※第1弾、第2弾はこちら⇒東北調査紀行1、東北調査紀行2
前回、平泉の中尊寺を訪問した後、義経の最期の地とされる高館を訪問しました。(写真①)
①高館義経堂から歩いて「柳之御所跡」へ向かう |
今回は、ここから話を続けます。
1.柳之御所跡
さて、今回見て廻った場所の見取り図です。(写真②)
②高館から柳之御所へ ※歩いたコースは黄色い点線です 出典:柳之御所資料館模型 |
そもそも平泉は、写真③の解説にもありますように、奥六郡(看板地図中、紫に塗られた東北内陸部)の玄関口(中央政権の派出所である仙台 多賀城から見て)に、藤原清衡(きよひら)が造った中核都市なのです。(写真③)
③奥六郡(奥州王国)と平泉 出典:柳之御所資料館 |
勿論、奥六郡も中央政権下に存在する一地方郡ではありますが、奥州藤原氏は、この郡からの税収だけでなく、奥羽で取れる金や名馬から上がる利潤を上手く活用し、仮想的な蝦夷(えみし)の半独立経済圏、いわばバーチャル王国を作り上げていたのです。
なので、その概念的な意味合いも含めて、私はあえて奥六郡のことを奥州王国と呼んだ訳です。
逆の視方(みかた)をすれば、古(いにしえ)の奈良時代に律令で決めた行政機能は、平安時代の藤原摂関政治の基、荘園制度等の発展により、グダグダに崩れ始め、このような京の都から遠い地方では、バーチャル王国の存続を許してしまうような、複雑な国に日本はなってしまったのです。
このような制度の限界を感じ、奥州王国を日本という国の中の大きな腫瘍のように感じ、これを潰さなければ真の統一社会は出来ないと考えた漢(おとこ)がいました。
源頼朝ですね。
彼は、高館にて義経を討ち、その首を差し出した奥州藤原氏4代目の泰衡(やすひら)を赦すどころか、28万もの大軍を持って、自ら平泉へ攻め入ります。これを奥州合戦と言います。
泰衡は、勝ち目なしと踏んだのか、平泉の柳之御所に自ら火を掛け、灰と化して、平泉を放棄し北方の厨川柵(くりやがわさく)へと逃げて行きます。
頼朝軍は、1189年の8月にその何もかも無くなった平泉に入城します。
多分季節も私が訪問した時期と同じ頃ですから、灰こそありませんが、景色としては写真④のような、だだっ広い政庁跡を見たのかも知れません。(写真④)
④何もない(東側から見た)「柳之御所跡」 |
⑤池を持つ邸宅跡 |
「金」です。しかも大量に。
これを見つけた頼朝軍は大変驚きましたが、頼朝は全く動じません。
彼はこれがあるからバーチャル王国である奥州王国は潰すべきと、ずーっと構想していたのですから。
2.泰衡からの書状
さて、平泉に入城した頼朝の宿所に、書状が投げ込まれたと『吾妻鏡』にはあります。泰衡からの書状です。概要は以下の通り。(Wikipediaから)
「義経を討ち取ったのは、罪ではなく勲功ではないでしょうか?そもそも義経を平泉に招き入れ、保護したのは亡父・秀衡であって、私はなんらそれらに関与していません。罪無くして成敗されるのは不本意です。現在累代の在所(柳之御所のことか?)を去り、山中を彷徨い、大変難儀しています。出来れば私も頼朝殿の家来の一人として頂けませんか?せめて遠流として欲しいです。」
理が通った話のように感じます。しかし、頼朝は、100年前の後三年合戦で源義家(よしいえ)が慈悲をかけた清衡(きよひら)が、結局は裏切り、奥州王国を打ち立ててしまうことを知っています。そう、奥州藤原氏はやはり根絶やしにしなければならないのです。
また、泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物であるということをこの書状で赤裸々にしてしまっています。
これでは頼朝は、泰衡は傑出した人物だから、殺すのは勿体無いとは思わないでしょう。
理不尽ですが、現代もこの時代も、その辺りの匙加減は同じですね。結局泰衡は、逃亡中に部下から殺害され、その首を頼朝軍に差し出されてしまいます。
◆ ◇ ◆ ◇
このシリーズの「~東北調査紀行1~」で、金色堂には奥州藤原3代のミイラがあるとお話しました。(ミイラの写真はここをクリック)
4代目の泰衡の首もあるのです。しかし公式には3代のみということになっていました。(写真⑥右)
⑥奥州藤原氏3代の棺(左)と 「忠衡公」と書かれた首桶(右) |
それは泰衡の御首が入れてある棺に書かれている名前です。(写真⑥左)
「忠衡(ただひら)公」と書かれています。
忠衡とは泰衡の弟で、最後まで亡父・秀衡(ひでひら)の遺言を遵守し、義経を守ろうとした人物です。
長い間、この首桶に書かれた文字を信じ、この首は弟の忠衡のものだと信じられてきました。
いや、信じる以前に忠衡のものか、泰衡のものかの客観的な判断が出来ない程、この首は損傷していたようです。16箇所の切創や刺創、さらには鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があるという凄惨なものです。(写真⑦)
なので、言い伝えのように忠衡としていたのですが、1950年代のX線調査等により、この首の頭蓋骨部分に18㎝以上の釘を貫通させた後が見つかったのです。(写真⑦のA、B,Cは削がれた部分)
⑦泰衡の首 |
この厨川柵、実に133年前の1056年、前九年の役の帰結として、当時の陸奥国守の源頼義(よりよし)が安倍氏征伐を行い、当主安倍頼時(よりとき)の首を八寸釘で打ち抜いて柱に打ち付けたのです。
この故事に倣い、頼朝は泰衡の首を同じ八寸釘で同様に打ち付けたとの記録が吾妻鏡に残っているのです。
その記録と頭蓋骨の貫通跡が一致します。それ以来、この首はやはり奥州藤原氏4代目泰衡のものと鑑定されたのです。
ではどうして首桶に「忠衡公」と書かれているのでしょうか?
奥州王国が滅びても、中尊寺は残った訳であり、当然その中核である金色堂、さらにはそこに安置してある藤原氏のミイラ等は、鎌倉幕府から注目される訳です。
残された奥州王国の人々は、何とか4代目泰衡の首も、3代目までと同様に残してあげたい。しかし、奥州合戦における頼朝軍の敵のトップたる泰衡を、他の3代と同様に堂々と残すことは、鎌倉幕府が続く限りは出来ないのです。
⑧私のためだけに再度開館してくださった柳之御所資料館 |
そこで、奥州王国の人々は一計を練り、弟の「忠衡公」の首と称して、泰衡の首を3代と一緒に葬ることで、幕府からの訴追を逃れたという訳です。
◆ ◇ ◆ ◇
以上の話全て、「柳之御所資料館」(写真⑧)で知りました。しかし、この資料館に到着した時には、閉館時間である17時を10分程度過ぎており、館員の方々が車で帰宅されようとしていたところを、無理に頼んで、態々私だけのために、資料館をまた開けて下さるというご負担を強いました。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。(写真⑧)
3.無量光院(むりょうこういん)跡
さて、平泉も駆け足で見て廻り、中尊寺駐車場へ向かう私の視野に美しい池が飛び込んできました。(写真⑨)
⑨無量光院跡 |
写真⑨の真ん中にある看板を読むと、なんと平泉市がVR(バーチャル・リアリティ)の取組みをしており、写真⑩のような院の建設当時の想像図が、特設ゴーグルを掛けることで、この場所で見えるとのことでした。(写真⑩)
確かに平等院鳳凰堂によく似ていますね。
ちなみに、写真⑩の右側の写真にありますように、私が訪れた8月には、ちょうどこの平泉の金鶏山(きんけいさん)の山頂と本堂等の建造物の中軸線上に夕日が沈むのを見られるのだそうです。(残念ながらこの日は日没頃曇ってしまい見えませんでした。)
⑩無量光院のVR写真 |
4.おわりに
1代目清衡は中尊寺を、2代目基衡(もとひら)は毛越寺(もうつうじ)、3代目秀衡は無量光院と、ここ平泉を、奥州王国の京の都とすることに一生懸命だったようですが、多分その蝦夷(えみし)の国家形成が、バーチャル(仮想)なだけに「儚(はかな)い」ものであることを奥州藤原氏3代は予想していたのではないでしょうか?
⑪何も無い(南から見た)柳之御所跡にて ※左手の小山が高館義経堂 |
普通そのような都市であれば、王国への敵来襲に備えて、城砦を築く等、武力による防禦建造物で固めるべきですよね。
ところが、奥州藤原氏3代は、ここに寺院等、スピルチュアルなもののみで固めており、またその建造物には、末法思想が色濃く出ているのです。
私はバーチャル国家とは?という疑問に一つの答えを奥州藤原氏から貰っているように感じました。
皆さまはどう感じられますか?
最後までお読み頂き、ありがとうございました。