マイナー・史跡巡り: 中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~

月曜日

中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~

私は、豊臣秀吉の天下統一は、20万の大軍による小田原城攻めの完了により成就したと教育されてきたような気がします。

天下統一を果たす有終の美を飾るため、20万もの大軍による小田原城包囲戦は、毎夜毎夜宴会を開き、美女を沢山連れての物見遊山のような秀吉。豊臣軍は、圧倒的な大軍と供給物量を嵩に、北条軍の精鋭部隊である韮山城、山中城をたった半日程度で陥落します。

そして、小田原城西南約2.7kmの至近距離に、一夜城を築城する等、大軍に付き物の遅滞する行動は全く見られず、むしろ迅速な軍事行動に小田原城北条軍は戦意喪失。
①九戸城本丸にて

この破竹の勢いに、東北の伊達政宗が遅れて参陣するも、秀吉に恭順の意を表し、後は小田原城が落ちれば、秀吉の天下統一は成立すると。

そして小田原城は1590年7月落城。

これにより、日本国内での武家争乱は完了したものの、飽くなき野望を持つ秀吉は、日本国内だけではもの足りんと、中国は明をも攻略する無謀な計画を立てます。

そして、その冊封国(さくほうこく)である李氏朝鮮に服属を強要しましたが、拒まれたため、この明国鎮圧軍をまず朝鮮に差し向ける、歴史で習う朝鮮出兵に向かうと考えていました。

ところが今回、陸奥の国(岩手県)を旅していて、この認識を改めなければいけないことが分かりました。

もう少しこの辺りの日本史を勉強していれば、小田原城落城ではなく、その後の奥州仕置までが、秀吉の天下統一の総仕上げとの認識を持つことは出来たと思います。(反省します。)

しかし、更にその奥州仕置後に、豊臣軍が奥州の北側にある九戸城にて最後の鎮圧行動に出ていたことが分かりました。(写真①

つまり、この九戸城が落城した時こそ、天下統一の総仕上げだったことになるのです。

では、この九戸城鎮圧の経緯を、主に豊臣軍目線で見て行きたいと思います。

1.名馬の産地・奥州

さて、このBlogの前作まで長々と描いてきました鎌倉時代までの奥州王国、その富の源泉が「」と同時に「名馬」もあったと書いてきました。
②陸奥(岩手県北部)の9つの「戸」

この名馬、主に陸奥の国で成育されました。(図②

この時に出来た牧(まき)に、名前が付けられました。それが図②にあります一戸から九戸までと東西南北の四門です。

なので、八戸は中核市として有名ですが、他の数の「戸」が付く土地もあり、これらは名馬の牧の管理戸を表す形の地名だったのです。

これらの「戸」は名馬を生産するだけでなく、その土地、土地の豪族として力を付けて行きます。

源頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼし、奥州王国を滅亡させた後、この合戦で功績のあった南部氏をこの土地に配置します。

南部氏自体は元々甲州(山梨県)の南部、富士宮市のちょっと西、現在の南巨摩郡南部町を所領に持つ河内源氏の一族でした。

甲州ですから、実は南部氏も、後三年合戦で義家へ官職を投げうち駆けつけた、あの新羅三郎義光の子孫として、武田氏と同列なのです。

ただ、武田氏は後々、武田信玄で有名ですが、戦国時代に掛けて、甲州をまとめあげる訳ですから、南部氏がここ甲州に居座れば、いづれは武田氏に吸収合併されていたかもしれません。

2.三戸(さんのへ)と九戸(くのへ)

その南部氏が、勢力を拡大して行ったのが、陸奥の国の中の「三戸」です。ここを中心に、各戸で増長してきた豪族をまとめあげて行くのです。

特に南北朝以降に急激に勢力を拡大して行きます。また、他の戸を抑え、この南部氏と付かづ離れず勢力を拡大した「九戸」の豪族が九戸氏となります。室町幕府からは九戸氏は、南部氏と同列に見なされていたようです。
③九戸政実イメージ
九戸政実プロジェクト『マンガ 九戸政実物語』より

3.九戸政実(くのへまさざね)

この九戸氏の中で16世紀後半、南部氏と奥州北部で勢力拡大を図ってきたのが九戸政実です。(絵③

この人が歴史のメインストリームに浮上してくるのは、この小田原城包囲の戦が終り、秀吉が奥州仕置軍という組織を作った後のこととなります。

九戸政実の乱」というものを起し、また大量の豊臣軍を、わずかな九戸城籠城兵で迎えうつことになるのです。

では、どのような経緯なのか、南部氏との関係から順に見て行きたいと思います。

4.南部信直(なんぶのぶなお)

さて、小田原城の北条氏が、秀吉への抵抗を多少は期待したであろう東北方面の武将たちでしたが、遅参したとは言え、仙台の雄・伊達政宗(だてまさむね)が秀吉に恭順の意を示す形となったことで、ほぼ東北も秀吉に逆らう勢力は無くなり、北条氏の希望も無くなりました。

伊達政宗の遅参は非常に有名ですが、この後、北奥州を代表する形で秀吉へ恭順の意を示したのが南部信直(なんぶのぶなお)という武将です。

実は、この南部信直が、南部氏の当主であるということに、九戸政実を始め、当時の奥州の数多くの武将が不満を持っていました。

④南部家の鎧(10代盛岡藩主のもの)
※盛岡城蔵
お家騒動の感があるので、簡単に説明します。この信直という人は、先代の養子なのです。ところが先代に実子が出来ます。よくあることですが、そうなると養子である信直は疎まれます。ところが先代は、わずか13歳の実子を残し他界するのです。

すると信直、この幼き実子を罠にかけ殺害し、自分が南部氏の当主に返り咲くのです。

なんかワルな感じしませんか(笑)?

どこまで本当に信直が手を下したのかの真相は、まだ闇の中のようです。

しかし、信直は頭の回転が早く優秀なので先代から養子に抜擢されたのですが、その優秀さが北奥州の朴訥な武将の間では狡猾さに見えたのでしょう。

更に信直をワルにみせるのが、小田原城落城後に、秀吉と脈を通じるようになった彼が、秀吉の権威を嵩に着て、北奥州に対する秀吉の圧政の後押しをしたように見えたからです。

ただ、ご存知のように、結局南部氏は、代々盛岡藩や八戸藩等、この北奥州で存続していくのです。(写真④

5.宇都宮仕置・奥州仕置

繰り返しになりますが、小田原征伐が秀吉の天下統一総仕上げだから、示威行動として20万もの大軍を引き連れて来たと、私は勘違いしていました。

⑤小田原城落城後の豊臣軍の行動
そもそもこの20万もの大軍、小田原城の北条氏だけでなく、北関東から奥州まで、広く秀吉が平定するための遠征軍だったのですね。

これらの遠征軍は、この後、宇都宮仕置、奥州仕置という活動を行います。(図⑤)

1590年7月11日に小田原城を落した後の豊臣軍の動きですが、約2週間後の26日には、宇都宮城に入り、東北方面の所領について以下のような裁定を行います。これを宇都宮仕置と言います。(図⑤

「仕置」とは、子供等にする「おしおき」の事なのですね。

南部信直常陸の国(茨城県)佐竹氏は、図⑤にある領土をそのまま安堵します。

しかし、伊達政宗は、かなり厳しい「お仕置き」を秀吉から受けます。

政宗には、この小田原征伐参陣の9か月以上前に、秀吉から1589年11月中に上洛して謁見しないと北条氏と同様に攻め入ると勧告されていました。

しかし、政宗は上洛どころか、その11月に会津(福島県)蘆名(あしな)氏に攻め入り、その一帯を切り取ってしまいます。これで150万石程に所領が膨れ上がっているのですが、以下の理由で、切り取った会津の地は、秀吉お気に入りの武将・蒲生氏郷(がもううじさと)に新封として与え、政宗は72万石まで減封されてしまいます。(写真⑥

【減封理由】

①勧告にも係わらず11月中に上洛しなかったこと
②そもそも蘆名氏領である会津に攻め入ったことは、惣無時令(武将同士の平和条約のようなもの、秀吉の許可なくに相手の領土に攻め入らない等の命令)に反していること
③小田原攻めに遅参したこと

⑥蒲生氏郷と言えばこの甲冑!!
※しかしどうしても佩楯の部分が
テンキーに見えてしまいます(笑)
特に②については、小田原攻めの口実が、真田昌幸名胡桃(なぐるみ)城に北条が攻め入ったのは惣無時令に反しているということから始まったくらいなのですから、政宗は本当は、秀吉に攻め滅ぼされても文句は言えなかったかもしれません。

ただ、政宗は小田原攻めに遅参でも参陣したことで、なんとか首の皮は繋がった訳です。

となれば所領が半分以下にされても、まあ寛大な処置に見えなくもないとも思います。

そして、豊臣軍は政宗の案内で、蒲生氏郷浅野長政奥州仕置軍筆頭とし、宇都宮を出発します。

途中秀吉自身は宇都宮に戻ってしまいますが、奥州仕置軍は8月上旬の暑い盛りに、図⑤の水色の矢印のように、途中抵抗勢力を鎮圧しながら、奥州平泉あたりまでぐるぐるっと巡察行軍を行うのです。そして豊臣軍から代官等を奥州に残し、仕置軍は引き揚げます。

これにより、やっと秀吉の天下統一の総仕上げは完了するのです。

6.石田三成の深慮遠謀策

ここからは石田三成の出番です。戦乱が去ったら去ったで、新たな悩みが秀吉というか、豊臣家の安泰に腐心する三成に発生します。

それは

「天下統一後の経済社会システム

です。

応仁の乱以降、120年以上に渡って国内の戦乱に明け暮れた日本には、武士だけでなく、武器商人やらなんやら戦で生計を立ててきた人々が大量に膨れ上がっているのです。この人たちが天下統一で一気に失業となると、当時の日本経済は崩壊します。

このような天下統一によるハードランディングではなく、なんとかソフトランディングをしなくてはならないという発想及び対策は、三成以外できる武将は居ません。(絵⑦
⑦石田三成

そこで彼が思いついた深慮遠謀策が「朝鮮出兵」なのです。

彼は、この構想を推し進めるにあたり、奥州に対し、以下の2つの対策を練ります。

①寒さの厳しくなる朝鮮半島と同じ様な気候の奥州以北で役に立つ人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること
②奥州以北で戦をすることで、極寒の朝鮮半島での戦の事前演習をすること。

三成は、奥州仕置軍の巡察行軍中、奥州のあちこちで反乱があるのを目の当たりにしています。そこで彼が得た推論は、以下の通りです。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。したがって、圧政を敷けば、かなり規模の大きな反乱がここで発生するのではないだろうか?その鎮圧のために軍を送れば、②が実現するし、更にその時の捕虜等を①にあてがえば良い。」

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官に、かなり厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するように仕向けます。そこで南部信直は、先程述べた通り、この圧政の後押しをするのです。

これらはかなり効果を発揮します。図⑤で反乱を起こした葛西、大崎、和賀、稗貫等の地方から、不満分子が沢山発生し、それらの人々は皆、秀吉に取り込まれた南部氏に対抗する勢力となりうる九戸政実のところに集まるのです。

九戸政実は、九戸城にて戦の準備を開始します。(写真⑧

⑧九戸城展望
これはまさに三成の策にハマりつつあるわけです。

7.「九戸政実の乱」勃発

そして、とうとう小田原征伐の翌年1591年3月に九戸政実は、三戸城の南部信直に対し、本格的な戦闘を開始します。

九戸政実はこの時、この地域では珍しく、鉄砲を沢山所持しておりました。
というのは、出羽(秋田県)との国境あたりの山中に硫黄が採れる場所を隠し持っていたようです。(安部龍太郎氏著「冬を待つ城」から)

硫黄は当時の鉄砲にとって火薬として重要な成分ですから、高く売れるのです。これを売った金で鉄砲を大量に買い込んでいました。

これと名馬の機動力を活かす九戸軍に対して、南部軍は苦戦します。

南部信直は、1か月も持たず音をあげ、秀吉に援軍を要請します。

それから3か月後の7月、会津に居る蒲生氏郷を中心に、討伐軍が編成されます。

その数6万5千

一方、九戸城に集まる反乱分子は5千です。(絵⑨

⑨九戸城へ押し寄せる豊臣軍
※戦国ダンシ「九戸政実物語」より抜粋
続きは、次回描きたいと思います。
長文、ご精読頂き、誠にありがとうございました。

【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内146−7
【盛岡城】岩手県盛岡市内丸1−80