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いなげや② ~弁財天~

前回の話までを要約します。(詳細はここをクリック

畠山重忠と共に源頼朝の麾下(きか)となった稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、以下三郎)は、北条時政の娘を(頼朝の妻・政子の妹たち)をそれぞれ嫁に迎えることになります。三郎は、この時代には珍しい愛妻家で、妻・綾子も三郎にぞっこんです。三郎が平家打倒で西国に行っている間も、三郎の身の上が心配で溜まりません。無事に戻って来た三郎に駆け寄る綾子・・・。しかし、平家討伐後、間もなく今度は奥州藤原氏討伐に向け出発する三郎を、イヤイヤながらも送った綾子は心配で体調を崩すようにになります。

ある朝、彼女が枡形城から、朝靄が立ち込める多摩川方面を見ると、なんとそこには20万の奥州藤原軍が遠望されたのです。(写真①参照、前作写真⑨も参照
①枡形城CG 上奥に多摩川が見える 
綾子は右上の母屋で起居していたと想定
出典:http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/
1.奥州王国の亡霊たち

多摩川の向う側に現れた大軍は、真っ直ぐに多摩川河畔まで突進して来ます。そして河畔に到着すると、渡河出来る場所を探しウロウロし始めるのです。

地図②を見て下さい。枡形城目前の多摩川の辺りは、現在もそうですが、かなりの川幅と水深があります。1974年に決壊した場所(碑)も城の目の前です。(詳細はこちらのBlog参照

現在は稲田堤の大きな橋が多摩川に掛けられていますが、この当時は、軍事防衛上の観点から、わざと橋は掛けていないので、浅瀬を見つけて渡河するしかないのです。(地図②

②枡形城から多摩川を臨む
懸命に渡る場所を探す奥州の軍。最初こそ、その黒黒と押し寄せる軍影に恐怖を感じた綾子でしたが、意外にも段々彼らが不憫に思えてきました。
というのは、枡形城の綾子の位置からは、押し寄せる軍の人々の顔までは分からない筈なのですが、彼女には、何か彼らが泣いているように思えてならないのです。そして、また彼らが統率の取れた奥州の軍勢というよりは、押し寄せて来た亡者たちのような体(てい)、騎馬に乗っているものは誰も居ません。

そのうち彼らが多摩川に渡河に入りました。といっても浅瀬という感じではなく、皆泳いで渡ろうとします。しかし、軍の大半が川半ばまで行ったところで、多摩川の上流から、さーっと巨大な蛇のような影が流れてきて
あっ!
という間に渡河中の軍が、巨大な蛇の影と一緒に下流へと流されたように見えました。(写真③
③枡形城付近の弁天洞窟にある大蛇像(新東京百景)
多摩川は蛇信仰のメッカで狛江市や
枡形城辺りにも蛇信仰の寺社が多い
綾子は、このあっ!と思った瞬間、臥所(ふしど)から起き上がりました。慌てて駆け寄る城の窓から見る多摩川河畔には、今見た軍は全く見当たりません。朝靄の中で、多摩川はいつものようにゆったりと流れていました。

2.今若による夢の見立て

④上:常盤御前、義経(牛若)と一緒に
   平家の追手から雪中を逃げる今若
下:枡形城下の妙楽寺住職となった
今若は悪禅師
とも言われた
綾子はこのような夢を、最初は月に1度程度でしたが、徐々に短い間隔で何度も見るようになります。そして、この夢を見る前後は、必ず熱を出し、「あの人たちに橋を!」と悲痛な声を出しながら、うなされるようになったのです。

1189年に奥州合戦は厨川柵で奥州藤原氏4代目・泰衡の首を木柱に掲げ、頼朝軍の大勝利で終りました。稲毛三郎は、頼朝と共に鎌倉へ帰り、凱旋・褒賞を受けた際、頼朝から以下の名誉ある言葉を貰います。

「三郎、奥州王国の脅威は去った。しかし、蝦夷は独立心の強いさぶろわぬ民であるがゆえ、いつまた再興せぬとも限らぬ。引き続き鎌倉の鬼門である東北方面の備えとして、しっかりと枡形城での守備を続けて欲しい。」
「ははっ、政子殿の妹・綾子殿と枡形城、この三郎、しっかりと守って見せまする。」
「あははは。三郎、相変わらず綾子へのぞっこん度を隠さないお前は芯の優しい武者よの。まあ、奥州からの来襲脅威が消えたばかりの今、そう固くならず、城の守備は当面
麾下に任せ、わしと一緒に上洛し、大将軍の官位授与に付き合ってはくれぬか?それとも、また綾子と離れるのがつらいか?」
「いえいえ、滅相もございません。鎌倉殿が綾子の姉・政子殿と離れるのですから、どうして臣下の私が綾子と離れないでいることができましょうや。上洛のご警護、必ずや承りました。」

このような名誉ある約束までして、気分良く三郎は、綾子が待つ枡形城へ戻ってきました。

枡形城に戻ると、以前平家征伐から帰ってきた時のように、喜び三郎のもとに駆けつけてくると思っていた綾子が、なんと臥所に引きこもったまま、三郎が見舞いに行っても、「三郎殿、あの人たちに橋を!」「橋を!」とうわ言のように繰り返すだけなのです。

驚いた三郎を、枡形城の麓にある妙楽寺の住職・今若(いまわか)が、この件で相談があると申し出てきます。(絵④

今若は、牛若だった義経の実の兄なのです。この時は既に阿野全成(あの ぜんじょう)と名を変えていました。頼朝が鎌倉入りする前に涙の対面(義経と同じですね)をして、これまた政子の妹の徳子(阿波局)を妻として与えられていました。
そして、ここ枡形城の麓、妙楽寺を頼朝から与えられ、徳子と暮らしているのです。(写真⑤
⑤義経の兄・今若が住職をしていた妙楽寺
つまり、徳子は綾子の姉なのです。実は綾子は、最初にあの奥州軍襲来の夢を見てから、これまでに何度も同じ不可解な夢を見ることについて、姉の徳子には時々相談をしていたのでした。
徳子は夫・今若が、京都の醍醐寺で修行した優秀な僧だったことを知っていましたので、今若なら妹・綾子の夢の意味が分かると思い、この話を打ち明けていたのです。
勿論、徳子の話を聞いた今若自身も枡形城の綾子の様子も見に行き、薬師の心得もある彼は、気に効く薬を調合して綾子に与えたりしていたのでした。
⑥妙楽寺の紅葉絨毯

さて稲毛三郎が今若を訪ねると、彼は妙楽寺境内の美しい紅葉の中を三郎と歩き、もみじの絨毯が足下に敷き詰められた腰掛け石に2人で座ります。(写真⑥
そして、静かに話しを始めました。

「三郎、奥州合戦、ご苦労じゃった。」
「今若殿には、私が留守の間、綾子の病気のことで、色々とお世話になりました。私が出陣する前は、病弱とは言え、普通だった綾子が、約1年で帰ってくると別人のような状態にまで悪化していることに驚きを隠しえません。」
「そうか。これはあくまでわしの予見でしかないが、綾子殿は鬼に魅入られているように見える。」
「と申しますと・・・」
「三郎殿、頼朝公が鎌倉を動けなかった理由が分かるか?それは鬼門と裏鬼門、両方に最強の敵がいたからじゃ。つまり鬼門に弟・義経を頭領とする奥州藤原軍、裏鬼門に平宗盛が率いる平家軍。」
「三郎も微力ながら参陣し、両軍とも打ち滅ぼしましたが・・・。」
「いやいや、鬼門と裏鬼門の軍は、滅ぼして終りといかんところが恐ろしいのだ。鬼籍に入っても襲ってくるんじゃよ。奴らは鬼籍に入った自分が見える者を、精神的に殺すのじゃ。」
「ということは、綾子が殺される?」
「そう思うのじゃが、不可解なのは、まだ綾子殿は亡くなってはいない。何かが寸でのところで綾子殿を守っているように見える。」
「それは・・・?」
「弁財天じゃよ。」
「弁財天?」
「古来、この多摩川は暴れ川として有名じゃった。暴れ川の氾濫域は広く、普段は浸水しない河原が発達したことから、蛇の棲息が多かったのじゃ。もう少し上流には、堤防が決壊しそうになった時に、沢山の蛇が決壊直前の堤防のひび割れに頭を突っ込んで決壊を阻止した伝説まである。ここから多摩川を挟んで対岸にある狛江は、昔は高麗(こま)江と言っての。仏教を伝来しに来た朝鮮高麗の人たちが沢山住み着いていた。彼らも多摩川の治水に大陸の治水技術を導入したのだが、一方で多摩川のこの根強い蛇信仰、実は仏教の弁財天の化身と捉え、多摩川のあちこちに弁財天を作ったのじゃ。」
⑦1182年に頼朝が奥州征伐を祈念し
奉納した江島神社の鳥居(江の島)

「それと綾子の病気は関係があるのですか?」
「大いにある。まだ平家も打倒していない1182年に頼朝公が江の島の弁財天に、文覚殿を介して奥州藤原氏の滅亡を祈念したことは聞いておろう。(写真⑦詳細は拙著Blogのこちらを参照

あの時、単に奥州藤原氏の滅亡を祈念しただけではなく、当然鬼門の軍であることから、鬼籍に入った亡霊の奥州軍からも守って欲しいと祈念しているのじゃ。なので弁財天様は多摩川の蛇を使って亡者となった奥州軍を取り除いているのじゃよ。だから綾子殿は直ぐには亡くならなかったわけだ。ただし、どういう訳か奥州の亡者たちに魅入られたとしか思えない発言を綾子殿はうわ言のように繰り返すのじゃ。」
「なんと言うのですか?」
「橋を造れと。多摩川に橋なぞ作ったらそれこそ奥州の亡者どもがなだれを打って鬼門から鎌倉へ攻め入り、主だったものは皆変死してしまう!」
「・・・」
「実は、この件については、綾子殿の父君である時政殿には伝えてある。時政殿は現在、
伊豆の北条の里でゆっくりと過ごされているようなので、この件について、江の島の弁財天に再度どうすれば良いかを聞きに言って貰う手筈となっている。」

3.北条時政の江の島参拝

1190年当時、北条時政は、頼朝の旗揚げ前の領有地北条の里の守山城に、まるで隠居したかのように引っ込んでいます。
前年に願成就院という奥州征伐必勝祈願のための寺を建てたりしていますが、この寺もどちらかというと、北条氏の氏寺として創建されたようなのです。この頃辺りから、かねてから時政の心に秘めた大きな野望が作動しはじめるような気がします。願成就院も名前からすると、それらの野望が叶いますようにという意味で造られたのかも知れません(写真⑧

⑧伊豆の北条の里にある願成就院 ※時政の墓があります
いずれにせよ、時政が色々と伊豆で策謀を練っていたことは事実のようです。

そこに、今若から綾子の病状について書状が届くと、時政は目をくわっと開き、
「これじゃ!これ!」
と叫び、直ぐに江の島の弁財天へ向かいます。
⑨江の島の八臂弁財天

江の島では、1182年に頼朝が奥州王国征伐の祈念に来た時には、写真⑨のような敵調略のために8つの道具を持つ八臂(はっぴ)弁財天だったお姿が、1190年に時政が江の島最南端にある岩屋の洞窟で会った時には、絵⑩の国貞画のように、大蛇のお姿へと変わっておられました。

1182年の頼朝祈念時にも、この弁財天へ参詣したことのある時政が
「お姿が変わられましたな。」
と声を掛けますと

「そなたの娘・綾子を助けるのに、忙しいのです。八臂弁財天の姿でいる暇などはないのですよ。
もうここ3か月以上、毎日数回は多摩川を大蛇となって、渡河しようとする奥州軍の亡者たちを川の中で掃討しているのです。亡者が渡り切ったら、枡形城のあなたの娘・綾子や徳子も亡くなるでしょう。亡者だけにひっきりなしに渡河する数は出るのです。」

弁財天は話しを続けます。

「実は今、西側からも平家の亡者たちが裏鬼門の結界を破って、鎌倉へ向かっております。私はこちらも対応しなければならないとなると、鬼門の多摩川方面は、今までのように手厚くは対応していられなくなります。」
「どうすれば良いのでしょうか?」
「生贄(いけにえ)が必要です。」
「生贄?」
「そうです。亡者の恨みを少しでも晴らすことが、鬼籍軍を霧散させる方法なのです。多分両軍とも頼朝公が生贄になれば即霧散するのでしょうが、それでは私も頼朝公から依頼され、義経を含む奥州軍征伐に成功させた意味が無くなってしまいます。」
「・・・」
時政は考えた。これは暗に弁財天は娘・綾子や徳子を鬼門の奥州軍の亡者たちの生贄にしろと言っているのではないだろうか?
⑩北条時政の前に現れた弁財天
左:歌川国貞 右:月岡芳年
時政は腑に落ちないものを感じ、

「弁財天さま、頼朝公が生贄になれば、鬼門の奥州軍の亡者、これから来る裏鬼門の平家の亡者、全て霧散させることが出来るのですね?」

弁財天は、コクっと頷きます。
⑪これ以後北条家の家紋となるミツウロコ
「時政、この国難、時政を筆頭に、畠山重忠、稲毛三郎重成の元平家の三人で乗り越えるよう・・・。」

それだけ言い残すと弁財天は海へ戻って行きました。

すると、今まで弁財天が居た場所に、3つの鱗が落ちていました。まるで時政・重忠・三郎の3人を象徴するように。(家紋⑪

(つづく)

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。上記内容には一部フィクションが入り混じっておりますのでご了解ください。


次は、鎌倉幕府始まって以来の大軍事演習「富士の巻狩り」での陰謀へと話しは繋がって行きます。

【枡形城】神奈川県川崎市多摩区枡形6-4740
【妙楽寺(あじさい寺)】神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目9−3
【多摩川の弁天洞窟(威光寺)】東京都稲城市矢野口2411 
 ※現在弁天洞窟は崩落の恐れがあるため閉鎖中
【願成就院】静岡県伊豆の国市寺家83-1
【江島神社弁財天】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号