マイナー・史跡巡り: お江の位牌② ~化粧面谷(けわいめんやつ)公園~ -->

月曜日

お江の位牌② ~化粧面谷(けわいめんやつ)公園~

①ミモザが化粧している化粧面谷公園入口
前回、満願寺にてお江の方の位牌についてお話しました。今日はお江の方の化粧料地、王禅寺は五丁目にある化粧面谷(けわいめんやつ)公園に行ってきました。(写真①)

1.お江の化粧料地

変哲の無い公園でしたが、昔の武蔵野の面影を残す雰囲気を持っていました。王禅寺周辺も最近は閑静な高級住宅街として、人気のあるところですが、昔はこんな寂しい田舎だったのかなと感じます。(写真②)
ただ、実はこの寂しい林の中にある「湧き水でお江が化粧をした」という伝承があります。
武蔵野の面影を残す公園内の谷

この公園の看板には、宝暦12年(1762年)の絵図があります。江戸時代の王禅寺村を細かく描かれているのですが、中央部の尾根道の東側に、「けわいめん谷」という小字が書かれています。(図➂)
➂江戸時代の地図にも「けわいめん谷」(赤矢印先
としてこの化粧面谷は載っている(志村家所蔵)

お江が亡くなった後、この辺り一帯・王禅寺村は徳川家の菩提寺・増上寺領となりました。徳川家と関係が深いのですね。

2.秀忠・家光異母兄弟伝承

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、お江の長男・家光については、春日局等の権力闘争もあって、色々と噂の絶えない状況でした。その一つの伝承(俗説)として、
家光は3代目ではなく、秀忠の異母兄弟」というものがあります。
二世ごんげん

お江は、2代将軍秀忠の正室となり(再再婚ですが)、秀忠との間に、千姫をはじめ、家光、次男・忠長など2男5女をもうけました。噂は、実はこの家光は秀忠・お江の実の子供ではないというものです。家康と家光の乳母・春日局の子供ではないかとの説です。(他にも天海と春日局の子という説等もあります。)

勿論、根も葉も無い話とは思いますが、大概こういう説は無根拠ということはありません。以下のようなことを根拠にしているようです。
  1. 日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には、生前家光が使用していたお守りがあります。そこに「二世ごんげん 二世しょうぐん」と書かれおり、これが、家光は家康の二世の証拠であるとの説。(写真➂)
  2. お江は女児を多く生んでおり、男児は生まなかったという説。
  3. 家光・忠長の家督争いにて、わざわざ家康が出てきて、お江お気に入りの忠長を差し置いて、家光を嫡子に指名したこと。
  4. 家光があまりに家康を慕っていたこと。有名なのは、家康が遺言で

    「わが亡骸は久能山に葬れ(写真④)。一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請せよ。八州(関東)の鎮守とならん。」
    (『本朝通鑑』などの記録に基づく)

    と言ったにもかかわらず、あの日光東照宮のきらびやかなこと。勿論、家光の慕情だけであれだけきらびやかにしたのではなく、当時、幕府としての威信を見せつける政治的必要性もあったこともあるとは思いますが。また家光は家康の遺品である枕を大事に愛用していたという伝承も、なんだかお父さんに甘えるわがままっ子みたいでかわいいですね。
④久能山にある家康の墓
※一説には「わが亡骸は久能山に西に向かって立ち姿で葬れ。
幕府を倒す勢力は西から来るだろうから。」と家康が言ったので、
この墓に立ち姿で入棺されているという

これらの話しから、更にエスカレートして、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であり、織田家の血筋であるお江を恨んでいた。その結果、「家光」の名前は「家康」の「家」と「明智光秀」の「光」を併せたものだというのもあります。ちょっと荒唐無稽な領域に入っているような気もしますが。。。

さらに、お江は秀忠・家光・忠長の3人が江戸城を留守にした状態だった時に、命を落すという不自然さ。(これだけの徳川重鎮3人が江戸城にいないのはめずらしい。後水尾天皇の二条城行幸に供奉するため、揃って上洛していた。)

さらにさらに、明智家・春日局は、織田家・お江に対する復讐心と合間って、お江毒殺説という極端なものもあります。

まあ、歴史は色々と取沙汰されるから面白いのですが...
⑤東日本大震災発生2時間前の
化粧面谷(けわいめんやつ)公園

3.江戸城の裏鬼門・化粧面谷(けわいめんやつ)

さて、そこまで想像するのであれば、私も一つ論考を加えさせてください。

前回、秀忠とお江の位牌がある満願寺は、徳川家の菩提寺である増上寺の裏鬼門の位置にある寺と書きましたが、裏鬼門とは、鬼門から入ってきた鬼(悪いもの)が抜ける方向です。

地図⑥を見てください。
⑥お江の化粧料領地・山内は江戸城の裏鬼門


つまり、徳川家に悪いものが入ってしまえば、裏鬼門から出て行ってもらうことを祈願する人が居ました。つまりお江は春日局連中に裏鬼門側に追い立てられていたのではないでしょうか?

お江は家光よりも、次男の忠長を寵愛し、徳川家の家督相続に混乱を引き起こしていた(悪いモノ)にされていたのではないでしょうか?

先にお話をした家光はお江の子供ではなく、家康と春日局との間の子、だから「二世ごんげん」と家光は言った等の噂が立つほどでした。流石にこれはあり得ないとしても、実母が次男・忠長の方を寵愛していてもさして不思議ではありません。それはよくあることですよね。自分の子供の誰を贔屓にするかなどは。

ただ、これは江戸幕府の規範を乱し、春日局等の厳格な乳母からは赦せない行為と見なされた可能性はあります。そして春日局は、家康と相談し、家康が「家督は長男・家光に譲る」と調整に入って一件落着となったのではないでしょうか?

となると春日局との対立から、この悪いモノが出ていく裏鬼門の山内にお江を追いやったのではないか。

そのような思いで、対応した人が居たと思うと、なにやらこの公園からの寂しい冬枯れの景色も、激しい歴史の騒がしいかけらを今に残す貴重な場所に思えてきました。(360°写真⑦)

⑦冬枯れの化粧面谷

ちょっと、話が行き過ぎているかもしれませんが、更にこの考察は増上寺等を訪問した際に、深堀してみたいと思います。

それではまた!

と15年前の東日本大震災の時にこの公園を訪問して上記主旨の仮説を書きましたが、その後の調査で仮説は真反対。また江戸城がお江や家康等、如何に霊に守られた城であるかも調査で分かりましたので、久能山東照宮、増上寺、日枝神社等を至急調査の上、「お江の位牌➂」を執筆予定です。ご期待ください。

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