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木曜日

小机城③ ~支城 茅ヶ崎城址~

後北条時代の主要城郭
久しぶりの更新です。今回は近場の茅ヶ崎城址を紹介します。

【※写真はクリックすると拡大します。】

1.関東の根城(一部)と支城

以前、このブログで小机城を紹介いたしました。太田道灌に攻められた小机城も、後北条の時代になると、かなりの規模の根城として活用されたようです。

大体、太田道灌から後北条に掛けての規模の大きな城をマッピングすると、左図のようになります。(多分に私の独断が入っています)

ことに私の周りだけを見ると多摩川以北は江戸城、多摩川以南、大岡川辺りまでは小机城、大岡川から江ノ島、境川あたりまでが玉縄城と言ったところが、後北条氏の根城と言ったところでしょうか?

今回ご紹介する茅ヶ崎城は、この中の小机城の支城の一つです。

茅ヶ崎城概要
しかし、関東はやはり城が多いですね。多分、坂東武者の発祥地だったことや、まあ、ちょっとした屋敷でも土塁を作り、割り堀を作り等して多少なりとも武家としての屋敷構えをしたところで、何代も代替わりすれば、一応の城とされたのではないかと思われるくらいです。

この茅ヶ崎城址も、そんな中の一つかと思われます。

2.茅ヶ崎城概要

城主は良く分かっておりません。後北条の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。後北条が滅亡した時に、廃城になった模様です。

先に述べたように、支城レベルだと多すぎますからね。結局上記の主要な城と言っても江戸時代に残っていたのは、江戸城と小田原城位です。あとは一国一城令で廃城です。

東郭から北郭を望む
ただ、遺構が良く残っている、というかかなり横浜市がお金を掛けて整備したようですね。
ここは近くに横浜市歴史博物館(通称歴博)もあり、横浜市の小学生が歴史の勉強に来ます。縄文、弥生時代の大塚遺跡もあるので、この辺り一帯、歴史の実物の宝庫なのでしょう。先生方にやる気があれば、このお城でもって、中世の日本のお城まで説明できてしまう。素晴らしい歴史教本の場所です。

と思ってきたのですが、残念ながら、写真のように草茫々で、とても歴史説明で沢山の生徒さんが来ている雰囲気はありませんでした。

さて、このお城もう少し詳しく見て行きます。

茅ヶ崎城は、鶴見川の支流の一つ早渕川沿いにあります。 この川は以前このマイナー史跡のシリーズ「荏子田横穴(かんかん穴)」でも取り上げましたが、は私の家の近くを源流に流れる川ですが、昔は神奈川湊(横浜市神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつで、国府が重要な役割を果たした平安時代からの要道だったことが分かります。

中郭の土塁
(下の道が中郭~西郭間の割堀なのだろう)
また、鎌倉時代からは、以前本シリーズ「驚神社」のところでお話しました名馬の牧場「石川牧」の鎌倉側への出入口に位置します。
また、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)が通じており、非常に重要な交通拠点だったことが、ここに支城を設置する大きな要因だったことは確かなようです。

茅ヶ崎城の最高所に高さ8m程の櫓を設置すれば、約3.5km先の小机城を望むことができたそうです。

「笹山城と鎌倉街道」でも書きましたが、横浜市港南区にある笹山城はやはり玉縄城の支城で、鎌倉街道沿いに玉縄城まで約4km程度であったことを考えると、この頃の築城というか支城を含めた城塞群についての設置基準みたいなものがあるような気がします。

両城とも街道を敵軍が通るようでしたら、牽制すると同時に、狼煙で根城に連絡するとか、早馬を走らせて知らせる等の伝令的な役割が果たせますね。そういう基準で支城を設置している可能性は非常に高いと想像できます。

3.虎口(小口 こぐち)
中郭から北郭虎口へ向かう(勾配きつい)

先にも述べました通り、遺構は非常に良く残っています。

土塁、土橋は勿論、虎口(小口)と言って、いざという時に直ぐに封鎖できるように、また敵が侵入しにくいように、できるだけ城の出入り口の幅を狭くしている箇所と想定されている箇所まで残っていました。

特に「横矢」という侵入しようとする敵に横から矢を射掛けるための構造や屈曲した堀などの「折邪(おりひずみ)と呼ばれる構造が見受けられます。

まあ、この辺りの構造は、この中世の城としては典型的ですね。

4.根小屋について

この茅ヶ崎城の一つの特徴として、根小屋があります。
昭和50年頃の茅ヶ崎城周辺

茅ヶ崎城概要の写真で黄色くハッチングされた箇所がその部分なのですが、城下町というものがまだ無い時代の、城主や重臣達の居住区のことですが、この時代の城主は普段は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、いざ戦となった時にのみ、城に籠ったようです。

その場所がハッチング部分であり、今も一般の方の居住区になっていますが、左の写真のように、昭和50年代の頃の方が良く分かります。

写真上、北側に流れる早渕川以外は基本、田圃であり、居住区は、まさに茅ヶ崎城の根小屋の辺りだけになっています。

建築物は勿論違えど、茅ヶ崎城が後北条の支城として活躍した時代も、お城の遠景は、このように田圃に浮かぶ一環濠集落のようなものであったのではないかと想像できます。

逆に、この写真から私が想像したのは、この頃の支城の類は、大体このように、田畑を耕す農民の環濠集落的なものから発展して、城となったのではないか?ということです。

今後、このような観点でも、中世の城郭について調べて行きたいと思います。
正覚寺

5.蛇足ですが・・・

遺構が良く残っている茅ヶ崎城に是非一度訪問してください。

ちなみに、近くに正覚寺という落ち着いたお寺があります。私が茅ヶ崎城址を訪ねた時には、このお寺の駐車場に止めさせて頂き、凄く綺麗なここの紫陽花や菖蒲を見た後、城址を散策しました。

正覚寺の紫陽花や菖蒲
茅ヶ崎城址より、こちらのお寺の庭園の方が人気があるらしく、沢山のシニアの方々が、一眼レフを構えて、この静謐な境内の花々をファインダーに収めていました。

もしお時間があれば、こちらのお寺も是非どうぞ!

それでは今回はこのあたりで。

【茅ヶ崎城址】神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎東2丁目25