深大寺は湧水が豊富 |
私は「水」なのですが、良く東京のパワースポット紹介の中で「水」のパワースポットとして紹介されているのが調布市にある深大寺です。
深大寺に湧ける泉のゆたけきを
我身に来たり立ちて見てをり
斉藤茂吉
ということで今回は、この深大寺に行ってきました。
【※写真はクリックすると拡大します。】
1.湖の中の小島だった深大寺
さて、調布市のこの一角、私はかつて7年間吉祥寺に住んでいたので、実は当時生活圏内でした。
どちらかと言うと、平らなちょっと台地的なこの辺りの地形は、ともするとちょっとした窪地のような構造の場所に直ぐに水が溜まります。
深大寺の周りは縁起絵巻にあるよう湖だった? |
これらの公園は真ん中に大きな池があり、両公園の池から流れ出た水は、神田川となって、東京を流れていきますね。
多分、深大寺の辺りも、同じように窪地になってはいるのでしょう。
ただ、湧水は、先ほど挙げた公園等より多いかもしれません。右上の写真は、水神池からこんこんと湧き出る水ですが、他もあちこちで水が湧き出る様子が見られます。
深大寺の縁起によると、深大寺が出来る前、この土地は全面湖だったようです。(縁起の話からだと、奈良時代のようなのですが。。。)
ある豪族に美しい娘が居て、その娘に恋をした渡来人の男が居たのですが、娘の両親は、その男から引き離そうと、湖の小島に娘を幽閉するのだそうです。
深沙大王を祀った社 |
しかし、そこで引き下がっては恋愛物語は成立しません。男は仏教の水神である深沙大王に祈願したところ、霊亀(古代中国の神話等に登場する怪物の一種とされ、四霊の一つ)が現れ、湖の彼女の元に連れて行って、二人は一緒になったというお話です。
この二人の間に出来た子供が、この寺の開祖満功上人というお坊さんです。両親がこの息子に「お前はいつか偉いお坊さんになって、私達を引き合わせてくれた深沙大王を祀ったお寺を、あの湖の小島に作っておくれ」と言ったようですよ。ちゃんと、偉いお坊さんになって、お寺を建てたところが、この上人の素晴らしいところですね。
深大寺の中に、この深沙大王を祀った社があるのですが、意外とこの場所の観光客は本堂等に比べると少ないです。
ちょっと本堂の場所から離れているからなのかな?
離れている分、なんかこのロマンチックな古代の恋愛を彷彿させる感があって、私はこの社の周りの雰囲気が好きです。
延命観音のある祠 |
2.延命観音
深沙大王の社から、本堂へ向かう途中に、石壁の祠があります。
祠の中には何やら大きな岩があり、その岩の一点に照明が当てられています。
良く見ると観音さまのようなものが彫られてており、横に「延命観音」との文字が見えます。
お寺の解説には、
『昭和41年の秋田県象潟港工事の際、ちょっとした事故がありその処理のため海底の大石を引上げたところ、偶然、何かが彫刻してあるのを見つかりました。後に慈覚大師自刻の延命観音とわかり、縁あって翌年、深大寺に奉安されました。』
とあります。
大石に彫られた延命観音 |
うーん、どんな縁があって深大寺に来たのだろう。
慈覚大師って、円仁(入唐八家 最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人で優秀でありながら、下野して諸国行脚で開山をあちこちでされた偉い御坊様)のことだろうけど、深大寺と何か縁があるのかな?
ちょっとした事故って何だろう?どうして大石に彫刻してあるのだろう?
慈覚大師って、円仁(入唐八家 最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人で優秀でありながら、下野して諸国行脚で開山をあちこちでされた偉い御坊様)のことだろうけど、深大寺と何か縁があるのかな?
ちょっとした事故って何だろう?どうして大石に彫刻してあるのだろう?
と疑問は尽きません。
象潟の海底に沈んでいた岩に刻まれた延命観音。
偉いお坊さんが刻んだ説が有力だけど、この岩は抱き岩であった。抱き岩とは、人を海底等に沈めるときに抱かせて放り込む岩のことだ。
偉いお坊さんが刻んだ説が有力だけど、この岩は抱き岩であった。抱き岩とは、人を海底等に沈めるときに抱かせて放り込む岩のことだ。
境内あちこちから湧水が |
昔、ある男がこの延命観音をこの岩に刻み、一切の苦しみを取り除き楽に死ねるようにと、誰かと一緒に潟に投げ込んだのだ。
何故延命観音を刻んだのか。延命観音は呪詛の害を除き、寿命を延ばす観音という。
実はこの観音像は・・・・
等、色々と妄想しながら、本堂の方に向かいます。
しかし、本当にあちこちから水が湧き出ています。
近くに水生植物園等にも大きな池もあるので、本当にこの一帯、先程の深沙大王の社を小島として大きな湖があったのかもしれませんね。
近くに水生植物園等にも大きな池もあるので、本当にこの一帯、先程の深沙大王の社を小島として大きな湖があったのかもしれませんね。
本堂に着きました。
ここは、本堂の前の山門が有名で、この山門、元禄八年(1695)からのものということで、ざっと319年前の建造物です。江戸時代の建築の中でも、意匠的にも素晴らしい出来の門構えです。
ここは、本堂の前の山門が有名で、この山門、元禄八年(1695)からのものということで、ざっと319年前の建造物です。江戸時代の建築の中でも、意匠的にも素晴らしい出来の門構えです。
また、この時代の深大寺の建造物は全て茅葺屋根だったというのも大きな特徴です。
深大寺の一番有名所というか、門前茶屋から境内に入る入口という要素も手伝ってか、日本人以外にも、沢山の中国人や韓国人の方々が盛んに記念撮影をしていました。
都心から手軽に来られる日本らしい名所としても深大寺は観光スポットとして重宝されているのかもしれませんね。
3.深大寺そば
深大寺の周りの土地は、「はけ」と呼ばれる、地味の低い土地だったので、米の変わりに、やせた土地でも育つ蕎麦の生産が盛んだったようです。
確かに、この辺りは武蔵野関東ローム層が広がる土地で、水はけが悪く、井戸も深く掘らねばならないと、小学生の頃習ったような気がします。
深大寺城址のそば畑 |
今でも深大寺の周辺あちこちに蕎麦畑があります。
また、湧水等の水流を利用してのそば打ちの水車や、綺麗な水を使って打ったそばは、独特の腰のある江戸近郊で摂れるそばとして、江戸時代には、かなり有名になっていたようです。
第3代将軍家光も、鷹狩りの帰りに寄って、このそばを褒めたとの記録もあります。
本堂からみて、深沙大王社の更に奥の坂を登って行くと、深山茶屋という深大寺そばのお店があります。
このお店の辺りは、若干ですが、都心よりは涼しい感じがします。
深大寺内にある深山茶屋 |
行ったときは7月下旬で都内は猛暑日でしたが、この茶屋でエアコンも無い状況でも、それなりに涼しく(?)、深大寺そばを食べることができました。
もし昔本当にこの辺り一面が水没していたような湖だったのなら、地形的に深沙大王の社から、この深山茶屋あたりは小島だったのでしょう。
だとすれば、霊亀に乗ってきた渡来人は、この辺りに隔離されていたであろう美しい娘と感動の再会をしていたのかなあ等と考えながら、深大寺そばを食べる私でした。
いにしえのロマンが沢山詰まった深大寺、是非皆さんいらしてください。
【深大寺】東京都調布市深大寺元町5-15-1】
深大寺そば |