①レジスタンス活動勢力図 |
自分のベースを再び確保したことで、吉野の護良親王を中心とし、播磨(兵庫県)の赤松円心、阿波(徳島県)の岩松経家らと共に、関西と瀬戸内海を中心とする鎌倉幕府に対するレジスタンス活動を再開します。(地図①)
レジスタンス活動の励振が徐々に大きくなれば、隠岐に流されている後醍醐天皇の救済が図られ、最後は鎌倉幕府を転覆することが出来ると考えているのです。
では、その構想に向けて再開した楠木正成の活動を見ていきたいと思います。
1.四天王寺への軍の進出
鎌倉幕府の湯浅党によりリニューアルされた赤坂城を奪還した正成は、守る赤坂城の城機能を最大限となるよう調整を始めます。ちなみに、上赤坂城、下赤坂城という2つの赤坂城に加えて、この頃から千早城の構築にも取り掛かります。(地図②)
②正成は水分(みくまり)に千早城を構築開始 また今回、四天王寺へ出兵 |
これは北側から迫りくる幕府軍に対し、要塞増による防衛力向上も目的ではありますが、それ以外に上・下赤坂城と背後にある金剛山~吉野との連絡を密にし、幕府軍に背後を取られて落城しないための工夫でもあるのです。
前回の1か月足らずでの落城に反省した楠木軍。要塞化を強化するだけでなく、これらを運用するための大規模な調達に動きます。この調達に必要な場所が難波の四天王寺です。
ここで2つのモノを調達します。
1つは、大量の食糧です。河内の水分(みくまり)あたりだけの米調達では、前回と同様に不足します。兵力にもよりますが、1か月程度しか籠城は持たないかもしれません。
そこで正成は、河内とは規模が違う肥沃な土地・淀川流域での調達を四天王寺に周旋してもらいます。
難波のこの辺りは、後年江戸時代に堂島が米の取引所になったように、淀川を使い、米が集積しやすい場所だったのです。そこに目を付けました。
2つ目は、兵の確保です。笠置山や赤坂城の陥落、果ては後醍醐天皇の配流を見ていながらも、全国から反・鎌倉幕府、反・北条一族体制の武者たちが、四天王寺に流れ込んでいるのです。
聖徳太子が造った四天王寺はこの難波の低地に住む貧人たちに対する難民救済寺でした。(四天王寺自体は氾濫の影響が少ないように台地の上に作られました)(写真③)
③四天王寺(あべのハルカスから撮影) |
Post from RICOH THETA. #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
④四天王寺 中心伽藍
※「⊕」をしばらく押してください。回転は止まり
弯曲していない自然な感じの360度写真になります
※「⊕」をしばらく押してください。回転は止まり
弯曲していない自然な感じの360度写真になります
アメリカでは、キリスト教の教会が無料で仕出しをして、難民化している人たちの救済活動をするのが有名です。これと同じような活動が、この頃も続けられていたとすれば、当初、笠置山の落ち武者等が、ここ四天王寺に集まり、全国のレジスタンスのコミュニティが形成されていった可能性は高いと思います。
正成は、このような背景のある四天王寺に向かうのです。(写真④)
2.レジスタンスの狼煙(のろし)
⑤四天王周辺は平らな台地 |
「兵は如何程集まりそうか?」
正季は答えます。
「連れてきた200と併せ、約2000弱かと」
「十分じゃ。正季。これから反幕府軍ここにあり!という狼煙を上げるぞ!」
「のろし・・ですか?」
「そうじゃ、今般反幕府運動は活性化しているとは言え、しょせん小競り合いばかりじゃ。後醍醐の帝が隠岐に流されて以来、反幕府軍が結束して、大きなうねりを作り出すには、幕府への反発勢力ここにあり!という狼煙が必要なのじゃ!」
「しかし、幾ら四天王寺に集まって来た落ち武者、諸国の浮遊武士らを合わせて2000弱と言っても、まだ集まったばかりの連中は烏合の衆ですよ。使えるのは連れてきた200と、四天王寺に在留している中でも比較的まともな武者100の合計300程度ではないでしょうか。となると六波羅からくる軍は数千は下りませんでしょうから、とても勝機はありません。」
「正季、お前分かってないなあ。勝たなくていいんだよ。狼煙を上げることができれば!」
「?」
3.幕府軍(六波羅軍)の出動
⑥京都 六波羅探題跡 |
「何?正成が生きておったと!」と六波羅の鎌倉幕府軍。
楠木正成がわざとこの情報を流したのです。ちなみにこの話には尾ひれはひれがついて、「楠木正成は、難波で軍容を固め、都へ攻め上ってくるらしい」との噂まで飛び交い始めました。
慌てて六波羅を出発した幕府軍は約5000。大将は高橋三河守時英(ときひで)と隅田籐内左衛門(すだとうないざえもん)の二人です。
先に難波方面へ出しておいた斥候から、敵の数は300程度との報告を受けています。
この二人の大将は、決して自軍の数の多さに驕ることは無く、「あの戦上手な正成のことだ。何が出てくるか分らんぞ!」と警戒しながら軍を淀川の北側へ進めるのでした。
◆ ◇ ◆ ◇
一方、正成は、弟の正季に「狼煙をあげるぞ」と豪語しましたが、やはりまた自軍の寡兵という不利な条件をクリアしなければなりません。
「勝つ必要がない」と云っても、少し戦っては隠れ、戦っては隠れのような小規模なゲリラ戦は、地図①で示した他の反幕府勢力でもやっていることですので、「狼煙」という大袈裟なものにはなりません。
更に不利なことに、いつも寡兵を補う得意の戦術・山岳戦を得意とする正成の十八番が、ここ四天王寺周辺のような平らな土地では使えないのです。(写真⑤)
⑦渡辺橋 |
どう戦うのでしょうか?
正成の凄いところは、山岳戦でない場合でも地形と季節という自然物を使うと同時に、烏合の衆という弱みを強みに変えてしまうところです。
4.渡辺橋の戦い
これらの幕府軍の出発を聞いて、正成は、現在の大阪市内に2000の兵を戦術に沿って配置します。
堂島川という今の淀川の分流に、渡辺橋という橋が架かっています。(写真⑦)
現在でこそ、この堂島川、淀川の分流のように見えますが、実は1907年までは、淀川本流は、この堂島川だったのです。
⑧当時の渡辺橋はこんな感じ? (つくば市 小貝川に架かる小目沼橋) |
渡辺橋が架かる淀川(現在は堂島川)を挟んで、幕府軍5000と楠木軍の一部がにらみ合います。幕府軍の高橋三河守は、次々に敵情視察から帰ってくる斥候の報告を聞きます。
「敵、300確認。渡辺橋正面」
「住吉辺りに菊水の旗指物を見つけました。本陣かと思われます。数600程。他は烏合の衆かと」
これらの情報を総合し、高橋三河守、総攻撃を決断をします。
「敵は多く見積もって1000程度。しかも、弓矢・鎧の統一感無く、烏合の参集兵に間違いない。渡辺橋を一気に渡って蹴散らそうぞ!」
と高橋の手勢は橋を、隅田勢は騎馬でざんぶと淀川に乗り入れます。
➈渡辺橋の戦い ※「キミノ名ヲ。(3)」より |
そこに対岸の楠木軍から雨のように矢が降りかかります。(絵➈)
「ひるむな!!渡り切れさえすれば敵は弱小じゃ!」
と、大将の隅田は懸命に叫びますが、袖で矢を避けるも、馬に当たり、淀川を流されていく騎馬が続出する有様。
一方、高橋勢は、矢避け板を立てながら、渡辺橋を少しずつ前進していきます。これでは矢の効力は薄いと感じた楠木軍も、矢を射るのを止め、橋上に繰り出し、渡辺橋の真ん中で、高橋勢と白兵戦となるのです。
白兵戦となると、装備に隙のない幕府軍の方が、搔き集めの楠木軍より優勢となってきます。楠木軍は見る間にバタバタと仆(たお)れていきます。
カンカンカンカン
と退却の鉦(かね)の音。わあっと楠木軍は総崩れで橋から撤退します。
それらを幕府軍はどんどん追いかけます。淀川を渡り切った隅田の騎馬隊も、遠く楠木軍を追いかけ始めました。
⑩幕府軍は3方に分かれ楠木軍を追跡 |
この頃の大坂は、今よりもっと松林等があり、見通しが良くないので、逃げる楠木軍の追跡も大変です。
ただ、先の斥候の報告によると住吉に本陣である証拠の菊水の紋の旗を見たとあったので、幕府軍の大方は、かなり南にある住吉方面へ繰り出すのです。
◆ ◇ ◆ ◇
さて、幕府軍が通り過ぎだった渡辺橋周辺では、バタバタと仆(たお)されたはずの楠木軍が、ムクムクと起き上がりはじめました。
無論、ゾンビではありません。彼らは誰も居なくなった渡辺橋に取り付くと、その橋の中央部分から北側へ向かって橋板を剥がしていきます。
そう、これが楠木正成の作戦の1つなのです。
5.四天王寺ゲリラ戦法
⑪住吉にあると見せかけた本陣は、実は 四天王寺にあり、幕府軍の背後を突きます |
さて、一方3方に分かれた幕府軍、どの方面も優勢で、あと少しで楠木軍をやっつけられると期待が高まる戦況の中。
「ふっ、伏兵ですぞ!数千は下らない伏兵でござる!」
との大音声(だいおんじょう)が聞こえたかと思うと、バラバラの装備だった今までの楠木軍とは違い、統制の取れた隙の無い装備の新手の楠木軍が現れ、次々と効率よく幕府軍を倒していく姿が見えるのです。
高橋三河守は驚き、慌てふためきました。
「ぬぬ、さては住吉の本陣は囮(おとり)だな!」
そうです。正成はワザと住吉に菊水の紋の旗印をひらめかせ、本陣に見せかけると同時に、元々烏合の衆と言っていた落ち武者や全国から四天王寺に集まっていた傭兵部隊を、この戦の初動に使っていたのです。彼らは元落ち武者だけに逃げ足は速く、追いかける幕府軍を分散させることに成功しました。
⑫慌てふためいた幕府軍は、渡辺橋目掛け退却 |
この本隊は、住吉を攻めていた高橋三河守の軍勢を蹴散らします。この幕府軍本隊が撤退を始めると、残りの隅田を大将とする別働隊も、ちょっと楠木軍が攻めただけで、幕府軍本隊が撤退をしていることから弱気になり、やはり渡辺橋目掛けて一目散に撤退を開始します。
◆ ◇ ◆ ◇
渡辺橋を撤退する幕府の軍が大慌てで逃げ渡ろうとしたとき、
「あっ!橋板が無い!」
と叫んだかどうかは分かりませんが、橋の途中から板が無いと気が付いた次の瞬間は水中へドボンドボンです。
「押すな!押すな!」と言っても、恐怖に駆られた後方部隊がどんどん押し寄せるため、次々と淀川へと落ち込みます。実は押していたのは、隠れ楠木軍だったという説もあります(笑)。
そこを先程橋板を外した楠木兵が待ち構え、対岸から次々と矢の雨を降らしたため、幕府軍は大打撃を受け、高橋三河守、隅田の両軍は命辛々六波羅へ向けて引き揚げて行ったのでした。
6.宇都宮公綱
えいえいおーっ!
と勝鬨の声も力強く、楠木軍のゲリラ戦法は大成功を納め、レジスタンスの狼煙を上げることに成功しました。
⑬宇都宮公綱 |
◆ ◇ ◆ ◇
逃げ帰った高橋、隅田の両将は、六波羅探題への出仕止めとなりました。
「わたなべの 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田ながるらん」
という落首(らくしゅ)が京の六条河原に建てられ、小味よがる風潮があったようです。
「馬鹿な!」
とこの大敗にプンプン丸になったのが、宇都宮公綱(うつのみや きんつな)です。(絵⑬)
「正成のごとき、河内武者なぞに大敗する軟弱武者ぞろいか、六波羅探題は!坂東武者の恐ろしさを見せつけねばならん!」
と豪語する彼は、当然このリベンジ戦を自ら六波羅探題に申請するのです。
《つづく》
ご精読ありがとうございました。さて大楠公こと正成は、この屈強な坂東武者にどう立ち向かうのでしょうか。続きをお楽しみに!
【渡辺橋】〒530-0005 大阪府大阪市北区中之島
【四天王寺】〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18