三増峠の戦いで信玄が風林火山の 旗を立てた「旗立の松」 |
今回は、この戦いを含む、武田信玄の小田原攻めの一連について書きたいと思います。
1.武田軍の関東平野南下
以前、私は北条氏康の初陣を取り上げたブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で、氏康をカメだ!と言いました。それは彼の幼少期の過ごし方が、実は現代のひきこもりに近かったからです。しかし、彼の欠点に見えたこの性格が、逆に北条五代の中で、一番強い北条軍を「籠城作戦」という、カメが甲羅にひきこもるような戦い方で形成していきます。
氏康は、弱みを強みに転換できた成功者だと思います。
氏康以来、北条家の戦い方はカメ、つまり自分と同格以上の敵に攻められると、小田原城という甲羅にひきこもる というDNAが受け継がれたのですね。
自身の城を作らず、「攻撃は最大の防御」と、戦は必ず出て行ってしていた武田信玄とは、180度違う訳です。
勿論、武田信玄は、そんな氏康の戦い方等、とうにお見通しです。
武田軍の小田原攻めルート図 |
信玄は、わざわざ領内を北上して、佐久から今の軽井沢を通り、碓氷峠を超えて、北条の領地に関東の北側から入ります。
そして、長々と南下する進軍ルートを取っています。
これは、北条が直ぐに城に籠って戦おうとする癖を武田軍は良く分かっているため、北条領内をなるべく長い距離進軍することによって、北条氏康本体を小田原から引っ張り出し、どこか城外にて決定的な打撃を与えられるような戦がしたかったのだろうと私は想像しています。
このような自分達を「餌」にした誘き出し作戦は信玄の得意なところであり、最大の成功例は、徳川家康を浜松城から引き出し、三方原で大勝した「三方原の戦い」ですね。
これをこの小田原攻めの進軍中にやりたかったのだと思います。
鉢形城の空堀 |
1番上の子が氏政、次が氏照、3番目が氏邦です。この3人の息子+氏康が今回の信玄の戦相手です。
まず、信玄は、氏邦から嚙みつきます。
2.鉢形城包囲(小田原攻め①)
氏邦は、北条の北関東最大の拠点、鉢形城の城主です。この城、兎に角、断崖上の天然の要害に立地しているため、非常に堅固ですし、歩き回るのに疲れ切る位、大きい城郭です。
鉢形城本丸から荒川越しに寄居方面の臨む (こちら方面はかなり堅固) |
鉢形城へ攻撃を仕掛けるも、固いカメの甲羅のように、びくともしません。鉢形城も北条軍第1級の城です。
武田軍は、ゆるゆると囲みを解き、この城をけん制しつつも、主力軍は、また関東を南下して行きます。
3.滝山城攻撃(小田原攻め②)
次のターゲットは、八王子にある滝山城です。
また脱線しますが、この滝山城侵攻については、以前拙著のブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」にも詳細書きましたので、参考にしていただければ幸いです。
この城は、2番目の息子、北条氏照が守る城であり、鉢形城程の規模はありませんが、中はギュッと密度の高い防御力を持つ平城です。
滝山城から信玄が陣を敷いていた拝島方面を臨む (滝山城から北東側) |
何としても氏康を小田原から引っ張り出したいのですから、同じ戦法では見くびられます。
この平城、北側ならびに東側に対しては、非常に堅固に作られた城です。ところが、南側、西側については、意外と脆いです。これは、信玄でなくても、皆さん実際に城跡に行かれると良くわかります。
右上の写真は滝山城址から北側を臨んだところです。高さがあって強固な感じが分かります。
城の西側は八王子の高尾山や小仏峠、陣馬山等の山々が連なっており、これらの山々を超えて、この城に攻め入ることはあり得ないという想定なのでしょう。
ちなみに信玄は、右上の写真の上の方、拝島というところに陣を張り、滝山城とにらみ合います。これは滝山城側としては想定内の布陣です。
滝山城攻防戦 |
信玄は、両軍多摩川を挟んでにらみ合っている最中、今の、大月市に拠点を置く部下である小山田信茂に下知して、1千人の軍に小仏峠を越えさせ、滝山城を南西側から急襲させます。(右図)
これは滝山城にとっては、想定外です。何せ小仏峠から大軍は攻めてこないとの前提なのですから。
滝山城の守備兵は2千人ですが、得意のカメ戦法が崩されそうです。そこで慌てて一部を迎撃に出して、今の高尾駅の辺りで、小山田隊と戦をしますが、あえなく敗退(廿里の戦い)。小山田隊の進撃を食い止めることが出来ません。
小山田氏の領地は、滝山城と隣り合わせなので、この城について調べ尽くしているでしょう。そのまま滝山城の弱点である西南から押し寄せ、一気呵成に攻めます。
信玄の小田原攻めの反省から北条氏が 造った八王子城 |
正面に武田軍2万が構えていますし、滝山城は、甲羅を叩き割られました。
落城寸前まで来ます。北条氏照切腹か?それとも2千の兵力で、正面の10倍の武田軍に向かって討死するか?
ところが、信玄は、急に攻撃を止め、兵を纏めてまた南下を始めます。
彼の今回の目的が、北条氏康の息子の誰かを討ち取ることでも、滝山城を奪取することでも無く、圧倒的軍の強さの違いが示せれば目的達成なのですから。
氏照を窮地に追い込めば、氏康が小田原を出てくるかと思いきや、やはり出てこないこと、また滝山城を取ってしまっても、その後、この城を北条から守り、武田が維持していくには、小田原からの距離が近すぎること等が、最後まで攻め切らない理由なのでしょう。
流石、武田信玄ですね。大人の余裕を感じます。
小田原城 |
4.小田原城包囲(小田原攻め③)
さて、滝山城攻城以降、小田原までは武田軍を2つに分けます。
1つは相模川沿いを真っ直ぐ南下して、小田原城へ入る本隊と、もう1つは、世田谷方面経由で、新横浜の小机城、大船の玉縄城にちょっかいを出しつつ、鎌倉経由で相模湾沿いに小田原に来る隊です。
信玄も、滝山城が落ちそうになっても出てこない氏康が、決戦に出てくることは、そろそろ諦めかけていたのかも知れません。
しかし、もしかしたら兵力を2つに分けて、小机城や玉縄城等、北条屈指の名城を攻撃すれば、武田軍分散による弱体化を見込んで、氏康が出て来るかも。と思ったのですかね。
しかし、最強のカメである氏康は頑として出て来ません。氏政と小田原城に籠ります。
彼らは彼らで、上杉謙信が、武田軍の5倍の兵力(10万)で、この小田原城を、9年前に包囲した戦を経験しており、10か月にも及ぶ攻撃にも耐えたという自信もあるのでしょう。
信玄もその時には、例の三国同盟の誼で、援軍を氏康に送ったくらいですから、小田原城籠城がどれ位強固なものなのか充分分かっています。
黄色い部分が小田原城総構えの内部 |
上杉軍のように何か月も包囲せず、たった3日で城下に火を放ち、引き揚げています。
ただ小田原城も、この時の包囲での城下町防御の必要性を改めて感じたことから、城の総構え(城下町も含めて、空堀や、盛り土等の障壁で守る構築物)を9kmにもします。これは大阪城の総構えよりも大きく、日本で一番の大きさです。(右写真)
5.小田原攻め最後の信玄の読み
さて、信玄は、今回の小田原攻めで、空しく小田原城を後にして、自国甲斐へ引き揚げるのでしょうか?
いえいえ、それは違うと私は思います。
今も残る総構えの遺構の一部 |
信玄は、ちゃんと小田原攻めへの往路に、仕掛けを作っておいたのです。
彼としては、氏康がカメ戦法で来ることは、上杉軍の9年前の戦等から想定内のことだったと思います。
しかし、信玄は、その時の戦を分析し、今回の小田原攻めでは、氏康の息子の氏照、氏邦の性格を使うことを考えていたのではないでしょうか。彼は、そういう人間性を上手く使うことにも非常に長けていますから。
息子たちは氏康程の堪え性は在りません。若いですから。
氏照は落城寸前までの辛酸をなめさせられていますし、氏邦だって、包囲されて手も出せなかったのですから、悔しいには違いありません。
「信玄、小田原から撤退!」
これを聞いた氏康の息子2人は、「すわっ!小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵糧も尽きかけて、冬になる前に慌てて甲斐の国へ逃げていく!これはチャンス!」と思ったことでしょう。
そして、甲斐の本国に引き上げる前に、一矢報いたいと2人は、思う訳です。
しかし、こう思うように信玄は、彼らを往路にて叩いておいたのです。
武田軍の撤退ルート図 |
氏照・氏邦は、武田軍を迎え撃つために、帰路の途中にある三増峠に布陣して待ちます。
彼らのバックヤードには、やはり武田領との国境にある津久井城(この当時は築井城)があります。(右図)
峠があるような戦は、山岳戦と言います。標高が高いところを取った方が有利なのです。
なので、北条軍は武田軍が来る前に、三増峠に布陣し、高いところを取って待っているのです。
はじめて北条軍がカメ戦法のような籠城戦から切り替え、野戦に出てきた訳です。
そして、父親の氏康にも小田原城からの出撃を要請します。撤退する武田軍を自分達と追撃する氏康・氏政軍で挟み撃ちにしようと提案する訳です。
氏康は、「馬鹿息子め!なんで、信玄坊主の罠にまんまと乗るのだ!」と、叫んだかもしれません。
しかし、放っておけば、今度こそ、氏照・氏邦は危ないです。ですので、とうとう氏康も出陣します。
この北条親子が次々に城という甲羅を脱ぎ捨て野戦に出てくる状況を見て、信玄はニヤッとします。
「フフ、思った通り、やっと出て来おったわ。」
すみません。また長くなりすぎましたので、三増峠の戦い自体は次のシリーズにて書かさせてください。それでは。
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