①金沢柵に建つ金沢八幡宮 |
(人物相関図はこちらをクリック)
そして、先に金沢柵攻撃を仕掛けていた鎌倉景正(かまくらかげまさ)や源義光(よしみつ)軍と合流し、この柵を秀武(ひでたけ)の進言によって兵糧攻めにします。これが効を奏し、金沢柵は食糧不足のために落柵は間違いない状況に追い込まれます。(写真①)
そして、義家軍最後の金沢柵総攻撃の前夜、家衡は軍議に集まった家臣らに云います。
「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。俺はここに残る。」
今回はこの続きからです。
②名馬「花柑子」を射殺する家衡 |
この夜、義家は全軍に通知を出しています。
「陣に敷設した仮屋を全て打ちこわし、その材木で暖を取るように。」
これは、家衡軍にわざと明日総攻撃をかけると噂を流していた清衡(きよひら)が以下のような先を読んだ提言をしたためです。
「家衡や武衡は、明日総攻撃の前に夜陰に紛れて撤退するでしょう。彼らは元々夜襲等が得意であることから、今回の撤退行動も夜間に起こします。ですので、夜間に落ち延びようとする敵を捕まえるためにも、火を焚き、金沢柵周辺を明るくすべきです。」
「また彼らは柵に火を放つ可能性が高いです。それに即応するためにも、こちらも火を焚いて暖を取って体力を蓄えると同時に、直ぐに行動に移せる軍体制を敷いておきましょう。」
③金沢柵の八幡宮境内と馬の像 |
さて金沢柵陥落に際し、家衡は、名馬として名高い愛馬「花柑子(はなこうじ)」が義家軍に渡るのを惜しみ、自分で弓矢を用い射殺してしまいます。(絵②)
逸れますが、金沢柵内にある金沢八幡宮境内には立派な馬の像が、写真③内の左側のようにありましたが、もしかしたら、この馬の像が「花柑子」なのでしょうか?(写真③)
戻します。そしてその夜、金沢柵に火は放たれ、燃え盛る炎の中を逃げる家衡・武衡軍でしたが、残念ながら、これを予想し、暖を取って英気を養っていた義家軍らに次々と捕まり、撫で斬りにされるのです。
2.戦後処理
それら夜中に撫で斬りにされた家衡・武衡軍の将兵の首が翌日、落ちた柵内にずらっと並べられたのが絵④です。(絵④)
④負けた家衡・武衡軍の将兵の首 は柵内に無造作に晒された |
まず、武衡ですが、彼は戦中から源義家の弟・義光へ降伏の意思を表し、義家への取成しをお願いしてきました。しかし、義光から上告を受けた義家はこれを頑として拒否。
そして、金沢柵に火を放ち、夜陰に紛れての最後の逃亡劇では、武衡はなんと忍者のように、近くの池に潜り、厳重な義家軍の撫で斬りから逃れようとします。(写真⑤)
彼は、葦や水藻等を体にまとい、刀の鞘の底を切り、片端を水面から出し、呼吸を繋いで、ほとぼりが冷めるを待っているつもりだったのでしょう。
しかし、それも虚しく数時間後には義家軍に見つかります。
義家の前に引き出された武衡、命乞いをします。この時、以前より、仲介を頼まれていた弟・義光が「兄貴、命だけは助けてやったら?」と助命嘆願をしますが、義家は「金沢柵の兵糧攻め前に投降してきたのであれば助命も考えたが、その後、特に部下である千任(ちとう)にあのような私への罵倒を浴びせた後の助命等受け入れられない」と突っぱね、斬首します。
⑤武衡が身を隠したと言われる 横手市杉沢の蛭藻沼 |
では、今の会話で出て来た千任(ちとう)、戦の後半で柵の上から義家に向かって大音声で義家の不義不忠をなじった彼はどうなったのでしょうか。
やはり厳重な義家軍の包囲網を突破できず、捕らえられます。
そして、かわいそうに、前回のblogで義家が「死に勝る恥ずかしめを与える」と言った通り、前歯を金箸で折られ、舌を抜かれるという虐待を受けます。(絵⑥)
そして、最後は絵⑦のように、生きたまま、木から吊るされ、大量出血で死ぬまで放置されるのです。(絵⑦)
この絵の中で、吊るされた千任の足元に転がっているのが、先に述べた斬首された武衡の首です。千任が力尽きかけ、足を地面に伸ばすと武衡の首を踏んづけるというようにし、
「かつての主君の頭を踏みつける気分はどうだ?不義不忠と思わんか?」
⑥千任への虐待 |
かなり残忍ですね。義家は。
この絵⑦の中でも馬も人も殺されている場面が描かれています。また柵等が燃えている場面も描かれています。
このように金沢柵が落ちてからの家衡・武衡軍は悲惨な目に合わせられるのです。
では、一番の総大将、家衡はどうなったのでしょうか?前回のblogで、彼は「俺はここに残る。」と宣言しました。
ところが、彼は行商人の姿に変装し、逃げようとしていたのです。(絵⑧)
直ぐに、義家配下の武将に見つかり、矢で射かけられます。
⑦吊るされる千任と 足元に転がる武衡の首 |
捕まった家衡は涙ながらに云います。
「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」
「早く母上に会いたい。」
そう、思いだしてください。家衡と清衡の母親は同じなのです。(人物相関図はこちら)
家衡は、秀武(ひでたけ)叔父にそそのかされ清衡館を襲います。
秀武は、清衡館に居る家衡の母だけは家衡が襲撃前には逃がす約束をしましたが、実際には誰かの陰謀で逃がすことが出来ず、結局自分の手で焼き殺してしまったのです。
家衡は、清衡が仕組んだ策謀だと思い込み、その恨みを晴らそうとして今回の戦(後三年合戦)が始まったのです。このシリーズの「その2」を読まれた方は、この件の犯人は分かりますね。清衡ではありません。(分からない人はここをクリック)
⑧変装して逃げる家衡は矢で射られる |
家衡は純粋な出羽豪族清衡家のお坊ちゃんだったのです。ある意味、可哀想に感じるのは私だけでしょうか?
彼は、その2つの言葉を残し、その場で矢を射た武将に斬首されます。
1087年11月、後三年合戦は義家軍の勝利で終わり、清原家は清衡以外滅亡するのです。
3.清衡の謀略
さて、清衡も、源義家が、前九年の役の恨みから、抹殺しようと考えている清原一族の1人であることは間違いありません。
⑨上:白河の旧東山道沿いにある 吉次の墓(首藤氏ご提供) 下:栃木県壬生町にある吉次 の墓(小林氏ご提供) |
しかし、清衡もそれは充分に分かっています。彼は、最初に企図した通り、父親・藤原経清(つねきよ)の恨み対象である清原一族を死滅させることが出来ました。この後は、早急にこの義家をリムーブしなければ、こちらが殺られてしまいます。(人物相関図はこちら)
そんな事は想定済みの彼は、後三年合戦が起る前から、清衡の隠密集団である金売り吉次(複数居ます)を使い、有力公家を中心に京の中央政府へ玉山金山から出る金子を上納し続けています。(写真⑪参照)
また少々脱線しますが、シリーズ「その2」でも述べました通り、日本全国あちこちに金売り吉次の墓があることから、吉次は複数人で、あちこちで「金」を使い、周旋業務をこなしていたようです。(写真⑨)
話戻りますが、義家は、この合戦の兵糧等の調達のため、京の中央政府へ納める年貢すら自分達で使ってしまうのです。
戦が終わった後、義家は中央政府に対して家衡追討の官符(かんぷ:追討のための費用)を要求します。
さて、この状況を見た清衡は一策、日頃の金売り吉次によるロビー活動を展開します。(写真⑨)
吉次が公家に「金」を上納する時、義家のこの合戦での対応等を当然聞かれますので、やんわりと彼の非業、行き過ぎた行為等を、公家に伝えます。
この話で義家に対する心証が悪くなった公家に、吉次は云います。
「この度の戦、義家公の私戦であり、陸奥守という公職の仕事ではございません。」
実は、今まで一度も出て来ませんでしたが、出羽守は当然この戦時におります。
もし、朝廷から正式に公の仕事として清原氏を鎮圧するのであれば、沼柵や金沢柵のある現在の秋田県の出羽守に命じるのが筋な訳なのです。そこを金売り吉次は公家に説明して廻るのです。
4.義家の諦め(清衡の勝利)
そんな清衡の周旋を知らず、義家は得意顔で京へ凱旋して来ます。(絵⑩)
⑩京へ凱旋する源義家(右側白馬に跨る貴人) |
さて、清衡の策謀はこれだけに留まりません。
この後三年合戦が「私戦」とされたことで、義家は、鎌倉景正をはじめとする武士団への恩賞が出せなくなります。
これは大問題。
後に「一所懸命」とか「御恩と奉公」とか言われるように、武士団の上下関係の信頼は、土地や金銭と命を懸けることのトレードオフで成り立っているのですから。
義家への求心力は完全に損なわれ、軍神どころか下手をすれば逆賊として成敗される可能性すらあります。
⑪玉山金山坑道跡 ※「古都ひらいずみガイドの会」より抜粋 |
そこに清衡は、陸奥守解任で、多賀城を去る義家の所へ挨拶に来ました。
今までお世話になったお礼にとすっと桐箱を差し出します。
そして、「つまらぬ菓子類故、後で照覧あれ」とその場を辞します。
皆さんもうお判りでしょう。そう、彼は玉山金山の「金」を義家に渡し、十分に恩賞が配られるように手配したのです。(写真⑪)
このように恩義を義家に売る事により、義家が素直に二度と奥州(陸奥)に戻らない、清衡を恨まないようにしたのです。
後でその金子を目にした義家は笑いながら言います。
「これは清衡にいっぱい喰わされたわい(笑)」
5.おわりに
如何でしたでしょうか?後三年合戦。
シリーズの最初に書きましたように、謀略に長けた清衡は、父・藤原経清や安倍一族の恨みの対象である清原氏を、源義家を利用することで滅ぼすことが出来ました。
勿論、自分も滅ぼされるリスクがあったのですが、それも想定済みの緻密な謀略の策定。
やはり1stガンダムのシャアのようなキャラですね。
⑫奥州藤原氏の政庁のあった「柳之御所」跡 |
清衡は、自分の父の恨みを晴らしたこの時点で、姓を父の藤原に戻します。
これが奥州藤原初代、藤原清衡となり、陸奥にも出羽にも便の良い平泉に奥州支配の政庁「柳之御所」(やなぎのごしょ)を移し、前九年の役から後三年合戦の血塗られた歴史を振り切り、新しい蝦夷(えみし)奥州王国を作り上げるのです。(写真⑫)
また、それまでの戦没者の霊を弔う意味から、平泉中尊寺を建立するのです。
金色堂に金がふんだんに使われているのも、今迄お話してきたように、清衡が諸所の謀略に金を使うことでこの奥州王国を建設した象徴的なものが「金」だからです。
そう思うと、金色堂に込められた清衡の想いのとてつもない大きさを感じますね。(写真⑬)
※金色堂への清衡の想いは、別著作blog「Tsure-Tsure」に纏めましたので、こちらをご笑覧ください。
◆ ◇ ◆ ◇
前九年の役から始まった今回のお話、後三年合戦も含めて、長い事お付き合い頂き、本当にありがとうございました。
写真⑬の金色堂前で写真を撮っている私は、このような深い清衡らが係わったその前の戦跡があるなぞ、全く知りませんでした。その後、知れば知る程、その大きな歴史の流れの礎がここにあることに驚きました。
⑬中尊寺金色堂外国の方が沢山訪れていました |
この2つの奥州での戦が後の武士団形成への大きなステップになったことは間違いありません。
源義家が、清衡から貢がれた「金」を基とした私財を投入して武士団の恩賞を行ったことが、却って武士団としての団結力を強め、後の鎌倉時代の武士の時代を創る元になるのです。
そう考えると清衡は単に義家を上手く使って、奥州から清原氏を追い払い、奥州王国を建てたということより、鎌倉時代から明治維新まで続く武士の時代の魁(さきがけ)となったことが最大の功績かもしれません。
◆ ◇ ◆ ◇
そして100年後に飛び、奥州における義経と奥州藤原氏の滅亡を併せたレポートを次回以降したいと思います。宜しくお願いします。
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野金洗沢
【蛭藻沼】秋田県横手市杉沢谷地中
【柳之御所】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【中尊寺金色堂】西磐井郡平泉町平泉衣関78