碇知盛像 |
ご存じのように、平家の総大将は平宗盛ですが、実質的には、平 知盛が平家軍全軍を引っ張っていると言っても過言ではありません。
この大合戦でも、宗盛がハナ(端)から海上避難しているのに対し、源氏の大軍が来襲してくる一番大変な、生田川の防衛ラインを担当したのが、知盛なのですから。
知盛は非常に責任感が強い漢でした。
この大合戦、次の屋島の戦い、更には壇ノ浦でも、宗盛の失策を補おうと懸命に戦い、倒れる平家を支えようと必死でした。
ただ、そんな彼も、壇ノ浦では、「波の下にも都がございます。」と言って、幼少の安徳天皇を抱いて海に飛び込む二位尼や建礼門院等の入水の惨状を見ながら、最後の最期に、
「見るべき程の事をば見つ!」
と叫び、浮上して生き恥を晒さないように、碇を抱いて海に飛び込むのです。
平家滅亡のクライマックスです。(右上写真)
さて、実質的な平家の総司令官である知盛は、この一の谷の戦いでは、生田川で源範頼と交戦中に、やはり一の谷方面に立ち上る煙により、平忠度らの陣営が落ちたことを知ります。
間もなく生田川の防衛ラインの崩壊も始まり、知盛も手勢は減る一方となり、最後は息子の知章と弓の名手監物太郎頼方との3騎だけになってしまいます。
この3騎は沖の平家の軍船に乗ろうと渚へ逃げる途中、源氏側の武者、数十騎に追いつかれ、その中の1人が知盛に組着き、首を掻こうとします。
お父さん危ない!!
明泉寺境内にある平 知章 孝死之図 |
この混戦の最中、知盛は沖合の軍船に逃れることができました。
上の絵は、この時の状況を描いたものです。知章のお墓のある明泉寺境内にあります。また、冒頭の絵も、知章の奮戦振りを描いたものです。
知章の墓がある明泉寺 |
「私は何という父親なのでしょう。
子供が親を助けようとして敵に組み付いているのに、それを助けないで逃れる親がどこにありましょう。
これが他人のことなら歯がゆく思われますのに、わが身のこととなるとよくよく命が惜しかったものと思い知らされました。」
と言って、いつも冷静沈着な知盛が人目を憚らずに、咽び泣きます。
宗盛は、
「立派な息子でしたね。武芸に優れ、心は剛毅。確か我が息子清宗と同い年で、今年16歳のはず。」
と言いながら、清宗を見て涙ぐむばかりです。
17歳の敦盛を討つ時にも、熊谷直実が、敦盛の父親の心痛について熟考しておりましたが、ほぼ同い年を持つ父親、知盛の心痛、同じ歳頃の息子を持つ私でも良く分かります。
冒頭、知盛は責任感の強い漢であると評しました。
平 知章の墓(明泉寺) |
しかし、彼が平家を支える大支柱であり、まだまだ源氏との戦いを自分が引っ張っていかねばならないという責任感がそうさせなかったのでしょう。
また、息子の知章も、それを重々わきまえていたのだと思います。
碇を抱いて、海に沈む直前の知盛が、「見るべき程の事をば見つ」の言葉を発している最中、思い描いていたのは、息子知章の最期だったかも知れません。
右下の絵は、碇と伴に沈んだ海底の知盛が描かれています。弱冠ユーモラスに描かれているような気がするのですが、それはきっと悲惨な平家の重荷を、海の底でやっと降ろすことが出来た知盛だからではないでしょうか。
ちょっと救われる気持ちになりませんか。
3.おわりに
源平大合戦の1つである「一の谷の戦い」について、3シリーズに渡り、描いてきました。
シリーズ①で書いたように、わずか4時間足らずの史跡訪問でしたが、たったこれだけの時間で、戦、特に「逆落とし」の場所等に関する数多くの謎や、平家の人物3人を中心とした戦に絡む人間模様を濃く見ることが出来たことに、深く感謝しています。
特に盛俊の塚は、全く史跡巡りの計画に無く、偶然見つけられたのですから、やはり導かれたとしか思えません(笑)。
シリーズ②でも書きましたが、平家の滅びゆく美学のような数々のエピソードは、平家物語が読み続けられている原動力になっています。
歌川国芳による浮世絵
右端で薙刀を持った人物が平知盛
神戸には、他にも平家の武将の塚や関係史跡は沢山ありますし、讃岐の屋島や、下関の壇ノ浦等、源平合戦における人間劇を調べるには、時間も手間もまだまだ必要ですが、とりあえず、一旦ここでこの戦についてのシリーズは完了したいと思います。
長いことお付き合い頂き、ありがとうございました。
【盛俊塚】兵庫県神戸市長田区名倉町2丁目2−9
【知章墓:明泉寺】兵庫県神戸市長田区明泉寺町2丁目4−3