①赤坂城登城道 |
これまでお話した正成の戦(いくさ)は、全てこの戦の前哨戦。この赤坂・千早城籠城作戦こそが、正成の反幕府活動・レジスタンス活動の本命なのです。
ここまでの楠木正成の戦の経緯は、是非拙著Blog大楠公①~⑥をご笑覧ください。
では早速、この千早城籠城戦の経緯を一緒に見ていきましょう。
1.強化された籠城戦
この話の1年半前(1331年9月)に笠置山で後醍醐天皇に謁見した正成。(大楠公②)その後、急ぎ赤坂城に戻り、城の補強をするも兵糧の調達が間に合わず、寡兵により鎌倉幕府の大軍と互角に戦いながらも、約1か月半で正成自ら「長期戦は無理!」とばかりに城に火を掛けているのです。(大楠公③)
今回はその時の反省から、兵糧は四天王寺に進出して大量に確保しました。(大楠公⑤)また金剛山や吉野城方面との連絡がしやすいように、後詰めの城として千早城を造り、正成はまるでそれが旗城と言わんばかりに、そこに入城します。(大楠公⑥)
赤坂城は弟の正季(まさすえ)に任せます。(写真②)
②赤坂城本丸(上赤坂城) |
③赤坂城落城までの段取り |
鎌倉幕府軍の中に、冷静に赤坂城を落すための分析をする人がいました。
「赤坂城も千早城も、前回の時のように幕府の大軍で囲んで兵糧攻めにしても、難波に進出して大量の兵糧を調達したのだから、そう簡単には落ちないだろう。それよりも城への水の手を切る方法を考えた方が早い。」
という一武将の案が採用され、地図③で示される南側からの水の手が幕府軍によって切られます。(地図③)
すると、幕府軍が企図した通り、赤坂城は途端に渇き、楠木正季らは千早城へ脱出。もう1人の後醍醐天皇の勇将・平野将監(しょうげん)らの将兵282人は幕府軍に降伏しました。
めずらしく幕府軍が成功を収めた「断水の計」。赤坂城は前回よりも早く2月下旬には落城します。(写真④)
平野将監以下、降伏した282人の将兵は六波羅へ連行された後、六条河原にて全員斬首、それらのおびただしい首級は獄門に架けられたと太平記には伝えられています。
これでレジスタンスは戦意を失うだろうとの意図が六波羅探題(幕府側)にはあったのですが、完全に逆効果でした。
千早城などに立てこもるレジスタンスは獅子の如く怒るのです。
と同時に、幕府軍に降伏しても決して生き延びることは無い、ならば死してもこの千早城を守り抜こうと、楠木軍らのレジスタンスは決意を新たにするのです。
④赤坂城付近の水の手 かえるやおたまがいます |
3.護良(もりよし)親王参陣
この赤坂城が落城し、弟・正季は千早城に避難しますが、もうお一方、強いレジスタンスの同士が、この千早城に避難してきます。
「大塔(おおとう)の宮」こと護良親王です。
六波羅探題へ一度は終結した幕府軍は、楠木正成の千早・赤坂城を攻めるのと並行して、護良親王が立て籠る吉野方面へも兵を出していることは前回のBlogの最後の方でお話しました。
吉野の護良親王たちも激しく抵抗します。しかし、幾ら護良親王が宮方にしては珍しく武勇に長けたと人物であっても、楠木正成程のゲリラ戦等、戦術に長けていた訳ではなかったようです。
「もはやここまで!」と護良親王も一時は、吉野に散る自分の運命を受け入れようとしました。
ところが、笠置山から十津川へ逃げてきた当初から一緒に戦ってきた村上彦四郎義光という武将が、護良親王を逃がすため、自ら代わりとなったのです。(絵⑤、写真⑥)
⑤吉野で護良親王の代わりとなる村上彦四郎 ※「キミノ名ヲ。(4)」より |
⑥左:吉野での護良親王(大塔宮)陣所 右:護良親王の身代わりになった村上彦四郎の墓所 |
村上彦四郎の身代わりにより、吉野を脱出することができた護良親王は、楠木正成が立て籠る千早城へと落ち延びていくのです。
4.幕府軍の失敗・二度目の断水の計
吉野を落した幕府軍は、赤坂城を攻める軍と合流し増々大軍となりました。また赤坂城も先程述べました「断水の計」で早々に落ちたので、俄然幕府軍は勢いづいていくのです。
⑦鎌倉・鶴岡八幡宮の源平池に架かる「赤橋」 |
◆ ◇ ◆ ◇
脱線しますが、太平記で有名な赤橋守時は北条守時、この名越時見も北条時見なのです。北条家では、一番偉い得宗家に次ぐ家格なのですが、では赤橋や名越などの姓は何か?というと鎌倉の住んでいる地名にあやかっています。ご存知だと思いますが、「赤橋」は鶴岡八幡宮の源平池に掛かる「橋が赤い」ので赤橋(写真⑦)
名越は、鶴岡八幡宮から由比ガ浜方面へ南に段葛(だんかずら)に沿って歩いて行く途中で横須賀線の線路とクロスしますが、その辺りから線路沿いにそって逗子方向の数百mの地域が「名越」であり、そこに北条一族の一部が住んでいたからなのです。
◆ ◇ ◆ ◇
さて、話を戻しますが、その名越時見は、千早城兵が下りてきて水を汲んでいくという千早城北側の北谷川に3000の兵で待ち伏せます。ところが、いつまで経っても千早城から人が降りてきて水を汲む気配がありません。(写真⑧)
千早城登山口 - Spherical Image - RICOH THETA
⑧千早城北側の北谷川 登っていく人の右側の急斜面の上が千早城
「何故だ?夜陰に紛れて汲みにきているのかもしれない」
と夜間は緊張しながら水辺の見張りを続ける名越軍でしたが、待ちぼうけが長引いて来ると段々気が緩んできます。もしかしたら楠木軍が汲みにくる場所が違うのでは?等とも名越軍の見張り等は考え始めます。
「よし、今夜だ!」
と言ったのは楠木正成。夜間見張っている名越軍の見張り兵を夜陰に紛れて楠木軍は襲うのです。名越軍は気が緩んで殆ど居眠り状態だったので、この楠木軍の夜襲に慌てふためき、旗指物や大幕をその場に残したまま、慌てて幕府軍本陣まで逃げるのです。
翌日、楠木軍は、城の櫓(やぐら)上に名越軍の旗指物や家紋入りの大幕を並べ、大きな声で
「流石、名越は北条一族、平家の末裔やな。平家は富士川の合戦で、夜中水鳥が飛び立っただけで夜襲と勘違いし、旗指物や大幕等全部残して逃げ出した聞くが、昨日の北谷川の合戦も同じやで!」
と詰りました。これを聞いた名越時見は
⑩逆茂木(さかもぎ) |
と決死の思いで、千早城への突撃を敢行しました。楠木軍が作った逆茂木(写真⑩参照)を破壊し、破竹の勢いで千早城の崖に張り付き登り始めたのです。(絵⑪)
読者の方々はお分かりだと思いますが、崖に貼り付いた名越軍も嫌な予感はしたでしょうね。
そう、この嫌な予感を裏切ることなく、楠木軍は千早城の壁に落下用に横向きに縄で止めてあった大木10本の縄を次々と切っていったのです。
この大木落下により名越軍400~500の兵が圧死。また大木を避けようとする名越軍にも楠木軍は城の四方八方から矢を射掛けます。
⑪千早城は常に大木と岩が降る(笑) (湊川神社所蔵絵) |
それは、開府以来、馬上での武器活用に勤しんできた鎌倉武士に対抗するには、馬の使えない山岳戦で、徒歩で弓矢を大いに活用すべきだということです。
楠木正成軍はこの弓矢を最重要視し、近隣農家から集めたにわか兵士に至るまで、弓を持たせ、大量の矢も河内の農民も動員し製作。攻めて来た幕府軍の精錬された鏃(やじり)は付いていない矢とは云え、先は充分尖らせたため、殺傷能力は当たれば左程変わらない矢を大量に作ることで、雨あられのように幕府軍に矢を降らせたことが、一番の勝因だったのではないかと推測します。
いずれにせよ、大木落下による圧死と、大量の矢の餌食となった千早城崖下の名越軍。
実は楠木正成は赤坂城が水の手を切られて落城の話を聞く前後から、大木をくり抜き300もの木船に水を蓄えていたのでした。これらは雨が降るとまた溜まるものなので、水辺に出て行かなくても城内の水は不足しなかったのです。それを知らずに水辺で待ち構えていた名越軍はまんまと正成の奇策に乗ってしまったという訳です。
5.わら人形作戦
⑫左:水分にある藁人形 右:千早城にある藁人形 |
これに対し、また楠木正成は妙案を考えつきました。
私は水分(みくまり)の正成の生誕地や千早城を見て廻った時、写真⑫のような案山子のようなものが、沢山置いてあるのを不思議に思ったものです。(写真⑫)
実は、この案山子のようなものこそが、千早城で正成が思いついた妙案だったのです。
というのは、幕府軍が緩み始めると、籠城する楠木軍も退屈しはじめました。少しでも時間があると敵に一泡吹かせる戦術を思いつくのが正成の良い癖ですから、退屈は正成の味方です(笑)。
⑬千早城内で藁人形を作る楠木軍 (楠妣庵観音寺蔵軍、土佐光成筆) |
と、正成は城兵たちに命令します。
まあ当時籠城兵のかなりの割合が半農の郷士です。藁人形や案山子の製作は得意な訳です。たちまち数十体程の藁人形を作り上げます。(絵⑬)
出来た藁人形に、千早城崖下で大木落下により圧死した武者や他戦死した兵の鎧兜を着せるのです。
そしてそれを夜の間に千早城の崖下に持って行き、整然と数十体を設置しました。
朝方、まだ靄が千早城を覆っている時に、正成は500の兵を千早城の崖下、藁人形が設置してある場所に出動させます。
わぁーーーー!
と500の兵に鬨(とき)の声を上げさせます。
ノンビリと寝ていた幕府軍は、
「敵襲だ!敵襲だ!楠木軍が決死の覚悟で攻めて来た!」
と慌て逆襲体制を敷きます。早暁の靄で、良くは見えませんが、崖下に武装した兵士達が弓を構えて立っています。
「やはり楠木軍、数は少ない!城を出てくれればこちらのもの。全軍かかれーっ!」
⑭「なんじゃ?わら人形じゃないか!」 と幕府軍の気分の私(笑) |
「なんじゃあ?!こりゃ。人形じゃないか!」(写真⑭)
と叫び終わるやいなや、崖から雨あられのように大木と岩が降って来たのです。(絵⑪参照)
あっという間に300の幕府軍は即死、慌てる幕府軍へ今度は千早城から矢が雨のように降りそそぎます。結局、幕府軍は千人近い死傷者を出しました。
対して楠木軍は藁人形30体以外の死傷者がほとんど居ないという完全勝利でした。
6.「長梯子の計」vs「火計」
⑮京の大工に作らせた梯子?(橋?)で千早城へ攻め入る幕府軍 (湊川神社蔵、歌川芳員画) |
「楠木軍が暇に任せて藁人形なぞを作っていたのだから、我々は本格的な兵器を作ろう!」
と幕府軍は連歌ばかりやっている上層部以外の現場兵士たちは考えていました。
「そうだ、橋を作ろう。楠木軍は素人が作る藁人形だったが、我々は京から本職の橋職人を呼んで、しっかりとした橋を作って千早城の北側の深い谷の上を渡せば、難なく城内に突撃できるのではないか?」
と話し合っていました。写真⑧の谷のことです。この北側の金剛山への登山道は谷が深く、その一方の峰が千早城の本丸です。(写真⑧)
これが現実になるのです。
「それだけの軍勢を持ってして、戦(いくさ)もせずに、只、無為に時間を過ごしているとは何事か?直ぐに攻撃を開始せよ!」
本部と現場が乖離するのは良くあること。現場指揮官の将士たちは「鎌倉はこの千早城攻城の難しさが分かっていない」と不満を言いますが、かねてより、考えていた武士たちがこちらの峰から千早城本丸付近へ長梯子による橋を架けて攻め入る案を献策します。
「よし!それで行こう!」
早速、京から大工500人が呼び寄せられ、付近の木材を伐採して長梯子の製作が始まりました。
そしてとうとう長さ約70m、幅約5mの立派な長梯子が出来上がるのです。
⑯長梯子を架けた場所の推定 (Googleマップ加工) |
ところが楠木軍は、付近の竹を大量に伐採して製作した水鉄砲を使い、この長梯子に勢いよく油を掛けるのです。
そして、薪のような燃えやすいものと一緒に松明を長梯子に投げ込みます。
城へ突撃を開始した最初の兵士は、この状況を見て引き返そうとしますが、何せ6000の軍ですので、押すな押すなの状況で後から後から長梯子へ繰り出してきます。鎧に火が付いた最前列の兵士が橋から飛び降りましたが、高さがあるので即死。他、後ろに逃げようとした火のついた兵士らは火まみれ・油まみれなので、後続の兵士らに火を移しまくる事態となるのです。
そうこうするうちに、火は燃え広がり、長梯子は真ん中から折れ、橋の上の千以上の兵士が猛火の中転落して死亡という痛ましい結果となったのです。
実はこの話、長梯子を架けた場所等はまだ特定されていないようです。私も現場に行って実際に見てみましたが、どうやら地図⑯に示した辺りが一番それらしく感じられました。
⑰楠木正儀の墓 木立で分かりずらいですが、後に 千早城本丸の峰が見えています |
なぜここに正成の三男の墓があるのかも良く分かりませんが、土地的にはこの場所辺り以外は100m以上の梯子を渡さないと無理な場所ばかりです。
かなり誇張された部分のある「長梯子の計」vs「火計」の話でしたが、実行はされたのだと思います。そして、またもや正成の「火計」の勝ちですね。
7.新田義貞
さて、数々の「計」を幕府軍、楠木軍ともに仕掛けますが、戦は長引きます。しかし、難波にまで進出して兵糧を確保していた楠木軍は長引く戦に強い体質を作り上げているのです。そして、この長引く戦の中で、幕府軍には足並みの乱れが見られ始めます。
その乱れの初端、病気を理由に千早城包囲網から離脱した武将・新田義貞がいます。
そして病気の理由で今の栃木県の自領に戻った義貞が、鎌倉に向けて挙兵をするのは有名な話で、その転身については色々な説があります。
安部龍太郎氏の小説では、吉野から千早城に落ちて来た護良親王と義貞が、楠木正成を介在して運命的な謁見を千早城本丸でする説が書かれています。(写真⑯)
千早城本丸 - Spherical Image - RICOH THETA
⑯千早城本丸 意外と狭い
この時期以降の、足利尊氏に対抗する、護良親王と新田義貞、楠木正成らの連帯の強さを考えると、この千早城でその3人が会って話をしても決しておかしくは無いように思えます。
長くなりましたので、新田義貞のその後の行動等については、次回詳しく描いていきたいと思います。ご精読ありがとうございました。
《つづく》
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