①浮世絵にもなっている 宇都宮公綱 |
「馬鹿な!」
と叫んだのは、鎌倉幕府の重鎮 宇都宮公綱(うつのみや きんつな)です。「楠木正成が強いのではない。六波羅の幕府軍が弱いのだ」
そう豪語する公綱は、実は坂東武者の代表格のように周囲からも評判の高い武将だったのです。
宇都宮氏、そう現在の栃木県の県庁所在地でもあるあの宇都宮市が地盤の武将ですから、坂東武者の代表格というのもうなずける事実です。
今回は、まずこの剛そうな武将に楠木正成がどう対処するのかから話を始めたいと思います。ちなみに絵①の宇都宮公綱、絵の右上を睨んでいますね。この右上にある提灯や旗指物、かがり火が、正成の対処のカギとなっていきます。(絵①)
1.こだわる公綱
これらの豪語を聞いた六波羅探題のお偉いさんらは、早速この剛の武将・宇都宮公綱を召喚し、楠木軍を押さえにいく意思があるかどうか問います。
この時の公綱の答えがまたかっこいいのです。
「押さえにいく気なぞござらん。」
「いくからには、正成と勝負を果たし、奴を生け捕るか、我が身を難波の洲に屍として晒すか、2つに1つあるのみでござる!」
そして、自分が京へ連れて来た手下数十名で正成がいる四天王寺に向かいます。
②東寺の五重塔 ここに宇都宮公綱は兵700を確認 |
ところが、彼は「借兵なぞあてにならん!」と、手下数十名だけで向かってしまうのです。
「宇都宮公綱を死なせてはならん!」とばかりに六波羅探題は250騎に、公綱の後を追わせます。
また宇都宮公綱のこの事態に、馳せ参じたいと申し出る東国武者も数多くあったため、六波羅探題も「参陣妨げなし!」と許可を出しました。
これらにより、公綱が京の東寺で軍容を改めた時には、数十の兵は約700騎にまで膨れ上がっていました。(写真②)
西国武将・楠木正成成敗に対する公綱のこだわりが、東国武将の心をとらえたのです。
2.こだわらない正成
さて、まだ四天王寺に陣を張る楠木軍、宇都宮公綱が攻めてくる話を、六波羅方面へ放っておいた諜報員から聞きます。
正成の弟・正季(まさすえ)を始め、取巻きの多くが、
「なに!また六波羅の幕府軍が性懲りもなく攻めてくるのか!前回にもましてギッタンギッタンにしてやろうぞ!」
と息巻いていました。
弟・正季は正成に言います。
「兄上、今回は以前より味方の士気も高い上、敵の軍容も700程度と前回の7分の1程度です。なにやら坂東武者の恐ろしさをたっぷりと思い知らせてやるなぞ、粋がったことを言っているようですが、河内武者の意地にかけて全滅させてやりましょう!」
周囲も皆、まるで対巨人7連勝中の阪神タイガースが次の巨人戦に挑むときのように、目をランランとさせ、正成の指示の言(げん)を期待します。
③正成のこだわりのなさに唖然とする取巻き ※「キミノ名ヲ。(3)」より |
「は?」
「正季、以前お前に言っただろう。幕府への反発勢力ここにあり!という狼煙(のろし)を上げることが出来ればいいんだよ。それは出来た。」
「しかし、兄者。今わが軍は前回の勝利で勢いに乗っています。今少しでも幕府側の出鼻を挫くことが出来れば、更に全国的な反幕府勢力は拡がり、効果は高いと思うのですが・・・」
「正季、宇都宮公綱の手勢は700程度と言うであろう。公綱は幕府の中核の武将じゃ。それがたった700で我々に向かって来るのは酔狂でも我々を馬鹿にしている訳でもないのじゃ。命懸けなのじゃよ。命懸けの優秀な指揮官が指揮する寡兵程怖ろしいものはないぞ。」
「しかし・・・。」
「しかしもへったくれもない!この戦で六波羅探題の上層部が何を考えているのか想像つかんのか。確かに兵力と勢いでわが軍は負けないかもしれない。しかし、我々が今まで幕府軍を寡兵で引き寄せて時間稼ぎをした赤坂城の戦と同様、宇都宮公綱の寡兵によって我々の軍を赤坂へ戻さず、この難波に引き付けておこうという六波羅の企みが分からんのか!その間に鎌倉から大軍が京に到着し、我々は赤坂に戻ることができなくなって、それこそこの難波で全滅するのを待つばかりじゃぞ!」
「そこまで深いとは・・・」
「そうと分かれば、無駄に一兵たりとも宇都宮公綱との戦で失いたくはない。さっさと赤坂へ帰ろう。」
④四天王寺の敷地 |
結局言い負かされた正季ですが、この時正季が「しかし」と反論したかったことを正成は重々理解しておりました。
◆ ◇ ◆ ◇
正季が言いたかったのは楠木軍の士気の問題です。勝てると思っている敵に背中を見せて逃げるのは、せっかく昂揚した士気を、激しく低下させ、この後の戦での戦力ダウンにつながるのです。分かっている正成は、翌朝全軍を四天王寺の敷地に集めます。(写真④)
そして四天王寺の座主から貰ったという奉書を全軍の前で読むのです。
「この四天王寺を創建した聖徳太子が、未来の日本を予言したという秘封文書に、後醍醐天皇側が必ず勝利し、太平の世を取り戻すと書いてある。
奇しくもわが軍が駐屯した四天王寺に、そのような今を予言した聖徳太子の文書があったということは、我々に使命を全うせよとの天命であろう。
いたずらに六波羅軍との交戦に時間を費やしている場合ではない。兵糧ならびに兵の補充の目途は立った。全軍やるべきことを直ぐにやろう。そのためには急いで赤坂城に兵糧を持って戻るのじゃ!」
おおーっ!と高らかに鬨(とき)の声を上げる楠木軍に、撤退という士気低下は見られません。
ここからの撤退を含む、今後の全ての行動が、天からの命令という四天王寺の奉書を使った正成の一計により、正季が恐れていたことも全て解消したわけです。
3.正成の心理戦
「なに?楠木軍が撤退しただと?」
渡辺橋を渡る700の兵の中で宇都宮公綱は斥候からの情報に呆れました。
「先日の高橋・隅田の敗戦の例もあります。また楠木正成の詭計(きけい)かも知れません。」
「楠木の小細工なぞ、公綱に何するものぞ。」
と豪語する宇都宮公綱ですが、高橋・隅田の前回の敗戦原因であるゲリラ戦法となっては大変とばかりに、渡辺橋から四天王寺のあたりまで大量の斥候を立て、綿密な偵察をしながら南へと進みました。
四天王寺の元々楠木軍が駐留していたという広場に700の兵を待機させ、読経を上げている大勢の僧の一人に、楠木軍の動静を聞いてみました。
⑤四天王寺近くのあべのハルカス から赤坂城方面を臨む |
とのこと。とりあえず公綱は700の兵をここ四天王寺に駐留させ、四方にまたぞろ斥候を沢山立て、撤退する楠木軍の情報を集めるよう指示を出すのでした。
◆ ◇ ◆ ◇
ところが夜中になると怪聞(かいぶん)が斥候から多く寄せられます。住吉の沖に、深夜何百艘もの舟団が見えるとか、生駒山中から、天狗のような声や、鬨の声がこだました等です。
いずれにせよ公綱にも、楠木軍がまだ遠くに退いていない感じがするのです。公綱は鎧の紐を解くことが出来ません。
そんな緊張した夜が何日か続いたある夜のこと。
「ややっ!」
なんと生駒山の遠くから浜は堺の方まで、無数の赤い蛍火(ほたるび)のような遠篝(とおがかり)が見えるのです。そして風に乗ってその広い範囲から鬨の声が聞こえます。
◆ ◇ ◆ ◇
私もこの話を聞いて、四天王寺から直ぐ近くにある「あべのハルカス」から望遠を効かせ、生駒山や赤坂城方向を写真で撮りました。(写真⑤)高さ300mあるハルカスからでも、かなり生駒山は距離があるように感じます。
ただ、この当時の大阪は何も無くそれは寂しい平野部だったからこそ、遠くの篝火も、風に乗った天狗(?)や鬨の声も聞こえたのでしょうか?
⑥今ものどかな雰囲気の河内平野 南方向の山々は赤坂城と金剛山 |
これを表現したのが絵①なのです。四天王寺にいる宇都宮公綱が右上に見える遠篝を見ているのです。
◆ ◇ ◆ ◇
こんな夜が3日も続きました。
そして昼は、ばったり異状は見られず、河内平野には牛と農夫と高く白い雲を見るだけののどかな景色が広がっているだけなのです。(写真⑥)
「出てこない敵には是非もない。宇都宮の面目は立ったも同然じゃ。ひとまず京へ引き上げよう。」
公綱は独り相撲のバカらしさに疲れを感じてきました。確かに彼はこの戦で歴史に名を遺す程有名になり、面目は京・六波羅探題でも認められました。
しかし、公綱はこれが楠木正成の心理的圧迫作戦だとは最後まで気が付きませんでした。
宇都宮公綱が経験したことを私なりに客観的に見て、正成がやったことを推測すると、赤坂城への兵糧の運搬なのではないかと考えています。それを鬨の声等、不気味に演出することで、荷駄を運ぶ楠木軍がいたずらに宇都宮公綱に襲われないようにしたのだと思います。
考察の具体的な意味を地図⑦を使って説明します。
⑦正成の四天王寺撤退・兵糧運搬想定経路 |
⑧楠木正成の千早城と赤坂城 |
当時の大和川は現在のそれとは流れるルートが違います。
現在の大和川は江戸期につくられたものであり、当時はそれこそ、現在の大阪の中心地を地図⑦のように複雑なルートで流れていたのです。
楠木家は、この大和川の水運を、河内の水源からコントロールしていたことから勢力を拡大した悪党集団でした。楠木正成が後醍醐天皇から下賜された紋・「菊水」の下半分の水の紋様は、この大和川の水運も表現しています。
ですので、天王寺辺りからの水運は、楠木正成らにとっては日常茶飯事のことなのです。
当時あった依羅(よきみ)池の辺りや、住吉大社の西側の浜に沢山の舟を持ってきて大量の兵糧を乗せ込んだのでしょう。そして、ぐるぐるっと大阪城北側の現在の大川の辺りから、比較的川幅の広い久宝寺川、菱江川経由で舟橋村まで運び、後は陸路で生駒山系麓を赤坂城まで運搬したものと想定されます。
これらは日中の行動は避け、なるべく夜間行動で、わざと松明(たいまつ)を煌々と点け、鬨の声をあげることで不気味さと緊張感を演出するのです。まるで四天王寺にいる宇都宮軍を中心に、ぐるっと周りを楠木軍が取り囲んでいるようにも見える配置です。
地図で見ると分かる通り、宇都宮公綱の四天王寺から兵糧運搬河川までは数kmも離れていません。
それでも現代の喧騒の中の大阪であれば、そんな肉声の鬨の声等は掻き消されますでしょうが、当時はかなり静かな夜だったのでしょうね。時々風に乗っては聞こえてくるのでしょう。
まあ、良く考えられた撤退・兵糧運搬ゲリラ戦法です。
大きな兵糧を運搬するのは、敵に狙われやすく、狙われたら荷物がある分非常に不利です。なので、あえて日中は潜伏・夜中に兵糧運搬という得意のゲリラ的な活動を実施。ついでに松明を燃やしたり、鬨の声を上げたりして、公綱らには「何か変だぞ!」と緊張感を与え、疲れさせ、おいそれと手出しできない精神的緊張状況を持続させたのです。
これにより正成は、「大量の兵糧と兵を敵に襲われ失うということなく赤坂へ運搬する」ことと「宇都宮公綱らを精神的に降参させる」という二兎を得るのです。しかも宇都宮公綱の面子も立ててですよ。凄い軍略家だと思いませんか?
4.千早城
六波羅探題の鎌倉幕府軍を大阪の平地で散々に破った楠木正成ですが、これらは全て鎌倉幕府軍との前哨戦のようなものでした。
ただ、これらの戦での楠木正成の活躍により、当時の幕府の執権北条高時(たかとき)は改めて、敵・楠木正成の名前を認識し、西国の反幕府勢力の大きさに危機感を抱きました。
高時は、宇都宮公綱との心理戦の一か月後1332年9月には関東8ヶ国の大名からなる30万余騎の追討軍を京・六波羅探題へ派遣するのです。
一方、楠木正成も、当然、大阪は四天王寺でレジスタンス(反幕府軍)の狼煙(のろし)を上げたのですから、これら幕府の大軍が押し寄せてくるのは想定内です。
彼は、防衛力強化を主眼とした千早城を、下・上赤坂城の後詰めの城として築きます。(地図⑧)
千早城は後詰めというだけでなく、レジスタンスの他の拠点である金剛山、吉野城(護良親王が立てこもる)とも連絡がとりやすい位置にあります。(地図⑪も参照)
また千早城は、赤坂城以上に急峻な山の峰(みね)に建てられており、城の廻りはほぼ崖のような状態となっているため、鎌倉時代末期の城の造りとしては、第一級の堅固なものとなっているのです。(写真⑨)
筆者も登城してみましたが、階段を登ること1時間近く、峰にある城址まで辿り着くのにかなり急峻な坂を体験できます。当時は勿論、現在のような階段も無かったでしょうから、相当登りにくく堅固な城の守りだったのでしょう。(写真⑩)
5.幕府軍の赤坂・千早城攻め
幕府軍も楠木正成らレジスタンスも、ある意味ぶつかりあうには十分な準備ができました(?)
少なくとも、楠木正成は、前回の笠置山から後醍醐天皇側へ付いてくれと頼まれ、それから1か月以内に急ごしらえの赤坂城で戦を開始し、開始後1か月で落城したのとは準備の度合いが違います。
しかし幕府も30万の討伐軍、前回の笠置山・赤坂城攻めの4倍です。
これを3方に分けて進軍させます。(図⑪)
守る楠木軍が2千程度、護良親王の吉野城も千程度です。
この圧倒的な幕府軍の兵力に対し、正成は言います。
「勝つ必要はない。負けなければいいのだ。」
この言葉は、前回の渡辺橋の戦の前に正成が弟・正季に言っていた言葉そのものです。いつも「勝つ必要はない」と言う正成ですが、これは彼の戦術の話を言っているのではなくて、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の戦略を彼が持っているからなのです。
では、この千早城での戦いぶりを次回お話したいと思います。
長文ご精読ありがとうございました。
【四天王寺】〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目1−11−18
【千早城】〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村千早
【金剛山】〒639-2336 奈良県御所市高天
【吉野城(金峯山寺 蔵王堂周辺)】〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山
【六波羅探題址】〒605-0842 京都府京都市東山区三盛町162
ですので、天王寺辺りからの水運は、楠木正成らにとっては日常茶飯事のことなのです。
当時あった依羅(よきみ)池の辺りや、住吉大社の西側の浜に沢山の舟を持ってきて大量の兵糧を乗せ込んだのでしょう。そして、ぐるぐるっと大阪城北側の現在の大川の辺りから、比較的川幅の広い久宝寺川、菱江川経由で舟橋村まで運び、後は陸路で生駒山系麓を赤坂城まで運搬したものと想定されます。
これらは日中の行動は避け、なるべく夜間行動で、わざと松明(たいまつ)を煌々と点け、鬨の声をあげることで不気味さと緊張感を演出するのです。まるで四天王寺にいる宇都宮軍を中心に、ぐるっと周りを楠木軍が取り囲んでいるようにも見える配置です。
地図で見ると分かる通り、宇都宮公綱の四天王寺から兵糧運搬河川までは数kmも離れていません。
それでも現代の喧騒の中の大阪であれば、そんな肉声の鬨の声等は掻き消されますでしょうが、当時はかなり静かな夜だったのでしょうね。時々風に乗っては聞こえてくるのでしょう。
まあ、良く考えられた撤退・兵糧運搬ゲリラ戦法です。
⑨千早城模型(千早赤阪村立郷土資料館蔵) |
これにより正成は、「大量の兵糧と兵を敵に襲われ失うということなく赤坂へ運搬する」ことと「宇都宮公綱らを精神的に降参させる」という二兎を得るのです。しかも宇都宮公綱の面子も立ててですよ。凄い軍略家だと思いませんか?
4.千早城
六波羅探題の鎌倉幕府軍を大阪の平地で散々に破った楠木正成ですが、これらは全て鎌倉幕府軍との前哨戦のようなものでした。
ただ、これらの戦での楠木正成の活躍により、当時の幕府の執権北条高時(たかとき)は改めて、敵・楠木正成の名前を認識し、西国の反幕府勢力の大きさに危機感を抱きました。
⑩登り切ったところにある千早城址碑 |
一方、楠木正成も、当然、大阪は四天王寺でレジスタンス(反幕府軍)の狼煙(のろし)を上げたのですから、これら幕府の大軍が押し寄せてくるのは想定内です。
彼は、防衛力強化を主眼とした千早城を、下・上赤坂城の後詰めの城として築きます。(地図⑧)
千早城は後詰めというだけでなく、レジスタンスの他の拠点である金剛山、吉野城(護良親王が立てこもる)とも連絡がとりやすい位置にあります。(地図⑪も参照)
また千早城は、赤坂城以上に急峻な山の峰(みね)に建てられており、城の廻りはほぼ崖のような状態となっているため、鎌倉時代末期の城の造りとしては、第一級の堅固なものとなっているのです。(写真⑨)
筆者も登城してみましたが、階段を登ること1時間近く、峰にある城址まで辿り着くのにかなり急峻な坂を体験できます。当時は勿論、現在のような階段も無かったでしょうから、相当登りにくく堅固な城の守りだったのでしょう。(写真⑩)
5.幕府軍の赤坂・千早城攻め
幕府軍も楠木正成らレジスタンスも、ある意味ぶつかりあうには十分な準備ができました(?)
しかし幕府も30万の討伐軍、前回の笠置山・赤坂城攻めの4倍です。
これを3方に分けて進軍させます。(図⑪)
守る楠木軍が2千程度、護良親王の吉野城も千程度です。
この圧倒的な幕府軍の兵力に対し、正成は言います。
「勝つ必要はない。負けなければいいのだ。」
では、この千早城での戦いぶりを次回お話したいと思います。
長文ご精読ありがとうございました。
【四天王寺】〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目1−11−18
【千早城】〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村千早
【金剛山】〒639-2336 奈良県御所市高天
【吉野城(金峯山寺 蔵王堂周辺)】〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山
【六波羅探題址】〒605-0842 京都府京都市東山区三盛町162