戦場にかける橋 (映画に出てくる橋) |
これを書いている私の頭の中をグルグルと、このフレーズが流れます。
分かる方は分かると思いますが、1957年の名作映画「戦場にかける橋」の主題歌『クワイ河マーチ』です。(今直ぐお聞きになりたい方はここをクリックしてください。)
すみません。のっけからふざけているように見えるかも知れません。この主題歌のフレーズの替え歌が冒頭の3つの単語なのです。そう聞こえますでしょう?
第30回アカデミー賞作品賞受賞作品であるこの名作も、今の若い人は知らない方が多いでしょう。
イギリス軍捕虜将校ニコルソン大佐 (アレック・ギネス) |
どうやら、運動会等の入場行進曲として、今でも小中学校で使わているのが理由のようです。
ただ、我々世代以上の方は、監督のデヴィッド・リーンの作品は、この映画と、それ以外にも、『アラビアのロレンス』等、ご存じの方多いのではないでしょうか?
今回、タイ出張時に、この舞台となった橋に行ってきました。
米国映画ですが、この橋はある意味、日本にも関係の深い史跡ですので、マイナー・史跡巡りのブログにてレポートしたいと思います。
【※写真はクリックすると拡大します。】
斉藤大佐 |
1.映画「戦場にかける橋」
この映画、ネタバレしない程度に簡単にお話しますと、当時日本軍がタイのクワイ河に輸送列車が通るための橋を、敵である連合軍、イギリス軍の捕虜に建設させていたのですが、そのイギリス軍捕虜の将校と、日本軍の監督側の交流や、協力、破局等を描いた物語です。
悲劇でも喜劇でもない、ましてや作戦成功とかの戦争ものでも、反戦ものでもない、あくまで出てくる人物達が何を考え、何を語り、どう行動するのかのプロセスの背後に隠れた皮肉とユーモアが深く、かつ面白い映画なのです。
そして、彼らの複数のストーリーが絶妙に絡み合いつつ、ラストシーンのクワイ河橋に集結した後、驚くような(?)結末を迎えます。
泰緬鉄道敷設路線図 |
2.泰緬鉄道
この映画に出てくるクワイ河の橋ですが、これは第2次世界大戦の最中1942年に建設が計画されました。
日本陸軍がタイとビルマ(ミャンマー)と結ぶ鉄道路線として作った、泰緬鉄道の一部です。(右図)
この中で、バンコク(Bankok)から北東へ100kmちょっとの処、カンチャナブリ県のクワイ河を跨ぐ地点に、この橋があります。(右図青字の場所)
日本軍は1942年、ビルマ戦線への物資補給ルートの確保の目的から、この鉄道の建設を開始するのですが、そもそもこのルートは先にイギリス軍が鉄道敷設を計画するも、地形が複雑なので断念したものだったのです。
映画の中では、日本の技術はお粗末で、イギリス軍が設計したら、この橋は立派に出来るような事を言っていましたが、実は日本の大陸横断鉄道技術は、満州鉄道の経験等もあり、かなり高かったのです。
ただ、映画でもありましたように、労働力の大半は、現地人約40万人(タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシア)、連合軍の捕虜6万2千人でした。
物資補給ルート図 |
右の地図を見て下さい。
3万人もの日本軍が白骨街道と呼ばれる道に戦死者をさらすこととなってしまった無謀な作戦、インパール作戦等、当時日本は、ビルマ戦線の拡大のための補給路を検討していました。
なぜなら、タイのバンコクからビルマ内への輸送をマラッカ海峡を通過して5000㎞もの海路を行くしか無かったからです。(地図赤線)
地図の青線ように、この鉄道を通せば、600㎞程度でビルマ領内まで輸送が可能です。
距離的にも圧倒的なアドバンテージがあります。
また、映画の中でも、この橋の完成を急がせる場面が多くあります。
それは当時既にミッドウェー海戦での敗退により、制海権を失いつつあった日本軍は、敵潜水艦によって、マラッカ海峡を安全に輸送することが困難になってきたために、この鉄道建設を急ピッチで実施する必要も出てきたからです。
そのような背景の中で出来た泰緬鉄道の中の、このクワイ河の橋について、映画では重々しい歴史的背景は描かれていません。イギリス軍捕虜が、橋建設に投入されているという事のみの描写でした。
ミャンマー(ビルマ)との国境の山々 |
タイのバンコクからバスに揺られること約2時間、タイは平野が続く国ですが、やっと山らしい景色が見えてきました。(写真右)
ミャンマー(ビルマ)との国境に位置する山々です。国境まで山が無いなんて、やはり大陸はスケールが違いますね。
この辺りはカンチャナブリという名称の県で、この泰緬鉄道の関係の博物館や記念碑等、数多くある場所です。
まず、最初に、JEATH戦争博物館に行きました。
この泰緬鉄道建設では、50万人動員された中で、何万人もの人が命を落としました。
捕虜や現地人を大量に使っての人海戦術による橋の構築 |
ただ、それはタイの国民性にそぐわないということで、Japan(日本)、England(イギリス)、America(アメリカ)、Thailand(タイ)、Holland(オランダ)が関係したということで、その頭文字をとってJEATHになったとのことです。
クワイ河への橋を作っている写真等がありますが、映画の建築シーンと似ています。(写真右)
ただ、かなりの人海戦術であったことは、映画よりも多数の人間が写っていることでも分かります。
実際、先に述べました通り、日本軍のビルマ戦線の拡大に伴い、兵站供給の必要性から、この橋の工事は急ピッチで行われます。
殆ど人力による工事が雨期にも突貫された |
また、工作機械の不足と突貫工事による死者も増大します。
色々と問題の多かった工事は、それでも5年はかかるだろうと言われたものが1年程度で完成したようです。
しかし、完成後も橋は、連合軍側の爆撃による破壊と、日本軍による急ピッチな復旧、という所作を繰り返していました。
また、捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の誤爆等で多数の死者が出ました。
ドクターフィッシュによる捕虜の治療 |
悪い話ばかりなので、少々良いこともお話します。
この河には、皮膚の治療をしてくれるという小魚、ドクターフィッシュが棲息していたようです。
怪我等の治療薬も欠乏する中で、このドクターフィッシュによる治療は捕虜の方々の役に立ったようですよ。(絵右)
ちなみに、右側2枚の絵は、連合軍側の捕虜が描いたものだそうです。
4.現在の「戦場にかける橋」
少々重い気持ちになり、博物館を出た我々は、そこから現在も橋が架かっている場所へ向かいました。
現在の「戦場にかける橋」(鉄橋) |
橋を架けた当初は、木橋と鉄橋の2つが架けられていました。
爆撃等で直ぐに壊されてしまうため、木橋も必要だったのでしょう。
現在は、鉄橋のみが残っています。(写真右)
映画に出てくる木橋(冒頭の写真参照)は、スリランカ ロケでの撮影であり、映画の設定もジャングルの中の橋とのことなので、景色は全然違います。
橋周辺は、かなり観光化されていて、水上レストランやお土産屋さん等も並びます。勿論、この映画のお蔭なのですが、日本人等の東南アジア系の人よりも欧米人の観光客の方が多いような感じがします。
鉄橋から河下方面をみる |
映画の中で、橋が完成してから、最後のクライマックスに向かう場面で、橋から見える河下方向は重要な意味を持ち、緊張感を持ちながら、何度も右写真の方角の場面が流れます。
今は水上レストラン等もある、タイらしいのんびりした風景ですね。
この路線は、現在もまだ現役で使われています。
ただ、どちらかというとこの路線は自然が豊かで、観光的な使われ方をしているようです。
ビルマへの物資輸送という観点は戦後、イギリス軍が、この鉄道路線がシンガポール港の重要性を引き下げると考え、消滅していくのです。
しかし、列車が走るこの鉄橋、観光客が、歩いて渡ることも出来ます。
日本では考えられませんが(笑)。(写真右下)
歩いて渡れます |
5.おわりに
この橋についても、やはり日本の南方作戦に絡む話なので、どうしても暗いものがあります。
しかし、この橋を渡る時、タイの燦々と降り注ぐ太陽と、観光客の明るい笑顔を見ていると、暗い戦争史跡という要素を感じませんでした。
また、映画についても、斉藤大佐が、ニコルソン大佐に対して、最初にした仕打ちこそ、むごいと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に比べれば、かなり緩和されていないか?という印象を持ちました。
更に映画全体では、日本軍も武士道を持ち合わせているというスピリッツを描きたかったのか、かなり紳士に描かれているように思います。
やはりこの名作映画は冒頭述べた通り、全く軍隊特有の陰惨さは感じられないような作りになっているからこそ、主題が引き立つのかも知れません。
では、この映画の主題は?
ラストシーンでニコルソン大佐が自問します。
What have I done?
お読みいただき、ありがとうございました。では、今回はこの辺で失礼します。
【戦場にかける橋】Kwaiyai Rd, Tambon Ban Tai, Amphoe Mueang Kanchanaburi, Chang Wat Kanchanaburi 71000 タイ