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月曜日

住吉大社の誕生石 ~薩摩藩・島津家のルーツは頼朝?~

難波の海の神様である住吉大社。源氏物語でも度々出てくるこの神社は、光源氏や明石の君等の参詣場面でも描かれる雅(みやび)な所ですね。(写真①)

①住吉大社正面

そんな古(いにしえ)より京とも所縁の深い住吉大社ですが、太鼓橋を渡った先に源頼朝と縁の深い伝承場所があります。誕生石です。(写真②)

②住吉大社脇にある誕生石
※島津の家紋入り提灯が印象的ですね
薩摩藩・島津家の聖地だからです

今回は、この史跡にまつわる伝承をお話したいと思います。

1.頼朝の乳母・比企尼の長女(丹後内侍)

ちょっと話が複雑になりますが、京で生まれた頼朝の乳母は比企尼(ひきあま)という武蔵国の比企氏の流れを汲む女性でした。(写真③)

③比丘尼山
比企一族の里・埼玉県松山市にあります。
比企一族が北条一族に滅ぼされた後、
頼朝の乳母・比企尼が
若狭局の遺骨を
抱きながら鎌倉から来て、ここで静かに
弔いながら暮らしたといわれます。

比企尼には3人の美人娘がおりました。長女は丹後内侍(たんごないし)と言って、それはそれは比企尼も自慢の美人で教養高い娘でした。母である比企尼の話を良く聞き、常に慎ましやかな性格だったようです。

2.丹後内侍と頼朝の関係

④鎌倉の頼朝の墓(正面)
丹後内侍は、頼朝が伊豆に流されていた頃からの側近、安達盛長(もりなが)の妻となります。ただし、彼女は初婚ではありません。

初婚は惟宗広言(これむね の ひろこと)という歌人で、丹後内侍自身も「無双の歌人」と言われた程の方なので、教養高い歌で繋がりを持ったということですね。

惟宗(島津)忠久という嫡男を産むのですが、広言の子供ではなく、頼朝と通じていたことにより生まれたという伝承があります。この忠久が薩摩・島津家の祖であることから、島津家の始祖は頼朝という伝承が生まれました。

女性好きの頼朝のことですから、あり得るとは思います。特に薩摩藩は、これを藩の公式見解として、鎌倉にある頼朝のお墓を江戸時代にかなり立派に建て直す程、この説を支持してきました。

◆ ◇ ◆ ◇

鎌倉の頼朝のお墓に来ると、立派な多層塔があります。(写真④)

おお、流石武士の世を創生した頼朝のお墓だと思うでしょうが、是非、このお墓の裏に廻ってみてください。(写真⑤)

小さな、五輪塔がこの多層塔の影に隠れて見えますね。実はこちらがオリジナルなのです。

では多層塔は?というとこちらは薩摩藩が、自分たちの始祖は頼朝であるということで、彼らの崇敬を顕す意味も含めて建てたものなのです。  

⑤墓の背面に廻ると小さな五輪塔が

この程左様に、薩摩藩が頼朝に肩入れできるのかと言う根拠が、この伝承なのです。つまり大阪の住吉大社の誕生石と、鎌倉の頼朝の立派なお墓の提供の話は1つに繋がっています。

では、何故丹後内侍が、ここ関東から離れた難波の住吉大社で頼朝の子を生んだのかという経緯を伝承に基づき記します。

3.畠山重忠の対応

北条政子が関係します。ご存じの通り、政子は、頼朝の愛人・亀の前に対する憎しみの余り、かなり酷いことをしたのは有名ですね。同じように丹後内侍が頼朝の子を懐妊したことが政子にバレると、政子は畠山重忠に内侍を殺すように命じます。

「御台所様(政子)にも困ったものだ。いや、それ以上に武衛殿(頼朝)が問題か。。。」

と重忠は、更に家臣の本田次郎親経(ちかつね)に命じて、丹後内侍を由比ガ浜へ誘い出します。由比ガ浜は当時、刑場兼墓場のような、よろしからぬ場所でした。そこに誘い出すこと自体、丹後内侍も何かを感じて、斬首前に上手く逃げてくれないかと重忠は期待したのです。

ー逃げてしまえば、「由比ガ浜で斬るつもりでした」と言い訳もできるー

◆ ◇ ◆ ◇

後年、畠山重忠の息子・重保(しげやす)は、北条時政の命により、懇意だった稲毛重成に由比ガ浜に呼び出され、待ち構えていた三浦義村に刺殺されています。その数時間後に重忠も二俣川(横浜市)で討ち取られるのです。(写真⑥)

⑥二俣川合戦の地にある畠山重忠の首塚

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。

ところが、この重忠の変な期待に反し、丹後内侍は身重であるにも係わらず、本田次郎に従い浜に現れます。次郎がなんと言って誘い出したかは知りませんが、重忠は内侍を一目見るなり、品格高く、かつ決して人を疑わない素直で澄んだ雰囲気に、政子と対照的なものを感じました。

―なるほど、武衛殿が惚れるのも分からんでもないな。これはやはり斬れんなー

やさしい重忠は、次善の策として手配しておいた由比ガ浜の東端にある和賀江島の湊(写真⑦)から、難波を経由して運航する船に、本田次郎と丹後内侍が乗船するよう指示します。

⑦今も伊豆石を使った
基盤部分が残る和賀江島
※遠く左が江の島、右は稲村ケ崎

「よいか、身重で大変だろうが、次郎をつけるので、難波に着いたら、淀川を登る船で京へ行き、前夫である惟宗広言殿を頼るのじゃぞ!惟宗殿には事の経緯を書いた秘文書を作成しておいた、次郎、しっかり手渡してくれ。」

本田次郎も、重忠の寛大な措置に敬服し、なんとしても丹後内侍を逃がさねばという気持ちになっています。そして二人は出帆する船に乗り、難波の湊に向かうのです。

4.島津家始祖誕生

ところが、難波の湊で下船した直後に雷雨に遭い、また日も暮れてきて2人は途方にくれていましたが、不思議なことに雷雨が上がると、数多の狐火が灯り、浜の松原沿いの道を照らしました。

ー住吉様のお導きか?ー

と2人は松原沿いの道を歩き続けると、予想したように住吉大社の社頭に至ったのです。

この時、丹後内侍が急に産気づきます。

本田次郎は「住吉様、お導き頂いたからには立派な子をお授け下さい」と祈りながら、社殿に飛び込みます。そこに田中光宗(みつむね)という神人がいました。そこで次郎は神人に産湯と薬湯を持ってくるようお願いします。(写真⑧)

⑧住吉大社社殿
本田次郎が戻ると、丹後内侍は社の大きな力石に抱きついたまま、まさに男児を出産した直後でした。田中光宗も直ぐに駆け付け、母子共に介抱し、無事保護に至りました。

⑨住吉名勝図会
(誕生石脇に立つ看板から抜粋)
後に内侍が抱きついていた住吉大社の力石は、「誕生石」として安産を祈念する対象となったのです。

また後年、この本田次郎の行動を知った頼朝は、次郎を賞賛すると同時に、成長した男児に薩摩・大隅の2か国を与えます。これが薩摩の島津氏の起こりとなり、この男児は島津三郎忠久と名乗るのです。(写真⑨)

また、この島津三郎忠久の「忠」は畠山重忠の「忠」をもらい受けたものです。そう、忠久が元服する際に、烏帽子親を買って出たのは、畠山重忠だったのです。

5.伝承の不可思議・・・

ただ、良く分からないのは、忠久の出生年が上記の時系列とつじつまを合わせようとすると腐心します。彼の出生年については1166年、1177年、1179年と複数あり、頼朝が旗揚げをしたのが1180年ですから、まだ頼朝が鎌倉入りする前に生まれたことになります。

島津家の「吉見系図」によると、京の二条院に女房として仕えていた時期に懐妊し、島津忠久を住吉神社にて生んだ後、上記の話にもあるように、これを助けた惟宗広言と再婚。そしてその後、離縁し関東へ下って安達盛長に嫁いだとされているようです。

ただ、頼朝が伊豆に流されたのが1160年、伊豆での挙兵が1180年なので、その間で内侍が産み落とした子がどうして頼朝の子なのでしょうか?仮に頼朝が14歳で京にいた時、関係を持ったとしても1161年生まれでないといけませんし、幾ら女好きの頼朝でも平治の乱前後の少年で子をなすとは考えづらいですね。(写真⑩)

⑩伝 島津忠久公 肖像画
(Wikipediaより)

更に1177年頃に頼朝と出会う政子に殺されそうになるなんて、それこそ内侍の子が生まれる前、更に畠山重忠は1180年の挙兵時は頼朝と敵対しています。一体全体、どういう流れで考えれば良いか悩んでしまいます。

うーむ、ただ、あの大藩である薩摩藩が、頼朝のお墓にここまでしっかり関与しているのであれば、歴史考証の素人である私が及ばない考証があるのでしょう。

どなたか分かる方、是非ご教示ください(笑)。

ご精読ありがとうございました。

《終り》

【住吉大社 誕生石】〒558-0045 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9

比丘尼山】〒355-0008 埼玉県東松山市大谷

【和賀江島】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座6丁目