マイナー・史跡巡り: 8月 2012 -->

金曜日

あつい!信州上田城


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夏休み中に、家内に請われ、涼しい軽井沢にて避暑とショッピング(最近軽井沢にはプリンスホテル系の大きなアウトレットがありますね。)に行きました。

しかし、マイナー史跡巡り好きの精神は、標高1,000mはある涼しい軽井沢に安穏としている事を良しとせず、軽井沢から近いという理由で、標高440mのかなり暑い場所にある上田城を見に行かないと気が済まない心境となりました。

上田城に着いて、最初に車から降りた途端に感じたことは、やはり暑い!!夏休みに日本の城を廻ることが多いのですが、どうして城は暑いところにばかりあるのですかね。

さて、このお城、全然マイナーではない、むしろ有名なあの真田氏の城です。真田昌幸、真之・幸村の時代にかなり活躍したお城ですが、残念ながら今は一部しか残っていません。明治になり、必要ないとの事で払い下げられたようです。
このお城、 アニメ映画「サマーウォーズ」の舞台 となって注目を集めたせいもあってか、来訪者に若い人が目立ちました。

アニメで出てくる田舎の家の佇まい(左の写真の門が、その家の門と同じでした)や、コンピューター内のボスキャラをやっつける作戦が、小数の真田軍が大軍勢の徳川軍を撃退したやり方に似ていること等、アイデアの源泉が上田城&真田家のようです。上田市も町おこしの一環としてこれをフューチャーしていたようですが、このアニメ、構想自体が、かなり変形はしていますが、ある意味現代の真田十勇士を狙っているように見えますね。

へー!と思ったのはお隣、小諸城(懐古園)に至っても、小諸を舞台にしたアニメを作成したみたいで、小諸城内にも、かなりそれらのポスターが貼られていました。二匹目の泥鰌になりますかね?

さて、真田氏の頃に話を戻しますが、武田勝頼が信長に攻め込まれ、甲府は新府城(今の韮崎市)から脱出することになりました。

その時、脱出先として、家臣の真田氏と小山田氏が自分の城に逃れるように勧めたのですが、結局勝頼は、真田氏は先代の信玄の頃にやっと従属した豪族だったのに対し、小山田氏は、昔から土地も甲府と関係の深い大月が領国であり、(今でも甲府の方は大月の辺りの事を「郡内の人」と、近隣の人のように言うそうです。)血縁関係も鎌倉時代から続いているため、そちらに落ちて行きました。

結果はご存じの通り、途中で、小山田氏が豹変し、自分の領内には入れないとしたため、勝頼は小数の家族・郎党と、今の笹子トンネルの甲府側の口の辺りをうろうろしているうちに、信長軍が到着、時間切れで自害、武田氏滅亡という悲劇を生みました!

「この時、勝頼が真田昌幸に従っていたらなぁ!」

とこの事実を知った中学生の頃何度、思ったことでしょう。

真田氏は、ご存じのように、小数で大軍を相手して大勝利を収めるのに長けた一族で、これで徳川軍は2回も痛い目にあってます。また、大阪夏の陣で敗色が強い豊臣方にあって、真田幸村だけが、家康の本陣に差し迫り、あわや家康ピンチまで追い込んだ戦術の巧みさを持っています。これらを想えば、武田勝頼の大逆転もありえたかもしれないと変に期待してしまっていた次第です。

さて、上田城での痛快な真田氏の合戦は大きく2つあります。

武田家滅亡時期に、自国に帰った真田昌幸は、このどさくさに紛れて、沼田領の拡大を図り、領土分捕りを行うのですが、これが家康との対立の材料になります。

そこで徳川軍が7,000の兵で攻めてくるのですが、1,200の兵力で迎え撃つ昌幸は、敗退のフリをして、徳川軍を城内に引き入れ、引き入れたところで、散々に打ちのめしました。(死者 徳川1,300名、真田40名)これが第一次上田合戦。

第二次上田合戦は、関ケ原の戦いに向かう徳川秀忠38,000の軍を、昌幸・幸村の2,000の兵で迎え撃ちました。山岳戦に長けた真田軍は、最初からこの4万弱の軍を関ケ原に参戦させないことのみを目的として、ゲリラ戦、だましうち等々、結局秀忠は、関ケ原に間に合わずとなりました。

痛快ですね。そして、幸村が家康を追いかけ回す大阪夏の陣。真田十勇士の話も、この自由奔放に生きた昌幸・幸村の生き様・行動力が基となって出来た話なのだと思います。

ただ、可愛そうなのは、彼らが筋を通した分だけ、苦労した身近の人が居たのです。それは真之(幸村の兄)です。有名な真田家と言えども、ある意味一豪族の粋を出ず、父昌幸と幸村は、徳川嫌いの筋を通しましたが、家の継続という面で、真之は東軍側(家康側)に付きました。

関ケ原後は、この真之がこの上田城に入っていたのですが、秀忠は前述の足止めの件で、相当真田家には恨みがあったのか、真之は上田城入城後、6年後には、長野は松代藩に国替えとなっています。

そして幕末までこの藩で継続したのですから、ある意味、真田家の存続という観点で、幸村以上の偉業をなしえたとも言えるかもしれません。

下の写真、幸村の兜の前面にあるように、真田家の家紋6文銭は三途の川の渡し賃なのだそうですね。

「三途の川の渡し賃は持たせるから、死んだつもりで戦え」との教えなのだそうですが、命を懸けて自分の思うところが出来た彼らに、戦国時代第一級のロマンを感じた人が多いのは頷けます。

今、上田市は、この真田家を主人公とした大河ドラマ制作依頼のための、署名を集めています。

【上田城】長野県上田市二の丸6263−イ

月曜日

子規庵


昨今、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKで2年間に渡り、放映されたお蔭で、つい最近まで、正岡子規についても世間での関心が高まっていたようですね。

私も高校生の頃は、この小説のファンで色々と調べて歩き回りました。

その頃は、3人の主人公であるうちの2人秋山兄弟の陸海軍での活躍ばかりに目が行き勝ちでした。

若くに亡くなり、また詩の世界で有名となった正岡子規にはあまり目が向きませんでした。

しかし、当時若くして、紀貫之をこきおろし、万葉世界を褒め称えて、自分で写生主義を実践して行った生き様を見て、「こいつ絶対血液型B型やな!」と思ったりした事を覚えております。(B型の方、すみません。ちなみに私もB型です。)

さて、前振りが長くなりましたが、今日はこの正岡子規が、東京にて文学活動を繰り広げると同時に、闘病生活の中心となった子規庵を訪問しました。(写真右上)

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鶯谷か日暮里で山手線を降り、根岸というところまで歩きます。

この昔懐かしいサザエさんの家のような佇まいからは想像できないかも知れませんが、廻りはラブホテルだらけで、子供3人連れて行った私としては、少々戸惑いました。

結構歩いて、子規庵に到着しました。
旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋だったもののようで、高級住宅ではなかったようです。
勿論今この土地にこれだけの庭付きの平屋が持てれば、贅沢な話なのですが。

明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進したようです。

間取りは、右の図のようになっています。

上記写真正面8畳の座敷、右側、ヘチマ台が見える奥に左下の写真のような書斎6畳が一つ、この書斎の奥に4畳半の部屋(今は受付になっています)、3畳茶の間(今は展示部屋)とトイレというものでした。

お風呂は付いていません。その当時は銭湯が当たり前だったようです。

この10~12畳の部屋と6~8畳の書斎の間の襖を外して、門弟たちと病床に伏せる子規とは、歌会だ宴会だと盛り上がったようです。

右の写真で、私の家族が記帳している文机も実際に子規が使っていたものです。

右下の写真が中から写したものですが、ここに写っている机の手前が四角く切り取られているのが分かります。

これは子規が脊椎カリエスという病気で、左足を伸ばして座る事が困難であったため、それでも左足を曲げて座って執筆が出来るように、左足がぶつかる部分を切り取ったそうです。

ヘチマ台は、子規が病床からいつも眺めていたもので、辞世の歌もこのヘチマを題材にしています。

「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」

「痰(たん)一斗 糸瓜の水も 間に合はず」  

 「をととひの へちまの水も 取らざりき」

当時、へちまの水は結核に良いとされていたようです。

子規はこれを「まじないみたいなもの」と理性的には信じていないような記録もありますが、やはりどこか藁をもすがるような気持ちがあったのでしょうかね?

最後の歌には、ヘチマの水を信じているような感じがあります。

この一事を見ても、実は子規は、当時の廻りが評価するほど、写生主義一徹に拘っていなかったのではないでしょうか?

「古今集」の代表的な歌人である紀貫之をこきおろし、百人一種の藤原の定家まで馬鹿にした強気ぶりも、ある意味、世間が作った子規の虚像であり、実際の子規は、このヘチマの件を見ても分かる通り、「理だけが全てではない大切なものが人にはある」と信じていた優しい人のような気がします。

今回高校生の娘を筆頭に、子供3人を連れて行ったのですが、子規庵の来訪者は私の年以上の年配者が多かったです。

なので、子規庵の解説者(ボランティア)の方が、若い学生が来たので張り切って色々と説明してくださったので、ラッキーでした。

皆さんもお子様連れで来訪されることをお勧めします。ただし、子供には色々と「お嬢さん、この写真の子規は機嫌がいいと思いますか?それとも悪いですか?」等と質問責めに合い、ちょっと引き気味でしたが・・・

子規庵から日暮里駅に帰る途中に「羽二重団子」を出してくれる茶店があります。

これは「坂の上の雲」にも出てくる子規が大好きだった茶店で、ドラマでも秋山真之役のモックンが、小説に出てくる以下のやり取りを再現していました。


真之「めしがあるかな」
小女(給仕さん)「団子ならありますよ」
真之「鶯横丁はすぐそこじゃな」
小女「半丁ほどむこうです」
真之「正岡子規という人の家があるのが知っておいでか」
小女「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

このお店、こじんまりしておりますが、庭が右上の写真のように大変綺麗に出来ておりました。

羽二重団子と、抹茶を頂きましたが、大変美味しかったです。

子規もこの店の団子は大好きだったようで、彼の「仰臥漫録」の9月4日、亡くなる半月前の記録にも以下の記述があります。

間食 芋坂団子を買来らしむ(これにつき悶着あり)
あん付3本 焼1本を食ふ

多分、悶着は当時、子規を看病していた妹の律さんとの間で、病気なのに大食な子規と揉めたのでしょうね。団子の量多いですよ。1串4団子ですよ。4串は病人の食べる量ではないですね。

これを律さんに買いに行かせたことで揉めたのかな?なんて想像しながら、我々も美味しく頂きました。
ご精読ありがとうございます。

小江戸川越に来て


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今日は、川越市に来ました。

流石、小江戸と言われるだけあって、そのような雰囲気のある蔵が多い街通りは、電柱が全くありません。(写真右)

こうやって、景観を保存している史跡は、結構ありますが、どうも電柱が無い街の景色というのは、個人的には落ち着かないというか、電柱に守られて生活してきたというのか、とても不思議な感じがします。

さて、川越市の小江戸のシンボルと言えば、「時の鐘」ですね。今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝氏によって創建されたようです。(写真右下)

この酒井忠勝という方は、この後、若狭の国の小浜藩主となられる等、つまり親藩の系の方です。

江戸幕府が、長いこと安定政権を続けられた事の一つに、「権力」と「富」の分離化があげられると思います。

例えば、士農工商という仕組みは、士である武士は「権力」を持っていましたが、経済的には豊かではありませんでした。

逆に「権力」としては最下位の商人は「富」を持っていて、武士に貸し付けを行う等、「権力」を持つ者は「富」が少なく、「富」を持つ者は「権力」が少ない という図式です。

また、同じ武士でも、中央幕府で活躍する、いわゆる「権力」を持つ親藩は数万石~十数万国程度の「富」であったのに対し、所謂「外様大名」は例えば加賀百万石とか、薩摩90万石、長州50万石 等「富」は多いが、幕閣での影響力ということでは「権力」は小さいという構図です。

この天才的な社会構造を作った一人が酒井忠勝です。江戸幕府はという、初期の頃に、このような天才的な人材をかなり輩出できた事が、長期政権に繋がったのですね。

今の会社、西洋の王朝等は、ある意味原始的な経済ポリシー、つまり「権力」と「富」は比例関係にあるべきとの考えでできていますね。それが、簡単に王朝の没落に繋がっています。

その点日本の皇室も、質素であり、常に富を有しているのは、天皇配下の臣である構造が、2000年以上継続してきた秘訣だと思います。

日本の会社の人事も、もう少しこの辺りを考慮できないのでしょうかね。

やはり会社存続も30年とか言う会社は、刹那的な利益追求型ですよ。長く存続する会社・組織は、本当の意味での公平さを持ち、その公平さがもたらすモチベーションが組織内に脈々と生きているように思いますね。

小江戸と呼ばれる川越市が、長いこと江戸情緒を保存出来た一つの要因に、やはり酒井忠勝らが最初に築いた、本当の意味でのやさしさ(モチベーション)を保存したいという潜在的意欲の表れではないでしょうか?

仙波東照宮の鬼瓦は強面ですね。(右写真)

封建社会は、表面的には厳しい事が多く、現代に比べて色々な意味で大変だったろうと思います。ただ、川越に来て、江戸時代の日本人の本当の意味でのやさしさとはを考えさせらた一日でした。


【川越時の鐘】埼玉県川越市幸町15−15番地7