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大楠公② ~正成参内~

前回、鎌倉幕府を倒幕しようとする後醍醐天皇が、楠木正成(以下、正成)を召喚する経緯をご紹介しました。

①楠木正成は赤坂城から笠置山へ参内します
後醍醐天皇の夢告で召喚されることとなった正成、彼は天皇の勅使に対して2回も召喚を辞し、勅使も命がけの説得をすると、「親族と協議し、明日回答します」との譲歩を示します。

そして楠木家一族で大議論をします。

弟の正季(まさすえ)を中心に是非朝廷側に付くべきであるとの意見統一がみられたことから、翌日正成は後醍醐天皇への献身を約束し、急ぎ笠置山へ参内するのです。(地図①

今回はこの続きからです。

1.正成の笠置山参内

奈良の南西にある赤坂城を出た正成は、奈良の北東という対角線上の笠置山に急ぎ参内に向かいます。1331年の9月の終わりです。(地図①

実は、この時既に鎌倉幕府は、後醍醐天皇を討つための75,000の大軍を宇治に集め、笠置山へ送り込もうとしているのです。(※太平記では75,000との記録ですが、実際には20,000位ではないかとの歴史家の考察もあります。)

そもそも醍醐天皇が京の都を離れ、この奈良の山奥である笠置山への逃避行を余儀なくされたのは、笠置山へ来る5か月前(1331年4月)に再度の倒幕計画が暴露したことが初端です。暴露後、幕府の追及が天皇自身に伸びてきたため、9月に入り天皇の影武者を使い、さも自分は比叡山に向かうように見せ、その間に奈良は東大寺を経由して笠置山へ逃れたという訳です。

しかし影武者を使っているということは直ぐに幕府の京の出張所である六波羅探題に露見してしまいました。

激怒した六波羅探題の幕府はすぐさま75,000の大軍を宇治に集めたという経緯なのです。

この後醍醐天皇最大のピンチを迎えている時にこそ、楠木正成は笠置山へ向かう価値があると踏みました。

多分、この鎌倉幕府の大軍に対する後醍醐天皇側には勝機はないだろうと、笠置山へ向かう正成は考えます。

-ただ、決して笠置山で後醍醐天皇が勝てなくても、幕府側は必衰の兆候がある。楠木家の参陣を期待している後醍醐天皇に、この笠置山総攻撃前に会い、なんとしても希望を失わせない状況を作る必要がある。-

1日は掛かったと思われる赤坂城から笠置山への道程、正成も後醍醐天皇からどのような言葉を掛けられるか、自分は何を話すべきか、この緊迫した状況ですから、かなりシュミレーションをしたと思われます。後醍醐天皇らへ希望を与え、これから長く続くと思われる倒幕戦を完遂させるモチベーションを与えることが目的です。

しかし、これを正成が伝えれば当然笠置山へ留まるよう後醍醐天皇から勅命を受けてしまう可能性大です。

正成は幾ら期待が集まるからと言って、笠置山には残留する気はありません。残れば、にわかに来たばかりの正成が、笠置山に参集した雑多な宮方軍約3,000のコントロールを完全にとることは難しく、却って反発を招く可能性すらあります。

つまり正成の残留は共倒れになる可能性が高いのです。
②参内する正成
※この絵では野暮ったい正成には描かれていません

後醍醐天皇の置かれた状況を正成は冷静に考えます。

当面は負け戦が続くのでしょう。であれば、どこかで形勢を逆転するように仕向ける必要があります。そのためには後醍醐天皇と自分が行動を伴にするよりは、自分はその形勢逆転に仕向けるための奔走する必要があると。

そこで彼は参内するにあたり、一策投じます。

一豪族の武者が天皇自身に召喚されるとなれば、ピカ一の武者姿&沢山の従者 等と体面をより雅(みやび)にして、参内するのが常識と思います。

③湊川神社にある正成が実際に
着ていたと言われる鎧
※かなり軽装です
しかし、彼はあえて従者は少なく、普段使いのよれよれ鎧を着て、わざと野暮ったく謁見の場に現れるのです。(絵②、写真③

後醍醐天皇の夢告により選抜されたエリート武者・楠木正成を一目見ようと集まった天皇の取り巻き達は

「なあんだ。今まで参集してきた武者とさして変わりない。」

と一気に興味を失いました。

正成の思惑通りです。

しかし、そんなことで正成の本質を見誤らない人がいます。

後醍醐天皇ご本人です。

なんと参内した正成の前で、御簾(みす)を上げさせたのです。京の殿中にあっても余程の貴人でも無い限り、天皇が御簾を上げて自分の姿を曝け出すことはありません。ただでさえ、正成のような一介の豪族を参内させるだけでも、殿中では例外中の例外であるにも関わらず、御簾まであげる破格振り。驚いた正成に更に追い打ちをかけるような事が起ります。

「正成、参内心強く思うぞ!」

と後醍醐天皇ご本人が、上げた御簾の奥から直々に正成に語り掛けたのです。

当時の天皇は、伝奏(でんそう)と言って、絵②の御簾の横に控える公卿(黒服の人)に、天皇が伝えるべき言葉をつぶやくと、その公卿が天皇に成り代わり、参内者(つまり正成)へ伝えるという形が常識でした。
この形をとるには理由があるのです。天皇は万万が一でも、間違ったことを発言してしまうと、後で取り返しのつかない事態となります。これを避けるため、必要に応じて公卿に天皇の言葉をアレンジしてもらう機能であると同時に、貴人と臣民を分け隔てるケジメとして実施していた訳です。

これを取り払い、直接正成に話しかけたのです。


④正成の本拠地:水分(みくまり)
正成は、これらは良い意味で想定外でした。彼は内心「これは凄い!想定以上の天皇だ。この方ならこれから先、運が開けるかもしれない。」と思ったかもしれません。

正成は、嬉しくなりました。

しかし、彼は取り巻きからの「正成、今後どうやって鎌倉幕府軍をやっつける?」という単純ストレートな質問に対し、以下のように回答したと太平記には書かれています。

「一時の合戦の勝敗に一喜一憂されてはいけません。少なくともこの正成が生きている間は、どんなに危機的な状況になろうとも、運は拓けると確信して頂きたい。」

この回答、表層的には、かなりの自信家のように見えます。嬉しくなった正成が調子の良いことを言ったのでしょうか。私は違うと思います。このメッセージは、ちゃんと分かる人には分かるように言っているのです。そのメッセージは以下の通りです。

まず第一に伝えたかったことは

ーこれからの笠置山での戦、負けますが落ち込まないでください。この正成が生きている限り、最後は勝利すると信じれば、絶対に運は拓けます。ー
という不屈の精神で行こう!という気合です。予定通りです。


次に伝えるのは、以下のニュアンスなのですが、これはなかなか分かりづらいと思います。
ー「正成が生きている間は、どんなに危機的な状況になろうとも」とは、この笠置山の危機的な戦で、正成が死ぬような事態となれば、後醍醐天皇の運も閉じてしまうと言う意味です。だから正成は生きるためにこの戦には参加しません。ー

⑤水分(みくまり)にある正成誕生碑
後醍醐天皇らの前で直には言えない言葉だと思います。

しかし、さすがは後醍醐天皇、この正成の言葉だけで、なんら差し出がましいことも言わず、黙って正成を赤坂城のある彼の地元「水分(みくまり)」に帰ることを赦すのです。(地図④写真⑤参照)

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、太平記に記載のある正成の発言だけだと、少々言葉足らずにも感じます。

もしかしたら、以下のような発言もあったのでは?と想像してしまいます。

「まもなく鎌倉幕府軍がこの笠置山を攻めましょう。笠置山が巨岩で出来た天険の地と言えども、この寡兵状態では勝つことは不可能に近いです。ですので落ちるまで時間を稼いで頂きたい。その間に正成は、勝手知ったる我が赤坂城へ戻り、急ぎ軍備を増強し、後醍醐天皇を迎える準備を致しましょう。落城された暁には、是非赤坂城を頼って落ち延びて来てください。」
⑥菊水の紋

◆ ◇ ◆ ◇

2.菊水の紋

参内が終り、赤坂城の軍備を整えるために、屋敷がある「水分(みくまり)」に戻ろうとする正成に後醍醐天皇は1つの旗を下賜(かし)します。(写真⑥

後に有名となる楠木正成の「菊水の紋」がデザインされた旗です。

菊が流水に浮かんでいる図柄ですが、半分の菊の浮揚紋は勿論、皇室を表し、流水は正成の生まれ育った土地「水分」を表しているのです。

「水分」の土地は、名前の通り、この赤坂の土地を流れる水が幾重にも分かれる場所で、この分水嶺を楠木家が押さえることで、この地域の支配権を担っていたのです。

ちなみに、この近くの下赤坂付近は、美しい棚田が有名なのですが、この棚田も、「水分」からの水を上手く使い、美しい景色を織りなしているのです。(写真⑦
⑦下赤坂の棚田

これら楠木家の土地まで調べ、それを紋章にまで反映した旗を下賜されるとは、後醍醐天皇の正成に対する期待度合いの大きさが並々ならぬものであることが良く分かり、正成もかなりの恩を感じたのだと思います。

正成も芸達者ですが、それ以上に人心掌握の観点で、後醍醐天皇は凄いですね。

3.笠置山の戦い(前半)

さて、正成が早々に笠置山での参内を済ませ、退去した直後、75,000の鎌倉幕府軍が笠置山へ到着します。

笠置山は、先に述べました通り、巨岩で出来た堅牢な砦です。(写真⑧
守る将兵は3,000。かなり寡兵ですが、笠置山の堅牢さに幕府軍も簡単には手が出せません。
⑧笠置山は巨岩ばかりの天険の砦
左:御在所近くの巨岩群
右:狭い岩間
そこで幕府軍は、この砦を包囲する作戦に出ます。

⑨笠置山から木津川方面を臨む
包囲して2,3日は両軍ともにらみ合ったまま、特に笠置山山麓の木津川べりでは笠置山への木戸があることから両軍の物見の動きが絶えない状況だったのです。(写真⑨

この均衡は、鎌倉幕府軍の血の気の多い相模の武将・高橋又四郎が破ります。

彼は「こんな宮様のひ弱な烏合の衆が立て籠る砦一つに、鎌倉幕府軍は何を弱腰にも躊躇しているのか!」といきり立っていました。

ある時、彼は木津川べりのこの木戸から幕府軍の目を盗んで、前回お話しした柳生一族が兵糧輸送をしているとの噂を聞いたのです。

早速彼は、この兵糧輸送部隊を襲い、木戸から侵入し火を付け回り、一気に笠置山を落すという作戦を立てました。

功名に逸る高橋又四郎は、300の兵を率い、早暁の両軍が寝静まる間に兵糧輸送部隊を木戸に送り込もうとする柳生播磨守永珍(えいちん:お忘れになられた方は是非、こちら前作をお読みください)の手勢に攻め掛かります。

兵糧輸送部隊は、近隣の農民等にも手伝わせ、大概弱い軍勢というのが常識的です。
しかし、流石は後世に剣豪として名を残す柳生一族、高橋又四郎300は不幸なことにこの柳生一族の返り討ちに合い、更に木戸の中の宮方軍も高橋隊の退路を断ったため、あっという間に全滅しました。

⑩笠置町にあるこの戦を模した人形
左の弓を射ているのが足助次郎
右の大岩を投げているのが本性坊
笠置山の宮方軍は初の凱歌(勝利の歌声)に沸き立ちます。

これで勢いに乗った宮方軍は、幕府軍に対し積極的に動きます。(写真⑩

三河の武将・足助(あすけ)次郎が幕府軍の有力武将を弓で射て取り、般若寺(こちらの拙著Blog参照)の本性坊が、幕府軍の頭上に大岩の雨を降らせ、二度目の凱歌を湧きあがらせるのです。(写真⑩

笠置山の鉄壁の守りに、幕府軍には倦厭ムードが高まります。

ーこんな拳(こぶし)で石を割ろうとするような戦を続けていても勝ち目はない。包囲網を強化して持久戦に持ち込むか。もうすぐ冬。そうなれば宮方軍の食糧輸送にも限界があるー

そんな考えが幕府軍の中に広まります。

実は楠木正成は、この考えで鎌倉幕府軍が冬まで持久戦に持ち込んでくれたらと願っていたに違いありません。先に述べました通り、正成は少しでも笠置山の戦いが長引いてくれて、その間に赤坂城の備えを万全にしておきたかったのですから。

ところが、このような考え方に危惧を持つ武将が幕府軍に居ました。
備中(岡山県)の武将・陶山義高(すやまよしたか)です。

彼はアンテナ高く情報を集めていました。赤坂城への兵糧米の搬入の状況等から楠木一族が旗揚げすることや、十津川郷奥に逃げている護良親王も募兵を行い、日増しに反幕府側の動きが活発化していくことに強い危機感を覚えるのです。

ー持久戦等と悠長なことを言っている場合ではないー

と考え、乾坤一擲の作戦を立てるのです。

◆ ◇ ◆ ◇

長くなりましたので、この後の鎌倉幕府軍の逆襲については、また次回描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

【笠置山後醍醐天皇御在所跡】京都府相楽郡笠置町笠置笠置山
【水分(みくまり)楠木正成公生誕の地】大阪府南河内郡千早赤阪村水分266
【下赤坂の棚田】大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25
【赤坂城址(楠木正成居城)】大阪府南河内郡千早赤阪村桐山
【柳生の里】奈良県奈良市柳生下町216