マイナー・史跡巡り: 大楠公⑧ ~新田義貞と足利高氏の旗揚げ~ -->

土曜日

大楠公⑧ ~新田義貞と足利高氏の旗揚げ~


①生品(いくしな)神社にある
新田義貞公像

前回のBlogでは、千早城に立て籠もる楠木正成、ゲリラ戦を基本とした色々な術策を用い、寡兵でありながら、10倍近い鎌倉幕府軍を苦しめ続ける様子を描きました。

長引く千早城包囲戦、幕府軍側にもほころびが見え始めました。
病気悪化や領内で農民の一揆発生等、様々な理由をつけて、幕府軍を構成する武将たちが自領に帰ってしまうのです。

前回、少しお話をしました新田義貞もその一人です。(写真①

ただ、彼が帰ってしまうのは、他の武将のように厭戦的な考え方とは、かなり違うのです。

1.護良親王からの綸旨(りんじ)

他の厭戦で帰ってしまう武将らと何が違うかというと、新田義貞は、護良親王からの「北条高時を討て!」という綸旨を携えていたのです。(写真②

綸旨とは天皇が発出する命令文書のことで、本来後醍醐天皇しか出すことはできないのですが、この当時、護良親王はレジスタンス活動を支えるため、「背に腹は代えられない」とばかりに次々と自分の責任で綸旨を発行していました。綸旨は全国あちこちの武将にも発出されていたのです。

余談ですが、この護良親王による綸旨乱発行動が、後々後醍醐天皇との確執に繋がる一つの要素になります。

②後醍醐天皇綸旨例
その綸旨の乱発は当然幕府軍の多くの武将にも届くのですが、護良親王は千早城攻めの最中の新田義貞に対し、特別な待遇をしたのだろうと想像されています。

つまり直々に敵方の新田義貞に密かに対面し、鎌倉幕府本体を攻撃する主力となるよう頼んだではないか。だからこそこの後、千早城攻撃の戦列から離れ、今の群馬県の新田荘(にったのしょう:現在の太田市)へ病気と称して帰った新田義貞が、早々に鎌倉攻めの挙兵をすることになったのではないか。

このように考える史家も多いのです。

私もこの綸旨を受けた他の武将とは違った新田義貞の行動の特殊性を考えると、上記考察に大いにうなずけます。

更に、それら護良親王と新田義貞の対面が、千早城を守る楠木正成の計らいだったと考えると如何でしょうか?千早城の籠城は、単なる外部環境の変化を待つだけの、漠とした受け身の運任せだったのではなく、新田義貞のような適任武将を見つけ、城外の環境を変えようとするアクティブな動きを正成の「計」によってなされていたことになります。

そうなりますと、正成はゲリラ戦だけの「計」のみならず、大戦略もちゃんと「計」ることができる人物だったということですね。

2.新田荘

③脇屋義助
さて、新田義貞が、新田荘に戻るのに川河口の多い東海道を通らず、河の上流に位置する中山道を通ることで渡河の稼働減による旅程を少しでも減らし、群馬県の新田荘へたどり着いたのは3月下旬の頃でした。

病気と称して屋内にひきこもる新田義貞が、こっそりと挙兵の方策を練っていたのは言うまでもありません。

この時、ある事件が起きました。

千早城包囲作戦で出費がかさんだ鎌倉幕府が、新田義貞に6万貫(約6億円)を5日以内に拠出するよう強制し、取り立ての使者を新田荘に送り込んでくるのです。
今までも、新田荘から幕府関連の支出を何かとさせられてきたのですが、ここに来てかなり無理な負担を幕府は言ってきました。新田荘は長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったという経緯もありますが、もう1つには、病気とは言え、やはり戦列を離れ帰国した新田義貞に対する嫌味もあったと思われます。

義貞の弟・脇屋義助(絵③)が幕府の使者を押し止めようとするも、使者は新田の米蔵まで押しかけて取り立てようとする暴挙に出たのです。たまたまその日は5月5日の端午の節句、新田屋敷では近隣の男の子を集めて柏餅を食べて楽しく談笑している時でした。使者は「新田は端午の節句をするほど余裕があるではないか。」との言いがかりをつけて、暴挙に出たのです。

これを見た義貞は、病休中と云えども看過できないほどに憤激しました。そして米蔵の鍵をこじ開けようとする使者を自らバッサリ切ったのです。

これにより、義貞は反幕府の狼煙をあげたも同然となり、積極的なレジスタンス活動に走るのです。

3.生品(いくしな)神社での旗揚げ

時は1333年5月8日の早朝、新田義貞は領内の生品神社で旗揚げをします。(360度写真④)


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 ④生品神社境内

⑤左:生品神社社殿 右:旗挙塚
この時集まった武者は、たったの150騎。ただ、新田の親族たちは越後の魚沼(現在の新潟県魚沼市)あたりに沢山いるので、旗揚げに伴う動員要請をするために、5月5日の夜、山伏に扮した使者が新田屋敷を大急ぎで越後へ向け出発しています。

「皆、集まったな」

義貞はまず生品神社の社殿に参拝し、勝利を祈念した後、愛馬にまたがり、150騎に声を掛けます。(写真⑤

「まずは、上野国の守護所を攻める!」(写真⑥

目的は兵糧の確保です。守護所という幕府の最大防衛拠点を攻めて兵糧を確保するということは、この戦の規模のデカさを示します。

「その後、鎌倉街道を南下し、幕府軍と雌雄を決する!!」

と義貞が馬上で、名刀「鬼切丸」を抜き放ち、天に突き上げ、全軍と共に鬨の声を上げるのでした。(写真⑦

⑥上野国新田郡庁跡
※最近発見されたらしい 整備はこれから?
◆ ◇ ◆ ◇

生品神社を出発し、少し行ったところで、越後の親族筋がもう合流してきました。その数5000。

守護所を占拠し、兵糧を運び出すことに成功した新田軍は、鎌倉街道を南下、一路鎌倉を目指します。

時の勢いというものは恐ろしいものです。

鎌倉街道を南下する新田軍には、上野、越後だけでなく、信濃(長野)や武蔵(埼玉)の武士もどんどん合流し、数日でその数3万にまでふくれあがるのでした。

4.足利高氏の旗揚げ

一方、足利高氏(のち尊氏)です。新田義貞が生品神社で旗揚げをする数日前の4月29日に篠村八幡宮(写真⑧)にて、やはりレジスタンスの旗揚げをするのです。一応、4月29日のこの場所までは、対外的には足利高氏は幕府軍として振舞っています。

⑦鬼切丸を振りかざす新田義貞像
(分倍河原駅前)
妻・登子と息子・千寿王(後の義詮)を、幕府の執権・北条高時への人質として鎌倉に残し、高時に見送られながら、千早城に立て籠もる楠木正成を攻めるために出陣したのが3月も終わり頃。この時の足利軍280騎。新田軍が150騎から始まったのと同様、かなり寡兵での出発です。

足利高氏も、新田が越後の親族筋の動員を充てにしているのと同様、東海道を京は六波羅探題へ向かう途中、三河国(現在の愛知県)で同族の援軍と合流します。
三河の矢作(やはぎ)川のほとりに4月4日に到着し、ここで、三河足利氏、今川氏、吉良氏などと落ち合います。

ただ、新田義貞が越後の同族と合流するのとは訳が違うのです。義貞はレジスタンスとして鎌倉攻めを手伝ってくれと言って集めた同族なのに対し、高氏が集めた同族には、まだ何も話をしていないので、皆、これから幕府軍として高氏ら足利本家と一緒に千早城へ向かうとばかり思っています。

⑧左:篠村八幡宮
右:境内にある旗挙げ記念石碑
その日の夜、高氏は同族の長を集め、あることをします。

◆ ◇ ◆ ◇

それは高氏の地元足利の荘(現在の足利市)の鑁阿寺(ばんなじ)(写真⑨)に保存されていた祖父の置手紙を、将兵の前で一緒に読むのです。

ー 自分は源氏の中興をなそうと努力したが、残念ながら成就しなかった。ついては3代先の子孫には源氏として天下を取らせたい。今、自分の死をもってこれを祈願する。ー 

という苛烈な内容が、自身の血で書かれている置手紙です。

3代先の子というのは、勿論足利高氏です。高氏のお爺さんは、高氏に天下を取らせるために自害したのです。

➈鑁阿寺(足利市)
これを高氏が読んだのは、このような重い足利本家の秘事を、三河足利、今川、吉良という自分の一族に知ってもらうことによって、自分の鎌倉幕府へのレジスタンス行動を、単なる高氏の思い付きではなく、三代前からの悲願であることを理解してもらうためです。

そうしなければ、高氏のレジスタンス行動に反対若しくは幕府へチクる等、同族と云えども、敵対行為が出るリスクが高いのです。三河の同族は高氏よりも年長者も多く、彼らは三河武士として実直真面目、鎌倉殿へ弓を向ける等、言語道断!と云わんばかりの武者達ばかりなのです。

高氏が読み終わり、顔を挙げて居並ぶ年長者ばかりの同族長(おさ)たちを見渡すと

「ワシは、これより六波羅を攻める!この幕府に対する反逆が間違っていると思う者!今すぐここを立ち去り、ワシと敵対せよ!」

高氏は一気に宣言し、長たちを強く睨み付けました。

甲冑姿で居並ぶ長たち全員の高氏を見つめる目線は強く、それを睨み返す高氏の目線もきびしく、その場はかなり張り詰めた雰囲気です。高氏はこの場で殺されるかもしれません。この雰囲気の中、一人の長が発言します。

「よくぞ!よくぞ申された。ワシらも、この日が来るのを、ずーっと待ちわびておりましたぞ!」

そして全員「よくぞ!よくぞ!」と、どーっと湧くのです。高氏もほっと安心すると同時に、幕府への武士の不満の強さと、このレジスタンス行軍の重さをかみしめながら一座の中に、一緒に笑顔で座っているのでした。

⑩石清水八幡宮
※この宮のある山が男山
◆ ◇ ◆ ◇

高氏が兵5000で、近江方面から六波羅探題に到着したのが4月16日。ここで鎌倉幕府軍と合流(地図⑪の①)し、石清水八幡宮(写真⑩)のある男山に侵出してきた千種忠顕(ちくさ ただあき)らレジスタンス軍と対峙する搦手軍として桂川の北側に兵を進めるのです。(地図⑪の②

ここまでの行動は、幕府側に高氏自身の裏切りがバレないように慎重に事を運ぶ必要がありました。幕府軍の大将・名越(なごし)尾張守高家の下知に従順に従いながらも、搦手という主戦場から少し離れた持ち場を貰えるよう、高氏は弟・直義(ただよし・当時は高国)や、執事の高師直(こうのもろなお)に幕府内を周旋してもらっていたのです。

更に弟・直義や高師直らの凄いところは、名越大将から「反乱軍に対する総攻撃は明日の早暁を持って開始」とのマル秘軍事情報を、レジスタンス軍に上手く伝え、かつレジスタンス軍に「集中して主力である名越軍らを叩き、我ら足利軍には手を出さない」という約束をさせるのです。

これにより、幕府軍が早暁に攻撃を仕掛ける少し前に、レジスタンス軍からの猛攻が京都の南側で行われます。早暁総攻撃計画の裏をかかれたと焦る幕府軍は名越大将を失い、慌てふためきます。その間に搦手にいる足利高氏らは悠々と桂川を渡河し、丹波方面へ向かうのです。

そして新田義貞が生品神社で旗揚げする前日の5月7日、写真⑧にも掲載しました篠村八幡宮にてレジスタンス軍として旗揚げをします。(地図⑪の③
⑪足利高氏が幕府を裏切りレジスタンスになる直前
この京から少し離れたところで旗揚げをしたのは、幕府との主戦場から少し離れたところで、兵の増強・再整備をすることが第1の目的です。また、先程述べた5月8日に、関東・上野国の生品神社で旗揚げをした新田義貞とレジスタンスの軍事行動を起こすタイミングを同時にするため、ここでアイドリングをしていたのです。
そもそも丹波は高氏の母方の実家・上杉家の本貫地なのです。高氏もこの丹波で生まれました。またすぐ近くの大江山は、鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治した源頼光と縁が深い場所、更には源義経の所領が篠村だったという源氏に関係の深い土地だったのです。

ですので、兵が集まりやすく、あれよあれよと兵力は倍の1万を超える勢いとなりました。またこの神社、私が訪問した現在こそ住宅街の1神社のように見えましたが、
平安時代末期、前九年の役のスーパーヒーロー源頼義(よりよし:八幡太郎義家のお父さん)が参籠し四方の兇徒を平らげ、民を安心させたという縁起があるのです。

さらに脱線しますが、この篠村八幡宮、この足利高氏の反逆の狼煙だけでなく、249年後に起こる反逆の狼煙の2つの事件によって、反逆の地として有名になるのです。(360度写真⑫)


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 ⑫篠村八幡宮境内

そう、本能寺の変です。地図⑪の左端に見えます亀岡市、当時そこが明智光秀の本貫地でした。信長に徳川家康の饗応役を外され、秀吉の中国攻めへの加勢を命令された光秀が、この亀岡市にある丹波亀山城から軍を出発。中国地方への出兵ですから、西に行くとばかり思った明智軍が東に進むのを疑問に思い始めた時に「敵は本能寺にあり!」と全軍に通知するのが、この篠村八幡宮なのです。多分、教養高い光秀のことですから、この神社が足利高氏がレジスタンス行動を始めた神社と知っていて、自分も主君・信長を倒すというレジスタンス行動が成功するよう祈念し、249年前の高氏の成功にあやかりたかったのでしょうね。結果は皆さま、ご存知の通りです。



更に蛇足ですが、この篠村八幡宮で「敵は本能寺にあり!」と指令されてもなお、光秀の軍の末端兵士らは「きっと饗応した徳川家康を討ちに行くのだろう」と信長を討つとは夢にも思わなかったという伝承があります。

5.鎌倉攻め

示し合わせていたのでしょう。足利高氏が5月7日、丹波国・篠村八幡宮で1万のレジスタンス軍旗揚げ、攻めるは京都・六波羅探題の鎌倉幕府軍。新田義貞が5月8日、上野国・生品神社でレジスタンス旗揚げ、攻めるは幕府本拠の鎌倉。総勢3万。

途中、足利高氏の息子・千寿王(後の義詮)の一行と武蔵国(埼玉県)に入ったところで合流。たった4歳の千寿王が足利氏代表ということで、新田義貞の一軍の大将として加えられます。これもかねてより、足利高氏と取り決めていたことのようです。
⑬小手指ヶ原(こてさしがはら)古戦場碑

ただ、義貞が純粋に高氏の子息の安全を図ることだけを考え、この計画に対処したのに対し、高氏は鎌倉攻めの功を全部新田義貞にもっていかれないように千寿王の大将追加を巧妙に仕組んだ可能性があります。


これら新田義貞・千寿王のレジスタンス軍3万は南下を続け、武蔵国の入間川あたりで、幕府軍との最初の戦が開始されます。小手指ヶ原(こてさしがはら)の戦いと言います。(写真⑬

これら新田義貞の鎌倉侵攻を中心に次回お話させて頂ければと存じます。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【生品神社】〒370-0314 群馬県太田市新田市野井町645
【上野国新田郡庁跡〒373-0051 群馬県太田市天良町
【分倍河原駅前・新田義貞像】〒183-0021 東京都府中市片町3丁目26−29−2
【鑁阿寺(ばんなじ)】〒326-0803 栃木県足利市家富町2220
【石清水八幡宮】〒614-8588 京都府八幡市八幡高坊30
【篠村八幡宮】〒621-0826 京都府亀岡市篠町篠上中筋45−1
【小手指ヶ原古戦場】〒359-1152 埼玉県所沢市北野2丁目12