幕末の幕臣・小栗上野介の墓は、彼の領地だった高崎・権田村の東善寺にあります。(360度写真①)
①:東善寺にある小栗上野介の墓
既に投稿したブログ記事「【1枚の360°写真から】横須賀・小栗上野介忠順像」でも述べましたが、小栗上野介は幕閣にあって、幕府の海軍力増強のために横須賀造船所(当時は横須賀製鉄所)を造るなど、ハード面からこれを推進した人物です。ワシントン海軍造船所見学の遣米使節団に参加しており、この見学により日本の造船所の必要性を強く感じたのです。(写真②)
一方、勝海舟は神戸に海軍操練所を造り、人材育成というソフト面から海軍の増強を図りました。ハードの小栗、ソフトの勝。まさに双対を成す偉業でした。(絵③)
| ③:勝海舟 ※江戸東京博物館 蔵 |
また、才溢れる彼は、官軍が西から江戸へ攻め寄せてくるに際し、兵站分断作戦を幕府に上奏します。幕府の艦船を駿河湾に急行させ、東海道を東上してくる官軍を沼津・三島あたりで艦砲射撃に晒して戦列を分断し、兵站の供給を絶つ。それでも東上する残りの官軍は、箱根の手前で殲滅する。そういう作戦でした。
しかし、朝廷への恭順の意を示した徳川慶喜は、この作戦を用いず、上野寛永寺に謹慎してしまいます。
失意の中、小栗上野介は高崎の領地に静かに隠遁しました。
この小栗の作戦を後に聞いた、当時、官軍の事実上の総司令官であった大村益次郎は戦慄し、「もし実行されていたら、我々の首はなかった」と語ったと伝わります。小栗には「生かしておくと官軍にとって脅威になる人物」というレッテルが貼られてしまったのです。(写真④)
⑤:顕彰慰霊碑
水沼河原に建つ顕彰慰霊碑には、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。
実はこの「罪なくして…斬らる」という文言は、昭和7年(1932年)の建立の際に、高崎警察署長から問題視されたそうです。「天皇の軍である官軍が、罪の無い者を斬るわけがない」という理屈でした。
小栗上野介の菩提寺である、ここ東善寺のご住職は、この「官軍意識」を戦前の日本の悪癖と捉え、この土地では「官軍」という言葉を使わず、「西軍」「明治新政府軍」「明治政府軍」などと言うのだそうです。
よく、明治維新は「諸外国、特に欧州の革命に比べて流血の少ない革命」などと言われます。確かに江戸城無血開城など、一般市民を巻き込んだ流血は少なくて済みました。犠牲者数には諸説ありますが、戊辰戦争で約8,200名、後年の西南戦争でも約1万3,000名。合わせて2万人ほどです。一方、フランス革命は約40万〜80万人(広義の革命戦争全体を含めると100万人以上)と推計されており、これに比べれば圧倒的に犠牲は少ないものでした。
これは、平和な260年間という江戸時代にあっても、武士が「武士道」というしっかりとした精神的支柱を磨き続けていたからこそできた偉業、という見方もあります。確かに戦の主体は、「錦の御旗を掲げる武士団」(つまり「官軍」)と「錦の御旗を持てない武士団」(つまり「賊軍」)の戦いだったからではないでしょうか。
東善寺のご住職は、「官」の対語は「民」だから「官軍」の対語は「民軍」であり、「賊軍」という見方は「官軍」の主観による決めつけだ、としています。確かに決めつけだと思います。(ただ、私は「民軍」が対語という点には少々抵抗があります。何故なら維新は、フランス革命のような「民」が参戦した革命ではなく、あくまで武士同士の戦いだったという、日本固有の事情があったからです。)
なので、明治維新で武士の世の中を終わらせたという改革は、表面的にはそうであっても、どちらの軍も「武士」である限り、「武士道」という精神構造は、この「官軍」という言葉に代表されるように強く残りました。そしてその精神構造を維持するために、「錦の御旗を掲げる武士道」、つまり天皇制絶対主義(国体)が強く維持されたのではないでしょうか。
となると、極論すれば、この「武士道」の維持が、80年後の昭和20年の太平洋戦争に繋がったと言えなくもありません。太平洋戦争における日本の犠牲者は約310万人。戊辰戦争(約8,200名)や西南戦争(約1万3,000名)などの内戦期と比較しても、極めて短期間のうちに、桁違いの国民が命を落とす結果となりました。
勿論、フランス革命の40万〜80万人の、さらに3〜8倍近くの犠牲でもあります。「明治維新は、諸外国の中でも稀に見る流血の少ない革命だった」。そのことを偉業とする捉え方で、本当に良いのでしょうか?皆さんはどう思われますか?
後に「罪なくして…」の顕彰慰霊碑は、無事建てられることになりました。しかし、小栗上野介がここで斬られるその瞬間、彼の優秀な脳裏には、この「官軍」なるものの悪癖が、80年後に花開くことを予見できていたのかもしれません。彼の身に起きた悲劇は、そのまま太平洋戦争で犠牲となった310万人に起こった悲劇の先駆けだったのでしょうか…。
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