①笠置山の巨石群1 |
その笠置山に、六波羅探題の幕府軍75,000が攻め寄せます。
楠木正成は、攻め寄せられる直前に本拠である赤坂城に戻ってしまいます。そうなると後醍醐天皇が拠所とするのは、笠置山の天嶮の防禦と、付近の柳生の里のバックアップのみですが、これが意外にも強いのです。
笠置山の鉄壁の守りに、幕府軍には倦厭ムードが高まり、これに危機感を感じた幕府軍の武将・陶山義高(すやまよしたか)が乾坤一擲の作戦を立てるのです。
続きを描きます。
1.陶山義高の作戦
草木も眠る丑三つ時(午前2時頃)、皓々と光る月明かりを頼りに、陶山氏の一隊・数十名は太刀を背負って軽装で行動を開始します。
地元の農夫を道先案内に立て、カギ縄、油玉(油を浸した雑巾束)等の忍び道具を持って笠置山へ向かうのです。
②笠置山の巨石群2 |
さて、断崖の上に立った陶山氏一隊は、眼下に陣を構える宮方軍の篝火を見ます。宮方軍はまさかこの切り立った断崖を登ってくる敵は居ないと思い込んでいるのでしょう。宮方軍の見張りも、陶山氏一隊のいる巨岩には背を向けて立っているのです。陶山氏一隊は、この景色を見てニヤッと笑います。
持って来た油玉を矢の先にぐるぐると捲き、篝火目掛けてその矢をヒョーと射ます。篝火は飛んできた矢の勢いとその先に捲きつけられた油をたっぷりと含んだ雑巾によって派手に倒され、火が油玉に燃え移ってあたり一面がバッと燃え上がり始めました。
それが同時に3,4か所の篝火で起きたので、宮方軍側は、
夜襲!幕府軍の夜襲だぞ!
と蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。
2.笠置山陥落
その騒ぎで手薄になった笠置山城内のあちこちに、陶山氏一隊は更に火を付けて廻ります。
笠置山は元々寺院建物が多く建立されていますので、それら伽藍、仁王堂、木戸や仮屋等からも火の手が上がると、断崖上に建てられた木造建築は、風に煽られ良く燃えるのです。
また、笠置山山麓の幕府軍からも、断崖の上の火は良く見えます。
よし!今こそ笠置山を落す絶好の機会!
とばかりに、陶山隊と連携した木戸の外で笠置山を囲んでいる幕府軍は、夜半に係わらず勢いに乗って木津川沿いの木戸を打ち破り、城内へ乱入して行くのです。
宮方軍は、かなりの戦意をくじかれながらも、必死に帝への初志を遂げようと、最期の名乗りをあげながら無残な枕を並べて行ったのです。弓を使い大活躍したと、前回のブログで取り上げた足助次郎(あすけじろう)もその一人です。
「ざんねん!三河の足助次郎重範(しげのり)は我なり。どいつもこいつも冥途への道連れだ。かかってこい!」
と首を取ろうと押し寄せる幕府軍を相手に奮闘し、少しでも帝らが逃れる時間を稼ごうとするのでした。
◆ ◇ ◆ ◇
③山中を彷徨う後醍醐天皇 (真ん中水色のお服) |
約1か月間弱、笠置山は寡兵ながら大軍で押し寄せた幕府軍を相手に良く戦いましたが、寡兵で守る城の最後の典型例、最後はあっけなく落ちたのです。
2.後醍醐天皇捕縛
あまりの時間の無さに、慌てふためいた彼らですが、かねてより落ち延びる先として決めていた赤坂城を目指します。
赤坂城は、先に戻った楠木正成、帝を迎える準備をしているはずです。
ただ、山々を彷徨し、赤坂城へ向おうとする彼らの準備不足は甚だしく、殆ど着の身着のまま、足は裸足だったようです。(絵③)
前回のブログで、この時代の帝は普通、御簾(みす)を自分では上げないものだと書きました。更に言うなら、この時代帝のところに日本中から来訪はあっても、帝ご自身が外に出る必要は殆どなく、それでも行事等で外出せざるを得ない場合は、牛車でお出かけする等、およそ「土を踏まない生活」が出来る稀有な存在なのです。
そのような「土踏まず」の生活を送るべき帝が、まさか裸足で山中を彷徨するなんて!ということで、この辺りのくだりは太平記でもかなり同情的に書かれています。
【太平記抜粋・意訳】
畏れ多くも十善の天子たるお人が、そのお姿を無教養な庶民と間違える位に変えて、どこへ行くのか分からずに、迷い出られたことは嘆かわしく、あきれるばかりです。
◆ ◇ ◆ ◇
④後醍醐天皇が幕府軍に捕まった場所(有王山) は赤坂城の方向とはちょっと違うようです |
※左下のまるで蟻地獄にでも落ちたかのような風体の人はこの藤房の弟・季房(すえふさ)。
実はこの藤房が、前々回のブログで赤坂城に、帝の勅使として楠木正成を訪ね、宮方軍側への参陣を促した人なのです。
ですから、赤坂城までの道のりは良く分かっているはずなのです。
ところが地図④を見て下さい。
赤坂城とはまるで反対方向である有王山(ありおうざん)にて、後醍醐天皇らは幕府軍に捕まっています。
しかも丸2日間かけてやっとこの距離です。道さえ迷わなければ、赤坂城に着くことができる時間があったと思われます。
絵③の通りであったなら裸足ですので、歩く距離は稼げないわ、山中の道には迷うやらで、こんな意外な場所で捕まったのだろうと想像するのが普通です。
ところが私の悪い癖で、また妄想が膨らみます。
実は迷走はしていないと考えました。赤坂城までの道を良く知る藤房は、次のように考えたのでは?と妄想します。(地図④)
宇治市方面の笠置山南側は幕府軍により囲まれています。そして奈良盆地を天皇が突っ切るのは目立ち過ぎます。となれば奈良盆地の北側の山中を西に渡り、生駒山伝いに赤坂城へ行くのが安全と計画したのではないでしょうか?
しかし、流石に歩き馴れていないどころか、裸足だった帝は、2日間でたったこの距離しか進めず、捕まってしまったのでは?という妄想です(笑)。
⑤赤坂城の空堀 |
私の妄想はさておき、しばらく登場していなかった楠木正成らに視点を戻します。
笠置山から水分(みくまり)に急ぎ戻った正成は、赤坂城の補強工事を昼夜兼行で行います。
「20日で完成させなさい!」と正成ははっぱを掛けます。
彼の計算では、どう考えても笠置山は1か月以上は幕府軍の攻撃に持ちこたえられないと見ているのです。
この間で工事に20日、食糧の運び込み、城に設置する防禦仕掛けの準備、動作確認・習熟等で10日程、合計1か月間と見ているのです。
これはほぼ計算通りでした。
赤坂城は掻揚方式の典型的な山城です。山裾の三方面は60~100mの断崖なので、その下に空堀を掘りめぐらし、掘った土を断崖の上に土壇として畳上げ、その上に石垣、更に板塀等の城壁を建て、その内側には、武器としての大木や大石などを山のように積み上げるのです。(写真⑤)
赤坂城の使い方は、基本、断崖や城壁などに組み付いてよじ登ってくる幕府軍を待って、上からモノを落したり、矢を射たり等して蹴散らすという構想なのです。(絵⑥)
金剛山付近の水分(みくまり)で育った正成らは、山岳戦には相当長けていたのでしょう。
勿論兵学で学んだことも多いのでしょうが、後の時代の武田信玄や、はたまた真田昌幸・幸村親子が甲斐・信濃の山々を幼少の頃から飛び回り、遊びながらにして自然と山岳戦のノウハウを獲得したのと同様に、正成も水分(みくまり)や、付近の金剛山で育つ中で、自然に山岳戦が上手になったのではないかと思います。
特に真田軍と楠木軍が似ているのは、山という地形を味方にすることにより、数百の味方で数万の大軍と互角以上に戦えるということですね。真田軍は数万の徳川軍を相手に、楠木軍は数万の鎌倉幕府軍を相手にです。
⑥迎撃準備が出来た赤坂城 ※湊川神社所蔵絵 |
一方で、築城の突貫工事から、水分(みくまり)地域の武士だけではなく、農民に至るまで老いも若きも懸命に赤坂城補強工事に参加してくれた上に、工事完成後に一緒に籠城してくれたのです。農民、年寄り関係なく、作った防禦仕掛けを動作することができるからという理由もあるかも知れませんが、やはり正成の人徳によるところが大きいのでしょう。
それでも総勢はたったの500。
ちなみに、笠置山を落して勢いに乗った幕府軍が押し寄せた数は「太平記」によると30万。流石にこれは多すぎるとは思いますが、「太平記」に記されている笠置山への軍勢が7.5万ですから単純に4倍には膨れ上がったとすると、やはり数万は赤坂城へ押し寄せたのでは?と思われます。
500 対 数万
寡兵以上に正成らが苦労したのは兵糧調達です。笠置山で戦闘が始まる頃から、調達は開始されましたが、季節は9月と、稲刈り直前の時期で、どの米蔵もそろそろ底を尽き始める頃だったのです。また前年、前前年とも凶作で、どの農家も米が底を尽いている状況だったのです。
⑦赤坂城登山口 ※ここから入城したかは定かではありません(笑) |
幕府軍が押し寄せる直前まで兵糧調達を続けましたが、それでも500人が籠城して20日分程度しか確保できませんでした。
3.赤坂城へ押し寄せる幕府軍との戦い
鎌倉幕府軍が赤坂城へ押し寄せる直前、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)が赤坂城へ入城しました。先に書きました後醍醐天皇らが有王山で捕まったのとは反対に、護良親王は笠置山脱出、赤坂城入城に成功したのです。(写真⑦)
赤坂城は、この宮様の参加により大いに勇気づけられました。守る兵500 対 数万の幕府軍ですから、兵数は圧倒的に不利でも、宮様がいれば、後世でいうところの官軍です。早速菊水の旗印を赤坂城に棚引かせ、戦闘意欲満々の赤坂城ですが、押し寄せる幕府軍も笠置山を落して勢いに乗っています。
この幕府軍の中には、足利高氏(後の尊氏)の一軍もいます。
当初、幕府軍は、赤坂城内には武士以上に農民などの地域住民が多いとの噂から、正成以外の城兵は降伏すれば赦すという投降文を城内に矢で射かけ、赤坂城の内部分裂を図ります。
しかし、水分(みくまり)地域住民の結束は固く、そんな矢文には乗りません。
⑧赤坂城本丸から山麓を見渡す |
「では戦うのみ。たかだか500しか兵力の無い城なぞ、1日も持たないだろう。」
と、麓の空堀地帯に幕府軍は一気に群れ、そこから切り立った断崖を、城壁目指して懸命に這い登り始めます。(写真⑧)
幕府軍の登ってくる兵士が断崖のなかばまで来た辺りで、城中に合図の太鼓が鳴り響きます。
すると、土砂が濁流のように城から降ってきます。土砂だけなら怪我はあまりしないのですが、更に十分狙いを定めた矢が降ってきます。土砂を避けるだけでも手一杯な幕府軍はこの矢の連射で次々と射取られていくのです。
「怯むな!」と幕府軍の指揮官は声を荒げ、兵量を誇る幕府軍は二陣、三陣とさらに崖を覆いつくし登って行きます。
⑨逆茂木(さかもぎ) |
断崖下の空堀には、逆茂木(さかもぎ、写真⑨)という木柱の先が尖り、突き刺さるようになっている構造物が軽く土を掛けて隠してあります。それらの上に次々に落下してくる幕府軍。死屍累々の地獄図が出来上がります。
これにより更に幕府軍は進軍しづらくなるという悪夢のスパイラルが続き、この戦闘だけで死傷者が1000人を超えるのです。(絵⑩)
◆ ◇ ◆ ◇
とても1日では赤坂城を落すのは無理だと分かった幕府軍は、山麓に陣を敷き、宿営の準備に取り掛かることにしました。
⑩赤坂城攻防戦のイメージ(Webから) |
これを城内から見ていた兄・正成も城の木戸を一斉に開き、打って出たため、数万の幕府軍は、たった500の楠木軍により、山麓から北西2㎞の位置まで退却する始末です。
◆ ◇ ◆ ◇
この後も幕府軍は、多少の戦術を変えはしますが、基本、兵量にものを言わせて、城壁を越えて城内に押し入る作戦を何度も踏襲します。
楠木軍も、それらの攻撃に対して、戦術を変えることで、幕府軍の攻略作戦の過去の失敗経験があまり役に立たないようにするのです。
2度目の城攻略では、城の内部を別働隊が覗いつつ、1回目のような太鼓のような物音もしない、矢も飛んでこないとの状況を確認しながら、幕府軍はどんどん登っていきました。
今度こそ大丈夫!
ところが彼らが城塀に張り付いた途端、実は釣塀式になっていた塀を、隠れていた城兵が一斉に斬り落とし、寄せ手1000人が地面に落とされ、700人以上の死傷者を出しました。
3回目は、土砂、岩石、大木、釣塀に、十分注意しながら登って来た幕府軍に、城兵たちは大きな柄杓で熱湯を上からかけることで火傷を負わせ、更に幕府軍300が死傷。
他にも幕府軍に上から油を掛けて火を付ける、城内の溜まった城兵らの糞尿を上から撒き散らす等の臭い手等も駆使し、幕府軍をてんてこ舞いさせます。(写真⑪)
4.赤坂城落城
とうとう一切赤坂城へ手出しをせずに、兵量にものをいわす形での包囲作戦に出ます。
先に述べた通り、兵糧は20日分しか準備できていないのが、楠木軍のアキレス健なのです。
逆に笠置山で後醍醐天皇に「一つ一つの戦の勝敗を気にしない事が大事。」と正成が奏上したのは、笠置山の陥落だけでなく、この赤坂城での負け戦をも予想しての発言と思います。
包囲されてから数日後、正成は悲壮な一令を、赤坂城内の将兵に発出します。
「皆、良く戦った。矢尽き、刀折れ、力尽きるところまで頑張った。正成は今夜潔く死のうと思う。生きたい者は落ち延びよ。お互い信じあったもの同士だ。二心は疑わない。どこにでも落ち延びて欲しい。」
勿論、これも正成がこの事態を予想しての作戦です。これが最期とは全く考えていません。
◆ ◇ ◆ ◇
この最後の命令後、彼は城内に大きな穴を掘らせます。そしてその穴へ敵の屍(しかばね)を運ばせます。そしてその穴に正成の所持品(持仏、経文、菊水の旗 等)も投げ入れて置くのです。
そして夕方になると全軍を一か所に集め、最後の食料や酒まで城の貯蔵施設から全てのものを出してきて宴(うたげ)を始めます。
「思い残すことなく、名残を尽くすように!」
という事なのですが、この時炊ぎの焚火や煙が城内から盛んに上がるのを見た幕府軍側は
「どうやら、楠木軍はこの包囲網による兵糧攻めに耐え兼ね、今夜夜襲による包囲網突破を敢行してくる可能性が高い!」
と踏むのです。「デアルなら、逆にこちらから夜襲してやる!」とまで考えるのです。
⑫赤坂城本丸跡からの眺望 |
夜半、山麓にとどろく武者声が揚がります。幕府軍側です。
これに呼応して城内からも喊声(かんせい)が揚がります。「幕府軍に最期の馳走をしてやれ!」との大声も聞こえます。
最後の弓矢の物量で勇ましく戦いながらも、夜半には楠木軍は誰の手にも弓は無かったのです。
全て矢が尽きました。
正成は部下に命じて城に火を掛けさせます。
そして正成は準備していた穴に自分で入り、これに火を掛けます。更に彼は「正成の最期、とくとご覧あれ!」と何度も叫びました。
◆ ◇ ◆ ◇
後日、全焼した赤坂城で、この穴の中で2、30の焼死体が幕府軍によって発見されます。
その中に正成の所持品や菊水の旗印のような焦げた品なども散見されたことから、幕府軍は
「これは楠木正成とその一族の焼死体に違いない。この穴で、楠木一族は自害したのだろう。」
と言い合い、正成の遺体を探しました。しかしどの遺体も損傷が激しく、正成の特定は出来ませんでした。
幕府軍は、1331年の11月には鎌倉へ帰陣し、楠木正成は赤坂城に火を掛け、自害したと報告をしました。
◆ ◇ ◆ ◇
勿論、これは楠木正成の自作自演です。
この後の後醍醐天皇や正成の話は、また次回とさせてください。
長文お付き合い頂き、ありがとうございました。
【笠置山後醍醐天皇御在所跡】京都府相楽郡笠置町笠置笠置山
【有王山後醍醐天皇捕縛箇所】京都府綴喜郡井手町井手山吹 有王山
【赤坂城址】大阪府南河内郡千早赤阪村桐山