三増峠の戦いをレポートしたいと思います。
武田信玄や、北条氏康の大ファンであれば、良くご存じの大変有名な大戦(おおいくさ)ですね。
戦死者の数が、4000人も出た戦は、山岳戦では、トップクラスに大きいと思われます。
それと、この戦(いくさ)を取り上げたかったのは、実は武田信玄は、この戦をしたくて、わざわざ軽井沢方面から関東を南下縦断して、小田原攻めをしたのではないかと私は思っているからです。
50歳の老練な信玄公の、関東の雄である北条氏へ見せつけた知略と山岳戦の上手さ!
まず、この戦にいたる背景を説明します。
【※写真はクリックすると拡大します。】
右の図を見て下さい。上段の勢力図にあって、下段に無いのが「今川家」です。そう、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で信長に殺されてから10年後の勢力図には、今川領である静岡県は、武田家と徳川家の版図に塗り替えられているのです。
実は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、駿河の今川義元との間で、桶狭間の6年前である1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始した訳ですが、桶狭間で討ち取られてしまうという失態を犯した訳です。
単なる約定の交換だけでなく、右下の図のように、自分達の嫡子の処に、娘を嫁がせるという政略結婚付です。このように単なる紙切れの約束にしておかないことで、強固な約定となる訳ですが、信玄も氏康も自分の息子や娘が、この同盟が破られるとき、こんなになってしまう、代償の大きさがここまでとは思っていなかったでしょうね。後で詳細をお話します。
今川義元の息子は氏真ですが、これは暗愚で、蹴鞠だけ、やたらと上手いがそれ以外はダメという人物だったらしく、人心は離れます。
一方、「敵に塩を送る」(上杉謙信が武田信玄に塩を送った)の話で、海が無い武田領は有名で、信玄は海がある土地に版図を拡大するのが夢でした。
桶狭間での今川の失態は、信玄が駿河を手中にして、海に出る千載一遇の好機です。早速彼は、駿河侵攻の計画を進めようとします。
2.駿河侵攻
当然、そうなると信玄は、三国同盟を破棄することになるのですが、これに大反対するのは、長男の武田義信です。そう、右図にあるように、この同盟で、彼は今川義元の娘を妻として迎え入れているのです。当然彼は駿河侵攻による今川撃滅に大反対します。同盟破棄の障壁第1弾です。
この義信、名前にも「義」があるように、義に篤く、かなり優秀かつ人望のある人物だったらしく、彼が駿河侵攻反対を強く主張すればするほど、信玄は慌てます。それは信玄がかつて、自分の父親である信虎を国外追放したように、下手をすれば自分も義信により国外追放となる、そこまで行かなくても、強固な武田軍団が2つに割れてしまう。
義信が幽閉されていた東光寺(甲府市) |
父親を追放してでも、優秀な嫡男を殺してでも、やりたいことをやる。極悪非道の信玄と、謙信は揶揄します。「人は石垣、人は城」と家臣、人民に情が厚い信玄は、その代わりというか、肉親には厳しかったようですね。
そして、信玄は徳川家康と共謀し、駿河侵攻に着手します。
予想通り、今川氏真は、ほぼ総崩れです。駿府(静岡市)からほうほうの体で、掛川へ逃げていきます。
ここで同盟破棄の障壁第2弾が発生します。
「戦国無双」で描かれる早川殿 (後ろは父親の北条氏康) |
彼女は、この時今川氏真に従い、掛川へ逃げたのですが、乗り物も用意できず、徒歩で、ボロボロになって逃れたと言います。
これを聞いて怒ったのは、北条氏康です。そりゃそうです、大事な可愛い娘が大変なことになったのですから。同じ娘を持つ父親として共感出来ます。(`A´)
当然、怒りの矛先は信玄に向かう訳です。
さてその後、色々と北条は武田軍の駿河侵攻が上手く行かないよう妨害をします。長くなるので詳細は、後日別シリーズのブログに譲りますが、それらの妨害に会いながらも、結果的には戦国大名としての今川家を滅ぼし、信玄の思ったようになっていくのです。
武田水軍 (信松院蔵) |
3.信玄の小田原攻め
さて、今川家は崩壊しましたが、この駿河侵攻において、北条の数々の妨害策に煮え湯を飲まされた信玄も、このまま黙って北条を野放しには出来ません。特に北条はこの三国同盟が無くなってから、上杉謙信と約定を結び、連携して武田の国境を脅かす危険性が高まってきました。
そこで信玄は、北条軍に釘を刺しに行くことを決意します。
信玄としては、駿河を手中に収めることは、単に海に出たかったということもありますが、西上し、上洛を果たすためにも、東海道上にあるこの駿河を押えておきたかったのでしょう。海上輸送による上洛軍援護のための水軍を編成させたことからも、このことは明らかです。
ということは、信玄が上洛する最中に、北条軍が自分の領土の東側から攻めてこられては困るのです。背中から襲われる形になりますので。
したがって、一度、北条軍には武田軍の底力を知って、武田軍を畏れて貰う必要があると考えたのでしょう。
そこで、北条氏の版図内にて、武田軍の示威軍事行動を起こすのです。
この行動の詳細と、三増峠の戦いにおける両軍の勝敗については、長くなりますので次のシリーズにて書きたいと思います。
4.東光寺の紅葉
余談ですが、武田信玄の嫡男、義信が廃嫡された後、幽閉され亡くなった東光寺に行ってきました。
前にも書きましたが、義信は義に篤く、勇に優れた男だったらしく、この駿河侵攻についても、義を通しただけと考えているのでしょう。「もしも」は歴史の禁句ではありますが、武田家が武田勝頼では無くて義信が継いでいたら、また違う大きな歴史の流れの変化があったかもしれません。
しかし、時代はこのような重要な人物であっても、メインストリームから外れると忘れてしまうものなのですね。彼が幽閉された東光寺に行ってつくづく感じました。
紅葉の綺麗なこの季節、東光寺の前の昇仙峡に向かう国道は大渋滞でしたが、義信のこの東光寺には、私以外誰一人居ませんでした。
しかし、義信は、来訪してきた小生ごときにも、写真のように、京都の寺院にも勝るとも劣らない美しい紅葉の庭園を見せてくれました。(写真はクリックすると拡大します。)
それはまさに来訪に対する返礼をしてくれる「義に篤い」男にふさわしい美しい紅葉だと感心しました。
【三増峠古戦場碑】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631
【東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37