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月曜日

日本で最初にパンを焼いた?~江川邸と韮山反射炉~

①大河ドラマ「篤姫」にも使われた江川邸の門
最近長いBlogばかり書いて、ちょっと食傷気味になってきましたので、今回は短いエピソードを書いてみたいと思います。

皆さんは、最初に西洋に習ってパンを焼いたのはどの土地だと思いますか?

実は伊豆なのです。

私はつい最近まで神戸だと思っていました。昔の記録を見ると、西洋人が来日した戦国時代から、パンを食した記録はあるようですが、初めて日本で作ったのは、結構最近の事のようです。

金平糖やカステラ等は江戸時代もあったのですから、ちょっと不思議な気がします。

最初が幕末、しかも伊豆というのが意外です。

1.江川邸に関する考察

「篤姫」撮影中は島津今和泉家に変身!
韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)という大代官殿が最初にこの地、伊豆は韮山の屋敷で焼いたことに始まるようです。

写真①が今も残るその屋敷の門ですが、この門、覚えている人は少ないかもしれませんが、かつての大河ドラマ「篤姫」の撮影で、篤姫の実家今和泉島津家の屋敷として、撮影に使われたのだそうです。

手前の砂利敷の前に嫁ぐ前の篤姫の駕籠が置かれて、門をくぐって出てくる篤姫こと宮崎あおいさんの一場面が思い出されます。(写真②

《2018年追記》
このBlogを書いたのは2013年であり、大河ドラマ「篤姫」を放映したのは2008年です。放映から10年後の2018年の「西郷どん」の撮影でも、この江川邸が再び使われています。NHKは薩摩屋敷としてここを使うことに決めたのでしょうか(笑)?(写真③
こう考えたのは、実は幕末の島津家とこの伊豆の代官江川氏とは、詳細は後述しますが、気質的に非常に似通っています。この気質の共通性が、NHKをして「島津家を撮影するとこには伊豆の江川邸を使え!」ということになったのかなあと考えた次第です(笑)。

本題に戻りますが、この江川太郎左衛門さんは、当時としてはかなり先進的な活動家のようで、色々なものの発明、工夫をしております。 
③2018年の「西郷どん」の撮影もここ

ただ、一貫しているのは、全て軍事力強化、富国強兵の基となることばかりで、この時代、まさに坂の上の雲を目指した国士の代表のような方ですね!

 この江川邸を入ると、庭に種々の樹木があります。その中に、パン祖の碑があります。(写真④

2.江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)

何故、伊豆の一地方の代官がパンを焼く気になったのでしょうか?と、同行してくださった説明員の方にこの質問を投げかけましたところ、以下のような回答が返ってきました。

「そもそも、伊豆は海岸線に囲まれ、昔から間宮氏等の北条水軍に代表されるように、海防に関して、熱心な土地なのです。
幕末の頃になると伊豆半島沖に、捕鯨のため黒潮に乗って外国船がちらほらみられるようになりました。日本で外国船の接近が見られる場所はそんなに多くなく、これが黒船来航に先んじてこの土地の人々の危機意識を煽るようになったのです。
④江川邸の庭にある「パン祖の碑」
それらが、この江川家でも早くから啓蒙的な人物が育成される仕組みとなり、ひいてはパンを焼く程に、西洋技術の吸収に勤しむことになったのです。」

思えば、薩摩もその領内は黒潮に洗われていますね。薩摩藩もこの伊豆に似て、海防にはことの他先んじ、島津斉彬が西洋技術の吸収に熱心で、日本最初の蒸気船・雲行丸を作ったのは有名です。(詳細はこちらをクリック

この共通性が島津の撮影に江川邸が使われる理由の根底にあるのではないかと考えたのです。

江川太郎左衛門英龍は、代々続く江川太郎左衛門という伊豆代官の中でもかなり勉強熱心かつ行動的な人物でした。彼の業績を以下に列挙します。

(1)西洋式砲術の研究と訓練を行い、江川邸には佐久間象山、大鳥圭介橋本左内、桂小五郎等が彼の門下で学んでいます。

(2)この砲術研究を元に、危機意識を持って、最初は下田、後に韮山に製鉄、大砲など武器を鋳造するための反射炉を作りました。

(3)また、ここで作られた大砲を持って、江戸のお台場による江戸湾警護の基を作りました。(詳細はこちらをクリック

(4)幕府に対して沿岸防備の建議を行い、お台場の設計までしました。(詳細はこちらをクリック

⑤江川太郎左衛門英龍肖像
(5)ロシアが日露和親条約締結時に乗船して来たディアナ号が下田津波に遭い、大破したものを自領伊豆は戸田(へだ)村へ回航し修繕する大支援を行い、日露和親条約締結へ大きな貢献をした。(詳細はこちらをクリック

幕末、特に黒船来航から日米修好通商条約までの彼の活躍ぶりは凄まじいものがあると思います。

彼は、理系的な匂いのする人だなと思いました。

というのは、この幕末にありがちな、「佐幕派」とか「攘夷派」などの政治的偏りがあまり感じられず、兎に角欧米に対して理系的技術で対抗しようとすることに最大のエネルギーを注いでいるように見えるからです。

昔で言う処の、ノンポリながらも、幕末にとって彼抜きでは議論できないくらい日本史に貢献しちゃった人なのです。

ただ、単なる理系専科ではなく、坦庵(たんあん)なんて号も持っており、絵等も素晴らしい才を持っています。

絵⑤の肖像画を見てください。当時の日本人には珍しく、目玉がやたら大きくないですか?(絵⑤
⑥英龍の息子・英敏の写真

かなり出来そうなお顔ですね。実はこの聡明に見える目の大きなことは息子の江川太郎左衛門英敏(ひでとし)にも遺伝的に引き継がれているようです。彼の写真があります。(写真⑥

英敏も、この時代の日本人としてはかなり目が大きいですよね(笑)。

3.パンを焼いたのは酔狂ではない

さて、肝心のパンです。

もう皆さんお分かりでしょうが、パンは西洋式兵術を勉強している時に導入したものの一つだそうです。

昔から、日本には携帯式の食料として、糒(ほしいい:炊いた後の米を乾燥させたもの)がありましたが、食べるためには、火を起こして自炊する方式には変わりなく、それだとどうしても煙が立つため、敵に居場所や行動について教えてしまうという欠点がありました。

戦国時代の第4次川中島の戦いで、妻女山に入った上杉謙信は、松代の海津城に上がる武田信玄の軍の炊飯の煙の多さで、「今夜、武田軍が動く!」と判断し、信玄の作戦の裏を斯いたのは有名な話です。このほど左様に飯炊き煙は戦の癌となってしまうのです(笑)。

この欠点を克服するのに、西洋のパンは、煙を立てない、かつ軽量なので、軍事活動には一番良いと考え、吸収すべき重要な西洋技術の一つとしたのでしょう。

⑦日本初パン焼き道具
このような経緯で出来たパンですから、我々が普段食すようなふわふわに柔らかいようなパンではなく、兵糧として長持ちすることを主眼に置いたパンを江川氏は焼いたので、超乾パンです(笑)。

写真⑦が当時はじめてパンを焼いた時に使った窯石と鉄鍋だそうです。窯石は伊豆石で出来ているとの記述がありました。

伊豆石は、火成岩である安山岩系で出来ています。

これは伊豆が写真⑧のように富士火山帯に属していることに関係が深いのです。(写真⑧

安山岩はこのような火山活動により出来たものであることから、高い耐火性を持ち、また熱を含み遠赤外線を出しやすいので、パンを焼くには適しているのです。

話は逸れますが、我が家の近くにPrologeという美味しいパン屋さんがあります。

ここの窯は富士山の溶岩でできているのが一つの売りです。

⑧富士火山帯
※伊豆半島はすっぽり入ります
安山岩系の伊豆石が、この日本初のパンを焼く道具に使われたのは、耐火性に優れているという理由だけでなく、やはり伊豆石は切りだしや加工が楽なのです。(安山岩系は綺麗に縦に割れやすい特徴を持ちます。)

反対に溶岩はご存知のように加工は大変です。

ただ、加工さえ出来れば、溶岩で出来た窯は、伊豆石等よりも、更に高温で、かつ遠赤外線を多分に放出しやすくなるため、更に美味しく焼けるようなのです。

伊豆石がどれ程美味しく焼けるのかは、よく分かりませんが、この辺りも富士山の溶岩は沢山ありますから、頑張ってそれで作れば更に美味しかったのではないかと・・・(笑)。

さらに、最近はホームベーカリーが発達していて、家庭でも柔らかくてフワフワのパンを、この写真の何分の一の小さな家電で作れてしまいますね。

⑨韮山反射炉
それも全自動で、夜寝る前にセットしておけば、夜中に捏ねて、イースト菌で発酵させて、焼いて、朝には美味しいパンが出来ている。たかだかこの時代から150年しか経っていないのに、全く技術の進歩というのは凄まじい限りですね。まあ、戦争道具に関しては、更にスゴイ進歩ですけど・・・

さて、この最初に作ったパン、味の方は?というと、ベーカリー程ではないだろうとお思いになりますでしょう?

実は当時のパンを食べることが出来ました。(勿論、再現ですが)

このパン祖である江川さんの一番有名な事業は「反射炉(銑鉄を溶かし、鋳型に流し込む溶鉱炉みたいなもの)を作ったこと」ですね。

この邸宅の近くに、その「韮山反射炉」があります。(写真⑨

話は逸れますが、韮山反射炉についてお話させてください。

4.世界遺産を目指す韮山反射炉

現在、この韮山反射炉の史跡は、世界遺産への登録目指して頑張っています。

⑩レインボーブリッジ下にある第6台場跡
沢山のご説明の方がボランティアなさっております。上記の江川邸もこの韮山反射炉とセットで世界遺産登録を目指す方々がボランティアをなさっていらっしゃいます。
(写真①で水色のTシャツを着ていらっしゃる方がボランティアの説明員の方です。)

反射炉の何が凄いか。簡単に説明します。

黒船が来航した時に日本が持っていた大砲は殆どが青銅式でした。まあ、お寺の鐘を見れば分かると思いますが、あのような材質でしか大きな鋳造物を作る技術を持ち合わせていなかったのですね。

そこに黒船が持ってきた鉄の大きな大砲。飛距離も違えば、連射できる耐久性も全然違うものでした。

そこで、島津斉彬公鍋島閑叟公 をはじめとする、偉い方々が居て、これではいかんと鉄で大型の鋳造物を作ろうと西洋技術を勉強し、色々と自作したのです。

⑪第3台場にある砲台跡
※この辺りは、大砲だけでなく、蒸気船を造るための蒸気釜も同じことが言えます。青銅による鋳造技術だけではダメなのです。銑鉄による密閉度が高い鋳造物が出来ないと蒸気が漏れてしまう。上記2名はこの蒸気釜の開発にも腐心し、日本初の蒸気船を造ったことは、拙著Blogのこちらにも描いた通りです。

その鉄による大型鋳造物を造るための手段がこの反射炉でした。

当時の薩摩や肥後にも反射炉はあったようですし、この反射炉自体、最初は下田で構築が進んでいました。

下田が開港し、ハリスが総領事館を構えたので、こちら韮山に持ってきたとのことです。他の場所の反射炉は全て無くなってしまい、現存するのはこの韮山だけということだそうです。

何故反射炉と言うのか?それは銑鉄を溶かすのに、組んだ煉瓦の中が熱を反射するような構造にしたことにあるようです。

ということで、この反射炉で作った大砲は、あのレインボーブリッジのあるお台場の砲台に据え付けられていたとの事です。(写真⑩写真⑪

鉄の大砲が日本には無い!との危機意識で作った反射炉ですが、その後、日本の八幡製鉄所へその技術はトランスファーされ、「鉄は国家なり!」と国の基となった発祥なのですから、世界遺産登録されてもおかしくないと思います。
⑫反射炉で売っている
最初に焼いたパン

特に生糸により、明治政府のお財布を作ったことによる功績で、富岡製糸工場跡が世界遺産に登録されるのであれば、韮山反射炉も同じような歴史的意義があると思います。

という意見を説明員の方に述べましたところ、大変喜んでくれました。頑張れ!韮山反射炉!
※韮山反射炉はこの記事公開の2年後に無事世界遺産登録されました!

5.最初に焼いたパンの味

さて、肝心のパンですが、多分、観光客が江川邸より、韮山反射炉の方が集まるからですかね?こちら反射炉脇の売店にて売っていました。(写真⑫

写真⑬を見ての通り、かなり平たいです。かつカチコチです。(写真⑬

酵母使ってないのでは?と思うくらい硬いです。歯が悪い人は、かぶりつくのは、お止めになった方が歯の為です。

これでは、やはり現在と同じ様なふわふわパンの発祥は、その後の神戸と言った方が分かりやすいかも知れないなと思いつつも、丸々一個食べて分かった良い点があります。

一個で、普通のパン3個分位の満腹感があります。これは、携帯用食料としては大事な要素です。

やたら体積を取るパンは、持ち運びに不便です。これ位実が詰まっている方が、少ない量で、多くのエネルギーを取れるので、戦時には多いに役に立ちます。

いずれにせよ、やはり江川邸で焼いたパンは酔狂でも何でもなく、兵糧研究目的のためのためだけの非常に生真面目なものであることが良く分かりました。

ただ、実はかなり美味しいです。塩味が上手く効いており、食べ応えがあります。

当時の携帯食料としての完成度はかなりあるのではないでしょうか?

⑬パンはふくらましが少なくお饅頭のよう
これは今盛んに言われる常備すべき非常食として使えると思い、沢山買ってしまいました(笑)。

これを機会に、次はお台場砲台跡にも行って見たいと思います。
※実際にこの後、行きました(詳細はこちら


全然短くなくて申し訳ございません!完読ありがとうございました。