どうも、玉木造の娘です!(^^)!
今回は私が代筆します。
5月に、奈良&京都に修学旅行に行って来ました!
私も父に似て(?)歴史好きで、特に幕末が、特に新選組が大好きです!
そこで、班別行動の時に新選組ゆかりの地「八木邸」に行って来ました。
ガイド付きだったので私にとってすごく面白いものでした。
八木邸とは、新選組発祥の地で、近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られています。
ここからは新選組の歴史をガイドの内容も含めながらお話したいと思います。
文久二年(1862年)十四代将軍・徳川家茂の上洛の際の警護のため清河八郎の提案により、将軍警護の名目で浪士を募集したところ全部で234名集まりました。
この浪士達は将軍上洛に先駆け文久三年(1863年)京に出発し、2月23日、八木邸からほど近い壬生寺に到着し、ここで清河の演説がありました。
その内容が「我々は将軍警護のためにここまで来たわけではない!尊王攘夷のために来たのだ!」というような事ですので、集まった浪士達は攘夷派ではなかったので大変驚いたでしょうね。
この浪士達は将軍上洛に先駆け文久三年(1863年)京に出発し、2月23日、八木邸からほど近い壬生寺に到着し、ここで清河の演説がありました。
その内容が「我々は将軍警護のためにここまで来たわけではない!尊王攘夷のために来たのだ!」というような事ですので、集まった浪士達は攘夷派ではなかったので大変驚いたでしょうね。
その後、清河の計画を阻止するためにほとんどの浪士達が江戸に戻ることになりましたが、近藤勇や土方歳三らの試衛館派と、芹沢鴨らの水戸派は将軍警護のための京都残留を主張しました。
そして、同年三月、この試衛館派と水戸派、計13名で新選組の前身である壬生浪士組が八木源之烝宅にて結成されました。
この壬生浪士組は京都守護職の松平容保より、主に攘夷派浪士達の取り締まりと市中警備を任されます。
同年八月、八月十八日の政変で壬生浪士組はその働きを大きく評価されます。
これにより、松平容保より新しい隊名新選組を拝命し、八木家長屋門の右柱(左図)に「松平肥後守御預新選組宿」の表札を掲げました。
八木為三郎翁(源之烝三男)の遺談では、「沖田総司だの、原田左之助なんかがその前に立って、がやがや云いながら、しみじみ眺めて喜んでいた」そうです。
しかし、全てが全て上手くいくとは限りません。
問題を起こしたのは当時局長だった芹沢鴨です。
芹沢さんはかなりの問題児だったそうで・・・(;一_一)
芹沢さんが起こした問題をいくつか・・・・・・
①大和屋がお金を貸してくれなかったため大砲を打ち込んだ。(大和屋打ち壊し事件)
②狭い路地でおどけて両手を広げ、道をふさいだ力士を一刀で斬殺。
③呉服屋で買い物をするが代金を払わない。
などなど・・・
この人はやりたいほうだいだったんですね(笑)
③には続きがあり、この呉服屋は催促のために番頭を屯所に行かせます。
もちろん芹沢さんは暴力で追い返すだけで代金を払う訳がありません。
そこで呉服屋は、女ならば暴力も振らないだろうし代金も払ってくれるだろう、と考え、自分の妾であるお梅さんを屯所に行かせます。
このお梅さん、そりゃあまぁたいそうな美人だったそうで・・・
芹沢さんは2.3回お梅さんを追い返しますが、ある日、部屋に連れ込んで手ごめにしてしまったそうです(-∀-`) 本当にやりたいほうだいですね。
さすがに局長といえども、ここまでやってしまっては近藤さんたちも黙っているわけにはいきません。芹沢さんの暗殺計画が始まりました・・・。
このときに使われたのが新選組の局中法度です。これによって粛清された隊士は41人と、倒幕派志士との戦いの時の戦死者6名をはるかに上回っていたそうです。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱ッスルヲ許サズ
一、勝手ニ金策致ス可カラズ
一、勝手ニ訴訟取リ扱ウ可カラズ
一、私ノ闘争ヲ許サズ
右条々相背ク候者ハ 切腹申付ベク候也
この厳しい規則のせいということもあり、人斬り集団と恐れられてしまうようになってしまったんですね(;△;)
話を戻します。計画が実行されたのは1863年9月18日。この日は大雨。
島原遊郭の角屋の座敷を借り、新選組の会合を開いていました。
議論が終わって、芸妓や舞妓と愉快にやっていましたが、島原が総仕舞いになる午後6時頃に芹沢さん、平山五郎、平間重助、土方さんは八木邸に帰って来ました。
八木邸に帰った後も、お梅さんや島原遊女の輪違屋の糸里、桔梗屋の吉栄と一緒に夜更けまで飲んでいたそうです。
土方さんを除く3人はそのまま宴会をしていた間で女を抱いて寝てしまったそうです。それを見届け、土方さんは八木邸を去ります。その際、玄関の障子、門の扉を開けて行きました。
その日の夜、土方さんや沖田さんらは、離れから八木邸の奥座敷に向かいます。
真っ暗な中の戦闘だったようです。一番最初に斬り込んだ人については諸説ありますが「新選組血風録」では沖田さんでしたね。斬り込んだ時に、裸だったので少し躊躇したそうです(笑)
最初の一太刀で飛び起きた芹沢さんは、八木家の奥さんと子供が寝ている隣の部屋に逃げ込もうとします。
もちろん、土方さんらも追いかけます。その時についた刀の傷跡(右図)と芹沢さんがつまずいた文机が今でも残っていました。
当時の物がそのまま残っているのは、すごく不思議な感じがしました。
文机につまづいた芹沢さんは子供たちが寝ている部屋に倒れ込んでしまい、そこで殺害されました。
その時に八木家の子供の足に刀が刺さってしまったそうです。幸い、命に別状はなかったそうですが(;Д;)
お梅さんはその間にこっそりと殺されてしまったそうです。大変な騒ぎだったんでしょうね・・・。
という話をガイドさんがしてくださいました!
とても分かりやすくて、最初は全く興味が無かった友達も、ガイドさんが
「ちょうどその辺りが芹沢さんが殺された所だよ。」と言われたのに感動したらしく、
「すごい面白かったね~」と言ってくれました。
屋敷内を見学し終わった後には、屯所餅&抹茶をいただきました!
この屯所餅。餅って感じでは無くて、お饅頭みたいでした。とってもおいしかったです(∀)!
今回の修学旅行で、新選組ゆかりの地はここしか行けませんでしたが、すごく楽しむことができました。
みなさんも京都に行った時は、是非是非是非!行ってみてください!!!
長くなってしまってすいません(。_。*)
それでは今回はこのへんで(∀)!
そして、同年三月、この試衛館派と水戸派、計13名で新選組の前身である壬生浪士組が八木源之烝宅にて結成されました。
この壬生浪士組は京都守護職の松平容保より、主に攘夷派浪士達の取り締まりと市中警備を任されます。
同年八月、八月十八日の政変で壬生浪士組はその働きを大きく評価されます。
これにより、松平容保より新しい隊名新選組を拝命し、八木家長屋門の右柱(左図)に「松平肥後守御預新選組宿」の表札を掲げました。
八木為三郎翁(源之烝三男)の遺談では、「沖田総司だの、原田左之助なんかがその前に立って、がやがや云いながら、しみじみ眺めて喜んでいた」そうです。
しかし、全てが全て上手くいくとは限りません。
問題を起こしたのは当時局長だった芹沢鴨です。
芹沢さんはかなりの問題児だったそうで・・・(;一_一)
芹沢さんが起こした問題をいくつか・・・・・・
①大和屋がお金を貸してくれなかったため大砲を打ち込んだ。(大和屋打ち壊し事件)
②狭い路地でおどけて両手を広げ、道をふさいだ力士を一刀で斬殺。
③呉服屋で買い物をするが代金を払わない。
などなど・・・
この人はやりたいほうだいだったんですね(笑)
③には続きがあり、この呉服屋は催促のために番頭を屯所に行かせます。
もちろん芹沢さんは暴力で追い返すだけで代金を払う訳がありません。
そこで呉服屋は、女ならば暴力も振らないだろうし代金も払ってくれるだろう、と考え、自分の妾であるお梅さんを屯所に行かせます。
このお梅さん、そりゃあまぁたいそうな美人だったそうで・・・
芹沢さんは2.3回お梅さんを追い返しますが、ある日、部屋に連れ込んで手ごめにしてしまったそうです(-∀-`) 本当にやりたいほうだいですね。
さすがに局長といえども、ここまでやってしまっては近藤さんたちも黙っているわけにはいきません。芹沢さんの暗殺計画が始まりました・・・。
このときに使われたのが新選組の局中法度です。これによって粛清された隊士は41人と、倒幕派志士との戦いの時の戦死者6名をはるかに上回っていたそうです。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱ッスルヲ許サズ
一、勝手ニ金策致ス可カラズ
一、勝手ニ訴訟取リ扱ウ可カラズ
一、私ノ闘争ヲ許サズ
右条々相背ク候者ハ 切腹申付ベク候也
この厳しい規則のせいということもあり、人斬り集団と恐れられてしまうようになってしまったんですね(;△;)
話を戻します。計画が実行されたのは1863年9月18日。この日は大雨。
島原遊郭の角屋の座敷を借り、新選組の会合を開いていました。
議論が終わって、芸妓や舞妓と愉快にやっていましたが、島原が総仕舞いになる午後6時頃に芹沢さん、平山五郎、平間重助、土方さんは八木邸に帰って来ました。
八木邸に帰った後も、お梅さんや島原遊女の輪違屋の糸里、桔梗屋の吉栄と一緒に夜更けまで飲んでいたそうです。
土方さんを除く3人はそのまま宴会をしていた間で女を抱いて寝てしまったそうです。それを見届け、土方さんは八木邸を去ります。その際、玄関の障子、門の扉を開けて行きました。
その日の夜、土方さんや沖田さんらは、離れから八木邸の奥座敷に向かいます。
真っ暗な中の戦闘だったようです。一番最初に斬り込んだ人については諸説ありますが「新選組血風録」では沖田さんでしたね。斬り込んだ時に、裸だったので少し躊躇したそうです(笑)
最初の一太刀で飛び起きた芹沢さんは、八木家の奥さんと子供が寝ている隣の部屋に逃げ込もうとします。
もちろん、土方さんらも追いかけます。その時についた刀の傷跡(右図)と芹沢さんがつまずいた文机が今でも残っていました。
当時の物がそのまま残っているのは、すごく不思議な感じがしました。
文机につまづいた芹沢さんは子供たちが寝ている部屋に倒れ込んでしまい、そこで殺害されました。
その時に八木家の子供の足に刀が刺さってしまったそうです。幸い、命に別状はなかったそうですが(;Д;)
お梅さんはその間にこっそりと殺されてしまったそうです。大変な騒ぎだったんでしょうね・・・。
という話をガイドさんがしてくださいました!
とても分かりやすくて、最初は全く興味が無かった友達も、ガイドさんが
「ちょうどその辺りが芹沢さんが殺された所だよ。」と言われたのに感動したらしく、
「すごい面白かったね~」と言ってくれました。
屋敷内を見学し終わった後には、屯所餅&抹茶をいただきました!
この屯所餅。餅って感じでは無くて、お饅頭みたいでした。とってもおいしかったです(∀)!
今回の修学旅行で、新選組ゆかりの地はここしか行けませんでしたが、すごく楽しむことができました。
みなさんも京都に行った時は、是非是非是非!行ってみてください!!!
長くなってしまってすいません(。_。*)
それでは今回はこのへんで(∀)!
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【八木邸】京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町24