変哲の無い公園でしたが、昔の武蔵野の面影を残す雰囲気を持っていました。王禅寺周辺も最近は閑静な高級住宅街として、人気のあるところですが、昔はこんな寂しい田舎だったのかなと感じます。
ご存知の方は多いと思いますが、お江の周りというか、長男・家光については、春日局等の権力闘争もあって、色々と噂の絶えない状況でした。その一つの噂として、家光2代将軍説というのがあります。
お江は、2代将軍秀忠の正室となり(再再婚ですが)、秀忠との間に、千姫をはじめ、家光、次男・忠長など2男5女をもうけました。噂は、実はこの家光は秀忠・お江の実の子供ではないというものです。家康と春日局の子供ではないか等との話しです。(他にも天海と春日局の子という説等もあります。)
勿論、根も葉も無い話とは思いますが、根拠として以下3つが挙げられているようです。
①日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には、生前家光が使用していた
お守りがあります。そこに「二世ごんげん 二世しょうぐん」と書かれおり
これが、家光は家康の二世の証拠であるとの説。(右の写真)
②お江は女児を多く生んでおり、男児は生まなかったという説。
③家光・忠長の家督争いにて、わざわざ家康が出てきて、お江お気に入り
の忠長を差し置いて、家光を嫡子に指名したこと。
の忠長を差し置いて、家光を嫡子に指名したこと。
これらの話しから、更にエスカレートして、春日局は明智家出身であり、織田家出身のお江を恨んでいた。その結果、「家光」の名前は「家康」の「家」と「明智光秀」の「光」を併せたものだというのもあります。
さらに、秀忠・家光・秀長の3人が江戸城を留守にした状態だった時に、命を落すという不自然さ、さらにさらに、歴代の増上寺に葬られた将軍一門の中で、火葬されたのはお江だけということから、春日局が明智家の織田家に対する復讐心と合間って、お江毒殺説という極端なものもあります。
まあ、歴史は色々と取沙汰されるから面白いのですが...
さて、そこまで想像するのであれば、私も一つ加えさせてください。
前回、秀忠とお江の位牌がある満願寺は、徳川家の菩提寺である増上寺の裏鬼門の位置にある寺と書きましたが、裏鬼門とは、鬼門から入った鬼(悪いもの)が抜ける方向です。つまり、徳川家に悪いものが入ってしまえば、裏鬼門から出て行ってもらうことを祈願する人が居ました。つまりお江は春日局連中に裏鬼門側に追い立てられていたのではないでしょうか?
それは、既に生前から、この土地に化粧料を貰っていることや、満願寺に位牌設置がなされていることから、そのような思いで、対応した人が居たと思うと、なにやらこの公園からの寂しい冬枯れの景色も、激しい歴史の騒がしいかけらを今に残す貴重な場所に思えてきました。
ちょっと、話が行き過ぎているかもしれませんが、更にこの考察は増上寺等を訪問した際に、深堀してみたいと思います。