マイナー・史跡巡り: 東北史跡巡り④ ~衣川柵~ -->

水曜日

東北史跡巡り④ ~衣川柵~

東北調査紀行は平泉の中尊寺等、奥州藤原氏の関連史跡を見た後、時代は前後しますが、前九年の役で、源頼義(よりよし)によって滅ぼされた安倍氏の史跡を見て廻りました。(絵①
①衣川柵で安倍貞任(さだとう)を追う源義家(よしいえ)
「マイナー・史跡巡り」で、前九年の役について2話のシリーズで取り上げました。
(シリーズ前半はこちらをクリック、後半はこちら

シリーズ中の登場人物が複雑で分かりづらいというご指摘を多々頂きました(笑)。

このTsure-Tsureは、日本史理解が主眼ではないのですが、やはり分からないより分かった方が読み進めやすいことから、前九年の役の相関図を図②に再掲しておきます。これから読み進める上で人名がこんがらがった時に、この相関図の中に人物名を探してみてください。そうするとグッと中身が分かって面白いですよ。
②前九年の役(1056年~1065年)人物相関図
1.並木屋敷(衣川柵)

さて、平泉中尊寺から車で20分も走ると、並木屋敷(衣川柵)という場所に到着します。相関図①安倍頼時の政庁があった場所です。

奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉に開いた「柳之御所」は前回の紀行文でも掲載しましたが、北上川の岸辺の広大な土地を使った奥州王国に相応しい規模感がありました。(こちらの写真を参照

ところが、これとは対照的に安倍頼時の政庁跡は、殆ど影・形がありません。(写真③
③安倍氏の政庁があった並木屋敷(衣川柵)
ちなみに上の写真で、私が立木を支えているのは、この立木、根本が腐って、この場所でゴロンと倒れていたからです。一生懸命持ち上げて押さえながら写真に納まったものです。愛情を込めて言いますが、流石マイナー史跡ですね(笑)。

ちなみに、この写真左側にある看板の説明を以下に掲載します。(説明看板④
④並木屋敷(衣川柵)の説明看板
正直、この時点の私には、ここに書かれていることが、どういうことなのかさっぱり分かりませんでした。このマイナー史跡が、日本史のメインストリームにどう絡むのかを、私のようなあまり知識の無い人にも分かりやすく説明して頂けると助かるのですが・・・(笑)。

勿論、帰宅後一通りBlogを描くために調査した後である今は分かりますので、解説させてください。

この看板には奥州王国の「前九年の役」で討たれた安倍氏の話と「後三年合戦」で討たれた清原氏の話の2つが1度に書かれています。

まず前半の文章、図②に出て来る安倍頼時、彼の死後は息子の安倍貞任(さだとう)が治めていた18年間、前九年の役で、ここを貞任が撤退しなければならない時まで、政庁だったことが書かれています。

また、看板後半の文章は、前九年の役が終り、安倍氏が滅んだ後、1083年に始まる後三年合戦に入る頃までの20年間、清原氏嫡流の居城だったようです。

図⑤は、後三年合戦に出て来る人物を超簡単に書いたものですが、看板に出て来る清原武則(たけのり)は一番上、前九年の役で最後安倍氏と対立する代表者で、看板に出ている武貞(たけさだ)は、その息子、平泉中尊寺を建立した藤原清衡の継父です。そして、やはり看板に出て来る真衡(さねひら)は、その継父の長男です。
ちなみに後三年合戦では、この真衡、清衡、家衡(いえひら)の3兄弟(清衡だけ父違いですが)が争うのです。(詳細はこちらのシリーズ
ちなみに、2番目の清衡は岩手県江刺市に住んでいました。また家衡は秋田県横手市です。皆バラバラなのですね。
⑤後三年合戦を中心とした人物相関図(再掲)
そして、看板の最後に書かれている衣川柵が安倍氏の時代は必要無かったが、清原氏の時代は必要で、衣川柵と呼んだと書かれていますが、これは結局前九年の役で滅ぼされた安倍氏の残党がまだこの辺りに残っていて、ゲリラ戦等を清原氏に仕掛けてくるため、柵が必要だったと言いたいのだと思います。個人的にはこの記述は、この看板では不要ではないかと思いますが・・・。

かなりややこしい看板ですね(笑)。

2.安倍氏と安倍首相

さて、実はこの前九年の役で滅ぼされてしまった安倍一族、現在の安倍晋三首相と繋がっています。

⑥安倍貞任
と申しますのは、安倍首相ご自身が、2013年7月の参院選で岩手県入りした演説の中で「安倍貞任(さだとう)の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話しています。(絵⑥

安倍首相は、前九年の役の後半の首謀者(前半は貞任の父・頼時であるが戦死)として戦死した貞任の末裔と言っていますが、貞任ではなく兄の宗任(むねとう)の子孫だろうと言う人がいます。(図②参照、ここをクリック

というのは、前九年の役を生き延びた宗任は、役の後、京に連行され、後に伊予(愛媛県)に流されます。安倍首相は山口県の一族ですから、この伊予に流された宗任の子孫の誰かが、長州(山口県)に落ち延び、安倍首相の先祖になったのではないかという説です。

ただ、真相は分かりません。首相が演説で言うのですから、やはり首相安倍家の言い伝えで貞任の末裔なのかもしれません。

貞任は、180cmを越える大柄な体躯の持ち主で、概して東北の蝦夷人は中央の人よりも体躯は大きいようですが、その中でも特に大きかったようです。安倍首相も体大きいですよね。絵⑥で見ると、心なしか表情が安倍首相に似ているような気もします(笑)。

3.戦中における雅(みやび)な句のやりとり

前九年の役で、この衣川柵を攻める源頼義の息子が、源氏伝説のヒーロー、義家(よしいえ)です。

前九年の役の後半戦、頼義・義家は激しくこの衣川柵を攻めたてます。耐えきれなくなった安倍貞任、北の厨川(くりやがわ)柵に向けて、敗走を始めます。

まだ20歳前後の義家、総大将の貞任の逃走に追い縋り、馬上から大音声(おんじょう)で以下の下の句を貞任へ投げかけます。(絵①参照
「衣のたて(館)はほころびにけり」

すると、貞任は、同じく馬上でニッと笑い、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
と上の句を返して来るのです。

義家は驚きます。京の武人の中にも、連歌のような雅(みやび)な振る舞が出来る人は少ないのに、この蝦夷の地で、この戦況の中、機微と優雅さに満ちた武人に会えるとは。(写真⑦ 絵①参照
⑦ねぶたでの貞任と義家の衣川柵追撃シーン
※返り血を浴びた貞任は鬼になります
とても雅な感じの貞任ではないです(笑)
敵味方の2人で作った上下の句を併せると以下のようになります。

年を経し糸の乱れの苦しさに、衣のたて(館)はほころびにけり

衣川の館(たて)衣類の縦(たて)糸をかけて「衣のたてはほころびにけり」と義家は詠んだのですが、それに対して貞任は、組織の乱れと、衣類の乱れが見苦しいとかけて返句したのです。

つまり
「経年劣化で糸が悪くなってくると、衣類はほころんでくるものよ」
と言う表層的な解釈の裏に
「安倍一族という組織も何年も経つと乱れて来て、とうとう衣川柵は今日ほころんでしまった」
という意味深な内容を込めた歌が完成したのです。

流石、安倍首相のご先祖ですね。多分、安倍首相はこの歌を心に刻んで組閣をしていることと思います(笑)。

4.厨川柵(盛岡)へ

さて、見るべきものが少なくても、想像は果てしなく広がる衣川柵の私ですが、既に18時を廻っていました。(写真⑧
さて次にどこに行こうか? 宿すら予約していない弾丸旅行です(笑)。
⑧衣川柵で次は何処に行こうか
考える私(笑)
やはり、貞任が逃げる先、厨川柵だろうと考え、厨川柵がどこにあるのかググります。
すると、それはここから100㎞は離れた盛岡の北側にあることが分かりました。

早速、Webで盛岡市内のシティホテルに予約を入れ、近くのガソリンスタンドで、給油してから東北道を盛岡へと走らせました。

20時過ぎには、盛岡市内のホテルに到着。(写真⑨
その後、じゃじゃ麺を食べに市内に出ますが、その時のじゃじゃ麺のレポートは既に、このBlogに掲載しております。興味のある方はこちらをご笑覧ください。
⑨盛岡市内は「ホテルエース」という
シティホテルに宿泊しました
次回、東北紀行2日目は、前九年と奥州合戦の史跡・厨川柵から始まり、次に一気に戦国末期の九戸城へと時代が飛びます(笑)。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。次回をお楽しみに。