マイナー・史跡巡り: いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~ -->

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いなげや① ~稲毛三郎と枡形城~

いきなりですが、東京近郊の方でしたら、ファミリアな方が多いと思うのですが、スーパーの「いなげや」(写真①

①いなげや
この店舗の名称「いなげや」が川崎の多摩川南岸に所領を持っていた稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)にちなんで付けられたのをご存知でしょうか?

今回から鎌倉時代初期の、この武将の話を取り上げたいと思います。少し大きな話ですので、複数のシリーズにまたがり、お話させてください。
こちらも、私個人の想定も多分に含まれておりますので、あくまで1つの説としてお楽しみ頂ければと存じます。

1.東国の平氏

私の近所に「平」という土地があります。(写真②

②近所にある「平」という地名(稲毛惣社前)
ご存じのように、平氏は「桓武平氏」という流れから来ているのですが、どうやら「平」という姓は、平氏の始祖である桓武天皇が平安京に遷都したことにより、この平安京の頭文字「平」から来ているという説が有力です。

多分そうなのでしょうが、私は平氏の源流に近い平将門(たいらのまさかど)を調査した時に、その拠点にある國王神社拙著Blogはこちら)等のあたり、上総地方(茨城県)の土地の、それはそれは平らなことに驚きました。

北海道にも負けない平らな雄大さを現場で感じ、このような馬が走り回れる環境が、坂東武者が騎馬に長けているという基礎を作ったのだろうと想像しました。(写真③

なので、関東平野の悠大な平さを象徴して「」と付けたような気がしてなりません。

③平将門の拠点となった茨城県
坂東市は「平」で悠大な土地
(出典:@yb_woodstock)
良く「東国の源氏、西国の平氏」のように言われることがあります。


これは、源平合戦の頃の源氏が鎌倉という東国を拠点とし、平氏が厳島神社を守り神とし、福原(兵庫県)のような西国に拠点を築き、最後は山口県下関の壇ノ浦で滅びるためにそう言われるようです。

ただ、それぞれの出自となると、実は全く反対なのです。
つまり「東国の平氏、西国の源氏」なのです。

平氏は、先に述べたように平将門の乱の時の根拠地は、
上総地方(茨城県坂東市)の辺りですし、これを鎮圧した従兄弟の平貞盛(さだもり:清盛の先祖)もその周辺と、坂東武者は大方、平氏出身が多いのです。(詳細は拙著Blog「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」参照

逆に、源氏は河内源氏近江源氏等の呼び方に代表されるように、西国出身なのです。源氏にゆかりの深い石清水八幡宮も京都ですね。(写真④

④石清水八幡宮
※トリップアドバイザー提供

2.秩父平氏と北条時政

さて、今回の稲毛三郎重成、彼は神奈川県横浜市に住む私の近所に拠点を持つのですが、写真②の土地名に代表されるように「平氏」なのです。

そして、これから、この稲毛三郎重成を語るにあたり、出て来る主な人物は1名を除き、全て平氏出身なのです。ちなみに除いた1名とは源頼朝(みなもとのよりとも)、源家そのものです。

稲毛三郎重成は、武蔵野国(埼玉県)に居を構える畠山重忠(はたけやましげただ)とは従兄弟であり、重忠も重成も「秩父平氏」と呼ばれています。

そして、この2人の従兄弟に姉妹を嫁がせた男がいます。

北条時政(ほうじょうときまさ)

そう、彼は自分の娘、政子を頼朝へ嫁がせたことは非常に有名ですね。
つまり、時政は、「源頼朝」「畠山重忠」「稲毛三郎重成」の3人の義父になるのです。

北条時政も平氏の出自であることは有名です。
これで1名の源氏と、3名の平氏のキャスティングは出来ました(笑)。(絵⑤
⑤左上:源頼朝  右上:北条時政
   左下:畠山重忠 右下:稲毛三郎重成
前振りが長くなりましたが、これからこのキャスティングで演出される、愛と陰謀の物語(?)を描いて行きたいと思います。

3.枡形(ますかた)城

この物語の主人公、稲毛三郎重成(以後、三郎)の居城は、多摩川の南側の河岸段丘の上にある枡形城と言います。(写真⑥
⑥枡形城本丸跡
頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、西の平家と並んで意識した仮想敵国が、北は平泉を拠点に20万もの軍を有するとされていた奥州藤原氏であることは、このBlogでも何度も取り上げた通りです。
四方を山に囲まれた鎌倉の土地の構造自体が防衛線となるのですが、これはあくまで第2防衛線です。
第1防衛線は、平家に対しては西の箱根、奥州藤原氏に対しては、ここ多摩川の南側の河岸段丘にある枡形城小沢城等の城々なのです。(写真⑦
⑦北側から鎌倉を攻めて来る奥州王国
に対する第1防衛線として多摩川南岸
丘陵地帯に枡形城等、多くの城を構築
この城に、三郎は北条時政の娘・綾子(仮名)を迎え入れます。同時期に畠山重忠も時政の娘・時子(仮名)を迎え入れます。あの北条政子の妹たちです。

そもそも秩父平氏である畠山重忠や稲毛三郎らは、頼朝挙兵当初は、平家側として、頼朝達と敵対しました。頼朝挙兵に功の大きい三浦義明(みうらよしあき)を討ち滅ぼしたりしたのです。(詳細は拙著Blog「三浦一族③ ~衣笠城落城~」参照

この時、平家軍に負けた頼朝が安房(千葉県房総半島館山)へ逃れ、そこから再起を果たします。東京湾を海岸線沿いにぐるーっと廻り、鎌倉入りを目指すのです。すると徐々に頼朝への参陣が増えていき、今の東京都隅田川の辺りに陣を敷いた時には、頼朝に従う武者の数2万に膨れ上がります。


その勢いに圧されたのでしょうか、畠山重忠・稲毛三郎の秩父平氏は、隅田川の頼朝の元へと参陣し、恭順の意を顕すのです。この時、頼朝も「よか、よか」と妻政子の妹2人を、この2人の妻として渡すのです。

わずか数か月前まで、鎌倉小坪海岸や、三浦半島の衣笠城で激しく頼朝支援軍を討ち滅ぼしていた畠山重忠らが、いとも簡単に投降するだけでも不思議なのに、頼朝も簡単に赦すだけでなく、妻まで与える・・・。不思議過ぎませんか?


何かありますね。絶対。

私の邪推ですが、やはり北条時政?!同じ平氏出身の時政が裏で、重忠や三郎を説き伏せ、また頼朝にも耳打ちし、更には自分の娘2人を彼らに渡す。

何やら策謀の匂いがします。

4.綾子

さて、三郎の枡形城に輿入れて来た綾子。彼女は、姉である政子が男勝りだったことの反動でしょうか、常に「三郎殿、三郎殿」と稲毛三郎重成に寄り添い、何をするにも一緒に居ようとするのです。

そんな彼女を愛おしいと思う三郎。2人は非常に仲睦まじい夫婦になり、廻りからも揶揄される程でした。

ところが、三郎は直ぐに義経に従い、畠山重忠と一緒に、平家討伐へと西国へ駆り出されます。上の写真⑤で馬を担いでいる重忠の銅像は、一の谷の戦いで、他の武将が、自分の愛馬に無理を課して急斜面を降りるのに対して、「馬が可哀想だ。負ぶっておりよう。」という重忠の豪傑振りを現したものですが、この時稲毛三郎も一の谷の戦いに重忠と一緒に参戦していたようです。

この平家討伐の稲毛三郎不在期間中、綾子は三郎が心配で心配で溜まりません。綾子はかなり甘えん坊なのです。そのような性格が三郎にも可愛く映ったのでしょう。

壇ノ浦で勝利し、枡形城へ帰参した三郎の胸元へ、周囲の目も憚らずに、綾子は飛び込んできます。

そして涙目になりながら言います。

⑧枡形城の見事な紅葉
「もし三郎殿が戦死でもしようものなら、私も死んでしまいます。どうかもう2度とこのお城から離れないでください。」
「よしよし、分かった。もう2度と枡形城から出まい。平家が滅亡した今、鎌倉殿(頼朝のこと)にとって一番心配なのは、強い強い奥州の藤原秀衡だ。この城はその奥州藤原軍20万が攻めてきた時に、鎌倉殿を守らなければならない重要な城。わしが離れてはならない城だからな。安心せい。」


◆ ◇ ◆ ◇

ところが、その頼朝自身が、平家殲滅の時には動かなかった鎌倉を、奥州藤原氏を攻め滅ぼす時には動くのです。

そして稲毛三郎にも奥州合戦への参戦を促す書状が届きます。

「綾子、すまぬが行ってくるぞ」
「はい・・・、かならずやご生還を果たしてください。」
という綾子の目には、また涙が一杯溜まっています。

三郎が出陣してからの綾子は、また精神的に不安定な日々を送り続けました。そして幼少から病弱な彼女は、三郎が奥州に出発した日が経つにつれて、徐々に精神的に追いやられ、伏せこむ日が出てきました。

ある朝、彼女は枡形城から、朝靄が立ち込める多摩川方面を見ると、なんとそこには20万の奥州藤原軍が遠望されたのです。(写真⑨
⑨枡形城から多摩川方面を臨む
地平線左に新宿TOCビル、右側に
スカイツリーが分かりますか?
まさに上記写真⑨の枡形城からみた北側方面は、左から新宿のビル軍(群)から右側の東京スカイツリーにかけ、奥州軍20万が展開し、枡形城へと押し掛けてくるように、綾子には見えるのです。

現代とは違って建物など何もない時代ですから、大軍が来れば、この「」な関東平野、直ぐに目につくのでしょう。

長くなりましたので、続きは次回にしたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。