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日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~

①奥州藤原3代
このblog記事には一部学術研究で活用されたミイラ等の写真が掲載されています。
気分が悪くなる等の恐れが在る方は閲覧をご遠慮ください。

 前回まで前九年の役と後三年合戦について描きました。

今回からの話は、後三年合戦が奥羽で繰り広げられてから100年後の話です。

100年後、奥州王国は前回までの主人公であった藤原清衡(きよひら)から2代後の秀衡(ひでひら)が主となっています。

奥州藤原3代は、清衡、基衡(もとひら)、秀衡となります。(絵①

100年もの間、この奥州王国を中央政府からの半独立状態を維持できたのは、やはり金色堂をも作った奥州の「金」の力なのでしょう。

中央政府の有力者(関白?)と「金売り吉次」を介して関係を結び、安定した奥州支配を続けます。2代目基衡までは、そういった意味では後三年の悲惨な戦のあとのしばしの静けさが続いたと見ても良いのでしょう。(写真②:これらのミイラについては別途「中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~」参照

そして時代はこのblogでも取り上げた通り、保元の乱、平治の乱等、源平武士の台頭が京より西側を中心として繰り広げられ、奥州の東北地方は、合戦の舞台からは外れることが出来ていた訳です。

奥州藤原氏3代目の秀衡は、これら中央での武士の台頭に、危機感を強く持っていました。
②中尊寺金色堂に収められている藤原3代の遺体
※泰衡の首は訳あって現代まで忠衡(弟)
のものとされていましたが、研究から
現在は泰衡説が濃厚となっています

「きっと来る!また後三年合戦の源義家(よしいえ)の再来が!」

1.義経の取り込み

上記のような危機感を持った秀衡。この3代目はかなり先見性を持った人物でした。

よく3代目は初代に劣らず優秀と言われますが、その典型例ですね。

そこで、彼は保元・平治の乱を奥州から遠望しているだけではなく、京にて周旋活動をしている「金売り吉次」を使い、中央政権の動きを逐一キャッチし、今後の武士の世が固まってくる時代に対する奥州王国防衛の備えを開始します。

その一計が「義経の取り込み」です。

彼は、100年前の前九年・後三年の原因の基本は、中央から派遣されてきた当時の武士団の頭である源家(頼義・義家)との敵対にあるとの分析を行います。

そして、平治の乱で、平清盛源義朝(よしとも)の息子たち、頼朝と牛若丸を含めた数人を生かしたままにしたと聞くと、また金売り吉次を使って、それら源義朝の遺児たちの様子を探らせます。

将来源氏の世が来る事を予測して、ピカ1の遺児を奥州王国に招き入れてしまうことで、奥州王国を守ろうと考えたのです。

③義経後ろ姿
(鎌倉彫:満福寺蔵)
遺児たちの中で、一番武勇に長け、野心に燃える人物として白羽の矢が立ったのが牛若丸です。(写真③

伊豆に流刑中の頼朝にも、秀衡の関係者は会っていたようですが、頼朝に、秀衡はかつての義家の狡猾さを見るようであったこと、また北条一族に取り込まれている彼を見て、策士である彼は避けたようです。あれだけ義家に辛酸を舐めされられた奥州藤原家にとっては、純粋で透明性のある牛若丸の方が取り込む大将の器としてはもってこいだったのだと想像されます。

何はともあれ、早速金売り吉次が牛若丸を平泉まで連れて帰ります。

2.奥州王国の独立性

当時は平家一門の世。「平家にあらずんば人にあらず」の勢いですから、義朝の息子を平泉に匿(かくま)う秀衡の動きを知らない訳がありません。

しかし、全く動じない秀衡。この当時秀衡は例の「金」で平家に取り入り、かつて義家が持っていた陸奥守の役職を確保。17万騎と言われる軍を組織した奥州王国は、平家と敵対した源氏の一人息子を匿うくらい何でもないと言わんばかりの独立性を持つ国にまで力を付けていたのです。当時政庁のあった柳之御所(平泉)の敷地規模からも、その広大な王国の様子は伝わってきます。(写真④

平泉に匿われた義経は15歳から23歳までの多感な時期を、駿馬の産地である平泉で、馬を乗り廻し、戦の技と戦術を磨いていくのです。

3.源平合戦

④奥州王国の政庁があった柳之御所跡
さて、1180年に頼朝が平家討伐の挙兵を起します。(詳細は別記事「三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~」をご笑覧ください。こちらをクリック

この頃、藤原秀衡のところにも、平家から源頼朝征伐の要請が来ており、秀衡も「OK!」文書を返しています。

挙兵し、鎌倉に着座した頼朝も、この奥州藤原氏と、もう少し南の常陸の国(茨城県)の佐竹氏(当時の関東武家勢力図は、こちらをクリック)が鎌倉に攻めて来る脅威を感じており、積極的に西の平家打倒に進軍することが出来ません。

ところが、この時、秀衡も頼朝も予測していなかったことが起りました。

義経が挙兵した頼朝の元に平泉から馳せ参じようとするのです。

秀衡は、伊豆に流されていた頼朝を見て、「義家の再来か?」とさえ思っていた訳ですから、これを滅ぼしておいた方が奥州王国の安寧のためには良策と考え、実際2万程の軍を鎌倉に向けようとしていました。

ところが、義経が頼朝のところに馳せ参じたいと、秀衡に申し出をしてくるのです。
⑤私の家の近くにある二枚橋ここを通り
義経は平泉から頼朝の元へ参じた

一度は馳参を思い止まらせましたが、まさか義経への説得に奥州王国の都合を話す訳にも行かず、説得は上手く行きません。ぶっちぎりで頼朝のところに行こうとする義経に最後は根負けし、佐藤兄弟という部下を付けて、平泉を送り出すのです。

義経は嬉しそうに、弁慶と佐藤兄弟を引き連れて、頼朝のところへ平泉から向かうのです。(写真⑤

これで秀衡は、義経への道義上、頼朝を攻めることは出来なくなりました。また頼朝はそんな背景は知らずに黄瀬川にて対面(詳細はこちらをクリック)する弟・義経に「これからは兄弟力を併せ、仇である平家打倒に共闘しようぞ!」と涙ながらに語らいます。(写真⑥

しかし、心の中では以下のように計略を練っているのです。かなりシュールな頼朝です。(笑)

「ふっ、これで奥州の脅威はこいつ(義経)が戦ってくれる間はあらかた消え失せたわ。ただ秀衡は、こいつ(義経)見殺しの覚悟で常陸の佐竹と共謀して鎌倉を攻撃してくるかも知れない。俺はこれらの牽制のためにも鎌倉に残り、平家討伐のための西行きは、義経と範頼に任せよう。」

⑥対面石(奥の杖側が頼朝、手前が義経)
それからの義経の平家打倒における活躍ぶりは、拙著blogでも「一の谷の戦い」を中心とした、合戦状況は3作品作りましたので、どうぞご笑覧ください。(最初の作品はこちらをクリック

源平争乱の間、奥州藤原氏は、中立を保ちました。多分、奥州藤原軍17万騎が動けば、常陸の佐竹氏と共謀しなくても、頼朝を滅ぼすことは出来たかもしれません。

しかし、秀衡はそれでは純粋な義経が黙っていない、頼朝を滅ぼせても、今度は義経まで敵に廻すことになり、それはそもそも義経を奥州に取り込んだ自分達の失策を認めることになるのです。

そこで、秀衡は他の策を考え、やはり義経を上手く使って奥州王国を安寧に導く方法を考えました。

まず源平争乱中、奥州王国は中立。そしてこの間も、ただ手をこまぬいて、義経らの活動を見ていた訳ではなかったのです。

4.腰越状

最後壇ノ浦で平家を倒した義経。凱旋し京に戻ってきた彼に、平家打倒の院宣を下していた後白河法皇は、伊予守等の役職を与え、また義経が鎌倉に断りなく恩賞を出すことを許可します。

⑦左上:後白河法皇 右上:奥州藤原秀衡
左下:源頼朝 右下:源義経
世間では、狸である後白河法皇が、これにより義経と頼朝が対立するだろうとワザと画策し、武家の2人を争わせ弱体化し、相対的に朝廷の権威が高まることを狙ったと解釈されます。私もそう思います。(絵⑦:左上

ただ、もう1人この後白河法皇にこの行動を仕向けた男が居ます。

そう、秀衡です。(絵⑦:右上

源平争乱中に、金売り吉次を使い、有力貴族や法皇等に金をばら撒き、義経に対する支援の周旋活動をしていたと思われます。

秀衡は、先程他の策を考えたと言いましたが、その策とは義経を源氏の頭領にしてしまうということです。

秀衡は、頼朝は義家の再来であり、絶対奥州王国を滅ぼしに来ると踏んでいますので、幼少期より取り込んでいた義経に頭を挿げ替えれば、奥州王国は安寧と考えた訳です。

ところが、義経に対する適正な評価が出来たのは、頼朝だけだったのですね。(絵⑦:左下

義経がもう少し政略的な大局観があれば、秀衡や後白河法皇の意向に沿った行動が出来たのでしょうが、この名将、天才的な戦術は生み出せても、戦略という概念すら持っていなかったのではないかと思うくらい政略に疎いのです。(絵⑦:右下

このように愚直な程に素直な義経は、何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分が、兄・頼朝に認められないのか不思議でなりません。きっと頼朝の君側の奸(かん)の讒言(ざんげん)により、誤解が生じているに違いないと考えます。

⑧腰越の海岸
そこで壇ノ浦で捉えた平家総大将の宗盛(むねもり)を鎌倉へ連行し、ついでに直接兄・頼朝と話が出来れば、誤解は霧散すると考え、1185年5月、弁慶と一緒に京から鎌倉へ向かいます。

ところが鎌倉の手前4kmくらいの場所である腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(写真⑧

そこで、この海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。

ところがいつまで経っても入府許可が出ません。

そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。この手紙は腰越状として有名です。

【腰越状意訳】写真⑨
私、義経は天皇の命を受けた頼朝公の代理となり、平家を滅ぼし、父・義朝の恥をすすぎました。

きっと褒美を頂けると思っていましたが、図らずも、讒言により、大きな手柄も褒めていただけなくなりました。

私、義経は、手柄こそあれ、何も悪いことはしていませんのに、お叱りを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ讒言に、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝え出来ず、数日をこの腰越で無為に過ごしています。

黄瀬川の対面以来、永くお会いできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、このような不幸せな巡り合わせとなったのでしょう。
⑨腰越状(満福寺蔵)

亡父・義朝の御霊(みたま)が、再びこの世に出て来ない限り、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることも、また哀れんでも頂けません。
<中略>
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊を御安めする以外に、何一つ野望を持った事はありませんでした。

その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。

義経は野心などすこしもございません。
<中略>
疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

元暦二年五月 日 源義経

◆ ◇ ◆ ◇

何でしょうか?彼が唯一政略っぽい事を述べているのは、上位職へ任官されたことは源家にとっての名誉だということだけです。政略に関する考え方があまりに疎ですね。

それに比べ、この手紙の中でもやたらと平治の乱で敗れた父・義朝の恨み返しの話ばかりが強調されています。

これは前回までの後三年合戦で、負けた家衡(いえひら)の義家・清衡らと戦う動機が「母上を殺した」というのと似ていませんか?家衡は最期「早く母上に会いたい」と言いながら、斬首されるのです。(詳細はこちらをクリック

⑩義経が逗留し腰越状をしたためた満福寺(上)
京へ戻る義経がこの寺の階段を下りたところに
今では江ノ電が走る(下)
その時、家衡も呟いています。「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」と。

つまり、この腰越状の文章上、既に義経は源家頭領としての器ではなかったことが、現れているのではないでしょうか。

結局、義経は鎌倉入りを許されず、6月9日に頼朝から、平宗盛を連れて京へ戻れとの下知を受けます。(写真⑩

これにより感情が昂った義経は、「頼朝に不満のある武士は、私に付いて来て一緒に反旗を翻そう!」と言ってしまいます。

これは頼朝の思うつぼであり、4日後13日、義経の所領・役職全て没収となりました。

この後、義経が殺されるまでの話は次回以降描いていきます。

ちなみに義経は、御首(みしるし)となった後も、この腰越の海岸で首実験がなされ、この海岸より鎌倉方面へ入ることは死んだ後もありませんでした。彼の首塚は鎌倉の西、藤沢にあります。

5.おわりに

世にいう判官贔屓(ほうがんびいき)における頼朝は、義経の天才ぶりに脅威・嫉妬を感じ、武家社会の秩序を乱す義経自体を悪者扱いにしたと見られがちですが、私はむしろ頼朝は義経を介し、背後にある奥州王国を見ていたのだと思います。

頼朝が届いた義経の御首を見て、「これで世の中の悪は去った」という場面が多くの歴史小説や映画等で出てきます。

多くの人は、この言葉を聞いて「悪とは何であろう?」と、人情豊で正しい行いの人義経に同情の念を寄せますが、彼は義経の御首を見ながら奥州王国の御首を見ていたのだと思います。
前九年・後三年から100年経った頼朝で奥州王国と源家の確執は終焉を見たのです。源家にとって奥州王国は「悪」そのものだったのでしょう。

その視点で、次回以降も描いていきたいと思います。
ご清読ありがとうございました。

木曜日

中尊寺金色堂① ~蝦夷を恐れる朝廷~

世界遺産である平泉中尊寺金色堂に行ってきました。(写真①)

①中尊寺金色堂
ご存知のように、全て金箔を貼った金色堂は、マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で、日本を「黄金の宮殿」がある国、ジパング(Zipangu)として13世紀末にヨーロッパに紹介したそのモデルと言われています。

Japanの語源にもなっている、このZipanguで、日本が「金の国」という幻想は、この時に確立しました。

後の15世紀における大航海時代、コロンブスはコペルニクスが言う地球が丸いということが
本当であれば、「金の国」日本へ行く近道は、マルコポーロのようにアジア大陸の陸路を行くより、海を西周りに行く方であると想定。大航海に出かけ、結果アメリカ大陸を発見することになったのも、この金色堂建立のお蔭と言えるかも知れません。

②写真の中の金色堂の孔雀のあしらわれた
須弥檀に奥州藤原初代の清衡は眠っている
このようにJapanという語源やアメリカ大陸発見等々、世界的視点での色々なきっかけを作った金色堂。この視点からも世界遺産に登録されてしかるべき遺産であると思います。

ただ、これ程世界に影響を与えた金色堂、どうして奥州藤原三代の礎を築いた藤原清衡(きよひら)がこれを建立しようと考えたのかということは、割と知られていないような気がします。
(写真②)

そこで、今回この金色堂建立の経緯を、幾つかのシリーズに渡り描いていきたいと思います。

1.蝦夷(えみし)の国

まずは、有史以後の東北地方を俯瞰してみます。

③8世紀の東北地方状況
現在の岩手県から青森県一帯は蝦夷の国
というのは、初期の東北地方の中央政権に対する反骨精神的なものは、その後の中世の間、一貫した彼らのDNAとなっているように感じますので、そこを見て行きます。

8世紀、桓武天皇の時代。

京の中央政府は、東北地方のまつろわぬ(順わぬ、服わぬ)人々を、蝦夷(えみし)と、未開地の野蛮人を指すような言葉で呼びました。(地図③)

この言葉とは裏腹に、この蝦夷の国の実態は、物産が豊かで、金をはじめとし、名馬・鷹の羽・アザラシの皮など都で珍重されている特産品の産地だったのです。

また、基盤が稲作社会である中央政権とは違い、まだまだ狩猟民族の傾向を残した蝦夷でした。したがって、日常的に弓馬を使い、狩りの生活をしていたので、かなり強い兵士ばかりでした。

このような中、朝廷はこの蝦夷の土地に「城柵」を作り、少しずつ版図を拡げる政策を取ったのです。桓武天皇の頃には地図③にあるように、現在の仙台市の北東に「多賀城」という大きな鎮守府を置き、5万、10万の大軍を送り込んで、蝦夷を制圧しようとしました。(写真④)

しかし、蝦夷の大将 阿弖流為(アテルイ)等の反抗で、なかなか上手く行かず、最後は征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)がこの地を平定するまでに20年以上の時間が掛かるのです。

④東北の鎮守府が置かれた多賀城(仙台)
その後の時代も、中央政権になかなか「まつろわぬ」東北を、「道奥(みちのおく)」と文化が遅れていると見下そうとする傾向が続きます。

ですが、東北地方は、中央政権の喧伝とは裏腹に、かなりの富と優れた人材を蓄えていったことこそが、中尊寺金色堂が世界的に有名なる程の発展につながるのです。

2.安倍氏と清原氏

時は移り、11世紀の平安時代、藤原道長が「望月の欠けたることもなしと思えば」とのたまったピーク時から時既に30年も経つと、少々世は荒れ始め、仏教でいう末法の世となってきました。

宇治の平等院の建立が始まったのも、この頃の京の世相を反映したものです。

これら京の廃退を尻目に、この頃の東北地方は、金や豊富な物産等による力を蓄えてきておりました。ただ、蝦夷は坂上田村麻呂の平定後、陸奥国(現在の福島県のあたり、地図③参照)の拡大地域となっております。

⑤陸奥の国の安倍氏
 出羽の国の清原氏
また、特にこの頃、貴族のボディガード役であった武士団が、中央政権でこそ、貴族には頭が上がらないでいるものの、貴族の居ない地方では、勢力を増長し、東北地方でもその傾向は顕著でした。

この時、東北地方では、陸奥の安倍氏と出羽の清原氏が勢力を拡大していました。(絵⑤)

しかし、朝廷は、このような東北の秘かなエネルギー蓄積を、その情報網で敏感に嗅ぎ取っていたのでしょう。
特に安倍氏の陸奥の国は、8世紀から煮え湯を飲まされ続けた元蝦夷の地。

下手な反骨精神を持たぬよう適度に叩いておく必要を本能的に感じたのだと思います。

3.前九年の役の開始

そこで、朝廷は、貢租を怠っていたことを理由に、1051年に朝廷軍が安倍氏討伐を開始します。ところが、朝廷軍は安倍軍に散々打ち負かされ退却。(鬼切部の戦い)

朝廷は、この討伐軍の将軍を解任。源氏の武将を将軍に任じます。(絵⑥)
その名は 源頼義(よりよし)

⑥源頼義(よりよし)
頼義の息子たち、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)や、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の方が、神格化された源氏の開祖として有名なのですが、実は頼義もかなり出来た人らしく、桓武平氏系の、平将門を滅ぼした平貞盛の嫡流、平直方(たいらのなおかた)という人から武勇を見込まれます。
直方は、自分の娘を貰って欲しいと、嫁がせるだけでなく、鎌倉にあった屋敷や郎党まで付けて渡した程です。

しかし、この話良く考えると、上記源氏の神として神格化された義家や義光は、平家方の母から生まれているのですね。清和源氏・桓武平氏とは云うものの、実態は結構血のつながりが源平入り乱れていると思いませんか?

話を戻します。源頼義は、その優れた武勇を朝廷に見込まれ、陸奥守&鎮守府将軍として、多賀城に赴任してきました。
そして、陸奥国の安倍氏討伐の準備に取り掛かります。

ところが当時、安部氏の首領であった安倍頼良(あべよりよし)は、平身低頭で頼義に恭順の意を示します。
なんと、自分の名と頼義の名の音が同じ「よりよし」では恐れ多いとして、「頼時(よりとき)」に改名してしまうのです。
⑦藤原経清
※抱いているのが清衡
「後三年合戦物語」より
また中央政権の京でも、国母(皇太后)の病気平癒祈願による恩赦で、安倍氏討伐は、停戦状態となりました。

それから5年間平和に過ぎ、陸奥国守の任期が終わる源頼義の送別会を安倍頼時が開いてくれたのですが、送別会後の頼義の陣中が安倍頼時の息子によって荒らされたという事件が起こり、源頼義は安倍頼時に息子を差し出せと要求します。安倍頼時は事実無根と言ってこれを拒否。

すかさず源頼義挙兵、朝廷からも速攻安倍頼時追討の宣旨が下され、停戦解除となりました。

私見ですが、これって言掛りだったのではないでしょうか?朝廷は8世紀の頃より、自分達に従わない蝦夷(安倍頼時)が嫌いなのです。しかもパワーがありますから。

安倍頼時は勿論、そんな中央政権側の事情を良く知っているので源頼義の任期5年間、耐えに耐え、なんとか中央政権の毒牙から逃れようとしたのだと思います。

ところが、逆に安倍頼時を討たずして、武勇に優れた源頼義の任期が終わってしまう、これは大変ということで、朝廷から隠れたミッションを持って誰かが、この言掛り的な頼時追討・停戦解除の名目作りを、頼義の任期完了目前で行ったのではないかと邪推します。

そう考える1つの根拠は、藤原経清(つねきよ)という源頼義陸奥国守の片腕的な存在がいるのですが、源頼義を寝返り、安倍頼時側に付いたことです。(絵⑦)
⑧前九年の役における安倍一族と源頼義一族の関係図
※赤字は源頼義側

文献等では、藤原経清は義理の兄である平永衡(えいひら)が、頼義に裏切りの嫌疑を掛けられ、誅殺されたことから、自分も源頼義に嫌疑を掛けられる可能性があるので、安倍氏側に逃げたとあります。(図⑧)
ただ、その誅殺された義理の兄弟が本当に裏切っていたかどうかも怪しいのです。

藤原経清は、蝦夷の迫害を汚いやり方で推進しようとする朝廷や源頼義に嫌気が差したのではないでしょうか?

ちなみに経清は、この「前九年の役」後の「後三年の役」等で主役的役割を果たし、かつ奥州藤原三代の礎を築いた初代藤原清衡(きよひら)の父親です。(図⑧参照)

清衡は、この前九年・後三年の動乱を生き抜き、平泉を開いて、最後は悟って仏の道を進んだ人であり、そのような立派な人物の父親が、簡単に寝返ったりするとは思えません。余程腹に据えかねる事態があったとすれば、根本はやはり朝廷の蝦夷迫害にあるような気がします。

⑨前九年の役(gregorius.jpより)

1057年、「前九年の役」の戦端が再び開かれました。(図⑨)
勿論、源頼義の陸奥国守は任期延長です。

4.安倍頼時討死

平永衡と藤原経清という二大臣を失った源頼義でしたが、経清の裏切りには腹が立ちます。そこで、津軽地方の安倍頼時の従兄弟を味方に引き入れようと画策し成功します。

⑩安倍貞任(さだとう)
これを知った安倍頼時は焦ります。

自ら従兄弟を説得しようと津軽に向かうのですが、逆に従兄弟の伏兵に遭い、重傷を負い撤退。そして図⑨の中にある鳥海柵にて死亡。

この安倍頼時の討死に、安倍陣営は意気消沈するどころか、頼時の息子・安倍貞任(さだとう)が弔い合戦の勢いで、源頼義殲滅の気炎を上げます。ちなみに安倍貞任は、先にお話をした頼義の送別会時に頼義陣営を荒らしたとして、頼義に引き渡しを言われたその本人です。(絵⑩)

朝廷の横暴に耐えに耐えてきた父・安倍頼時が、自分に嫌疑が掛けられた時には、流石にこれに耐えることはせず、自分を守ることを優先してくれたのです。
そしてその事により、自分の命を落とすこととなってしまった父・安倍頼時。

彼は父親の愛情を強く感じると同時に、朝廷及び源頼義によって殺された父親が不憫でなりません。

おのれ!源頼義!蝦夷の実力を思い知らせてやる!

安倍貞任は、源頼義を返り討ちにするため、兵4000を衣川の屋敷に集結させるのでした。(写真⑪)

5.おわりに

安倍氏を討伐する理由が、税を納めるのが滞っているでは、何か本当に言掛りっぽいですね。

ちょっと思い出したのですが、ずーっと後の時代、豊臣家大阪城を滅ぼすときの、徳川家康の言掛り的理由「国家安康」。
⑪衣川柵にある安倍氏屋敷跡
「屋敷跡」の木碑は根腐れしており
手で支えないと倒れてしまう(笑)
この時、屁理屈付けてでも滅ぼさなければならない真の理由は、大阪城に眠る大量の金。これを徳川家が恐れたのでしょう。

結局、これと同じで、朝廷軍によるこの討伐や、遡って8世紀の蝦夷征伐、もっと言えば、12世紀の源頼朝による奥州征伐、16世紀の秀吉軍による奥州仕置等、東北地方に対する国家権力の態度の裏には、金の産出、毛皮、海産物等の物産で潤う蝦夷の力に対する恐れがあったのかも知れません。

長文お読み頂き、ありがとうございました。