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水曜日

中国大返し① ~宇喜多家の活躍~

「おお、見えてきた!」

中国自動車道の岡山総社ICを降り、東へ三キロ弱戻ると、大きな鳥居が見えてくる。その先に、目指す平らな公園が広がっている。

備中高松城(写真①)

ここは、秀吉が黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛とも。以下、黒田官兵衛)の発案した大作戦「水攻め」を採用し、落としたことで有名な城跡だ。また、この城を包囲中に本能寺の変が起き、「中国大返し」の起点となった場所としても知られている。

今回、秀吉の運命と日本の歴史の転換点であるこの地に立つことで、当時の彼の心境を少しでも味わいたかった。同時に、この水攻めの影の立役者である宇喜多一族についても思いを巡らせたい。それが、今回の史跡巡りの目的である。

①備中・高松城
※中国大返しの起点

1.宇喜多家の命運をかけた戦・備中高松城攻め

ご存じの通り、本能寺の変は、羽柴秀吉が中国・毛利攻めの最中に起きた。

しかも、信長は秀吉からの要請により、援軍として西国へ向かう直前の出来事であった。この毛利攻めから、本能寺の変の弔い合戦へととんぼ返りする秀吉軍の軍略は、黒田官兵衛の策によるところが大きいのは周知の史実だ。しかし、この毛利攻めにおいて、地元である宇喜多一族の活躍が非常に大きかった点も見逃せない。(写真②:沼城の写真)

②沼城(備前亀山城)
※宇喜多の城で大返し時に
一旦ここで毛利の動向を伺う

まずは、この宇喜多の視点から、備中高松城の水攻め、そして中国大返しに至る背景を考察する。

(1)毛利を見限った宇喜多

宇喜多の台頭について書くと、本ブログでも軽く1,2シリーズできてしまうので、今回はあまりルーツには立ち入らない。

③宇喜多直家の木像
※Wikipediaより

宇喜多直家(なおいえ:絵➂)は、主君であった浦上氏の下剋上の機会を虎視眈々と狙っていた。この備前の浦上氏は、隣国である毛利氏(備中)とは常に対立関係にあった。これは、宇喜多にとって、敵(浦上氏)の敵は毛利ということになる。る。

「敵の敵は味方」という諺通り、直家は毛利と手を組み、浦上氏と敵対した。その後、経緯は複雑だが、結果として宇喜多は浦上氏を備前から追放し、名実ともに備前のナンバーワンとなることに成功した。

備前の掌握が成功すると、もはや毛利と手を組む理由は是々非々となった。そこに信長の命を受けた秀吉が中国方面へ侵攻してくる。直家はすかさず毛利を見限り、秀吉を介して信長陣営へと寝返ったのである。

宇喜多直家の信長陣営への鞍替えが早かった理由の一つは、備前の東隣、摂津・播磨で起きた荒木村重の悲劇を間近で見ていたからに他ならない。(絵④)

④荒木村重(歌川国芳)
※Wikipediaより
口に咥えているのは、信長に無理やり
押し込まれた餅

村重は、信長に反旗を翻し毛利を頼ったが、毛利は全く動かなかった。援軍を首を長くして待つ間、信長軍によって村重の家臣やその家族は数百人が火炙りにされ、彼の妻までもが京で斬首されるという悲惨な運命を辿った。これほど陰惨な事態を迎えても、村重は信長に降伏せず、動かない毛利を当てにしたため、家臣の求心力をすべて失ってしまった。最終的に村重は失踪するという最悪の事態を迎えるのである。

この経緯を見れば、直家が「毛利も焼きが回った。なぜ村重を見殺しにしたのか」と考えたのも無理はない。

しかし、長年毛利側につき信長と対峙していた直家は、当初、信長から家臣となることを拒否された。信長からすれば、主家であった浦上氏を裏切り、次に毛利を裏切った直家を信用できないと考えたのだろう。その後、秀吉が間を取り持ったことにより、宇喜多家は以後、秀吉、いや豊臣家に忠誠を尽くすのである。

(2)秀吉出撃の引き金:八浜合戦

秀吉に「自ら中国攻めに出撃しなければならない」と決断させたのが、宇喜多と毛利の大衝突、八浜合戦である。(地図⑤)

⑤八浜合戦の地理的位置等
※出典:ブログ「今日は何の日?徒然日記」図を加工

結論から言えば、この合戦で宇喜多勢は毛利に大敗北を喫した。

この時、強力なリーダーシップを発揮していた宇喜多直家は岡山城で病死しており、本家を継いだ秀家はわずか10歳であった。そのため親族からのサポートが必要であり、その筆頭が宇喜多忠家(直家の異母弟)なのである。

毛利は直家が死去したことを知るや、手を組んでいた村上水軍を岡山沖へ出撃させた。これにより、宇喜多の本拠の目と鼻の先である瀬戸内海地域の制海権を毛利側が掌握したのである。

天正10年(1582年)2月、毛利軍は八浜城方面へ進軍した。

ある朝、馬草刈りをしていた数名の宇喜多兵を、毛利兵数名が追い払おうとしたことから事態はエスカレートした。宇喜多軍が援護兵を出すと、毛利側も応戦。小競り合いは次第に大きな戦へと発展したのである。

毛利側は村上水軍も投入した。村上水軍は、九鬼水軍の鉄甲船には敗れたとはいえ、第一次木津川口の戦いでの活躍からもその強さは明らかであり、宇喜多勢は対抗できなかった。結果、幼い秀家の名代として出陣していた宇喜多基家が戦死するという大敗を喫した。

この八浜合戦における宇喜多の壊滅的な敗北は即座に秀吉に伝えられた。これが、秀吉自身が中国攻めで主体的に備中方面へ動かねばならないと考えた、決定的要因となったのである。

(3)秀吉の備中進行

天正10年3月、秀吉は姫路城を出発し、3万の兵を率いて備中へ進軍を開始した。中旬ごろには、宇喜多の沼城(ぬまじょう)へ入城。そこで16日間滞在し、毛利の防衛ラインの動向を探ったのである。

当時、宇喜多の備前と毛利の備中の境には、毛利軍の7つの城が存在し、これが防衛ラインとなっていた。(図⑥)

⑥毛利軍の防衛ライン「境目七城」

この七城周辺では小競り合いが多発していた。既にこの時点で、備中高松城の北側二つの城(宮路山城、冠山城)は秀吉軍が攻略済みであり、さらに南側の加茂城も秀吉側に寝返っていた。そしていよいよ、水攻めで有名な備中高松城攻めが開始されるのである。

(4)備中・高松城攻め

備中高松城の周囲は低湿地となっており、足守川(あしもりがわ)が氾濫すれば冠水してしまうような平城であった。(写真⑦)

⑦足守川氾濫時(1985年6月)の高松城址水没写真(上)
※下は比較のため14年後の通常時に撮影した高松城址

秀吉はこの城に対し、黒田官兵衛の策である水攻めを採用した。秀吉軍は直ちに城の周囲に堰を築く突貫工事に着手し、約3kmにも及ぶ堤防を12日間で完成させた。

5月に入り、梅雨時でもあったため、堰き止めの効果はすぐに現れ、城は水没状態となった. 食料の搬入が困難となり、城の守備兵5千人の士気は急速に低下した。

布陣図を見ると、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の正面を受け持つのは宇喜多勢であった。(地図⑧)この高松城攻めにおいて、清水宗治と隣国である宇喜多との戦いが主になったのは、宇喜多勢が土地に明るいという理由もある。しかし、八浜合戦での敗北の汚名を雪(そそ)ぐという意味合いも大きかったのだろう。

⑧高松城水攻め布陣図
※蛙ヶ鼻築堤跡看板から

2.本能寺の変

秀吉の巧みな点は、このまま待てば落ちる高松城であるにもかかわらず、信長に対して「御出馬願わないと、サルのみでは手に負えません」と、信長を立てることを忘れなかった点だろう。

無論、高松城の援軍に出てきた小早川隆景吉川元春を合わせた毛利軍は5に上る。(地図⑧の左下側)

一方の秀吉軍は3

⑨高松城水攻め時の秀吉本陣からの眺望
ちょうど正面の寺院のような辺りが高松城辺り

この毛利本隊との決戦となれば、やはり信長御大将の出陣が必要となる。これは単に兵数を増やすためだけではない。信長公のお呼び出し方式であった長篠合戦(呼び出したのは家康だが)とも似た、政治的な思惑があった。秀吉はそれらを想定して、信長へ出馬を促したのだろう。これにより、信長も坂本と丹波に軍拠点を置く明智光秀の軍勢を伴って、秀吉の陣中へ駆けつけるという行動に移ったと思われる。

しかし、安芸の毛利拠点から支援に来た吉川・小早川軍は高松城の南西に布陣したものの、城は既に水没していた。軍事行動を起こすには手遅れであった。

また、実は毛利軍の5万という兵数は、秀吉が自己の実績を大きく見せるため誇張したものであって(『浅野家文書』)、実際には1万程度しか出兵していなかった可能性も指摘されている。

ともあれ、毛利軍は動かず(動けず)、結局、清水宗治の切腹による和睦が成立するまで、わずか17日間で決着がついた。無論、「信長出馬か?」という情報や噂が毛利軍に伝わっており、常勝・信長が来る前にケリをつけて安芸へ帰らねばまずいという危機感はあったのだろう。

しかし、秀吉が信長に出馬を願ったのは、吉川・小早川軍との対決という危機感から、というよりも、まずは信長を立てて機嫌良くさせること、さらには稀代の水攻めによる圧倒的勝利を信長に見せつけたかったのではないだろうか。

この状況で最も辛い立場にあったのは、それに乗せられた明智光秀である。この当時の光秀は、信長の信任がかなり篤かった。これは、京を挟んだ東西の重要地である坂本丹波という二つの地を与えられていることからも窺い知れる。

家康の饗応役で失態を犯したからだとか、金柑頭を欄干に叩きつけられたといった、庶民的な感情に訴える伝承は数多くある。だが、それら全てが、信長の愛情の裏返しを表現した逸話に尾ひれはひれが付いた話ではないかと私は考えている。

しかし、家康の饗応役を外し、信長と一緒に中国攻めに行かせようとした際の「中国は取り放題だが、旧領の二国(近江志賀郡と丹波国)は没収する」という冗談じみた言葉は、光秀にとって行き過ぎた仕打ちであったのかもしれない。

もっとも、この説ですら確たる証拠はない。細川藤孝へ宛てた信長文書を見る限り、光秀には相当な信頼を置いていることが分かることから、やはりこれは俗説ではないかという見方もある。(手紙⑩)

⑩「本能寺の変」直前の織田信長朱印状

《⑩の朱印状訳》

中国地方への進出は来年の秋を予定していたが、この度、備前の児島で敗北した小早川隆景注1]備中高山城注2]籠城。羽柴藤吉郎(秀吉)の軍が包囲しているとの注進があった。
指示次第で出陣できるよう用意せよ。油断せずに用意しておくように。詳細は惟任日向守(明智光秀)に申し伝える。

4月24日 信長[朱印]

  • 注1:児島(八浜合戦)で敗北したのは、先に述べた通り宇喜多であり、小早川ではない。
  • 注2:備中高山城は誤情報、高松城。更に籠城したのは小早川ではなく、清水宗治ら。

前述の手紙の注釈から、この時代に正確な事実(FACT)を把握することが難しかった状況がうかがえるのは興味深い点だ。ここで着目すべきは、この手紙が4月24日に書かれたという事実であると私は考える。

本能寺の変が起きたのは6月2日であるから、この手紙は一か月以上も前に出されたことになる。つまり、中国攻めについては、一か月以上も前から信長と光秀の間で議論されており、光秀も計画を認識していたということになる。

そうなると、「家康の饗応対応に腹を立てた」とか、「急に旧領を召し上げて中国を切り取れと命じられた」といった説は、やはり後世の創作ということにならないだろうか。

兎にも角にも、本能寺の変は起きた。

織田信長の死は、備中高松城の水攻めに膠着していた全軍の運命を一変させた。

本能寺の変について詳しく論じ始めればきりがない。よって、この辺りまでの言及に留め、ここからは秀吉が天下人への道を決定づけた、歴史的な奇跡の機動、「中国大返し」の顛末を追うこととする。

3.大返し開始

明智光秀から毛利へ向けた使者は何度か出されたようだが、それらはすべて秀吉の陣中で捕縛されたという。秀吉らは、この重大な情報を自軍にすら知らせず完全に隠蔽したため、毛利側は、城主・清水宗治の切腹による備中高松城の落城後に初めてそれを知ったというのが通説である。

ただし、ここで疑問が生じるのは、毛利軍の主力は吉川・小早川軍だけではないという点だ。山陽道沿いに使者を走らせるルート以外にも、情報を伝える方法は複数あったはずである。毛利側が本能寺の変を知ったのは、石山本願寺との戦いで共闘した紀州の雑賀衆(さいかしゅう)からもたらされた情報であり、それは6月5日のことであった。

光秀が本能寺の変を起こしたのが6月2日。そこから2~3日の間に毛利側も変事を知れば、秀吉を釘付けにできるだろうという甘い見通しが、光秀の最大の失敗であった。そもそも当時の情報は混乱していたため、光秀といえども、水攻めで6月4日に清水宗治が切腹したという情報を正確に知る由もなかったのだろう。毛利が6月5日に変事を知ったのは、光秀の予測範囲内だったと思われる。

だが、その予測は甘かった。当時の情報伝搬の常識がその程度の速さだとすれば、秀吉はそれを知っていたからこそ、その裏をかき中国大返しで、いわゆる超「速攻」にこだわったのだろう。

先に述べたように、秀吉は自力で落とせる備中高松城を、わざわざ信長を立てるために呼び寄せようとした。信長も秀吉の魂胆が分かっていたのかもしれない。しかし、現代の上司が部下にするように、信長は光秀に中国侵攻がいかに大変かを説いたはずだ。「光秀はプレッシャーが大きければ大きいほど、大きな働きをする」という部下マネジメントの観点からであろう。結果的に信長の判断は正しく、光秀は「本能寺の変」という「大きな働き」をしてしまう。

光秀の性格からして、援軍のための準備は抜かりなくやったに違いない。であれば、援軍を請うた秀吉が、信長無しで2〜3日で備中高松城を落とせるはずがないと考えるのは、光秀にとって当然の判断ではなかっただろうか。結果的に、これが光秀の「甘い判断」予測となった訳だが、後から歴史を知る人だから言えるのであって、光秀の能力不足の問題ではない。

いずれにせよ、既にこの時、秀吉は備前の沼城まで走り抜けていたのである。(写真⑪)

⑪沼城本丸跡
宇喜多秀家の旗印「兒」が沢山立ててある
ちなみに
「兒」は手紙⑩の文中にある児島の
「児」の原字である。

沼城へ到達した秀吉は、ここで一旦停滞している。一応は毛利の追撃の有無を確認したためとされる。

しかし、別の一説では、高松城を水没させた梅雨前線が激しく吹き荒れたため、この城の東側を流れる大河・吉井川が氾濫し、足止めせざるを得なかったというものもある。秀吉は天候を恨みながらこの城に留まったというが、こちらの方が追撃確認説より筋が通っているように思える。

仮に追撃があったとしても、沼城で迎撃するよりも、規模の大きな岡山城の方が堅固である。また、この後一昼夜で辿り着く姫路城は秀吉軍の本拠なのだから、なぜ沼城でぐずぐずする必要があったのか、疑問が残る。

そして、六月八日晴天をもって大返しは再開された。十九里(七六キロ)の道のりをわずか一昼夜で駆け抜け、秀吉は姫路城へ到着。

ここ姫路城で、秀吉はストックしていた食料や金銀を、大返しを成し遂げた兵たちに大盤振る舞いで与えた

それは取りも直さず、この大返しの帰結が秀吉の死活を決めるほどの大きな賭けであったからだ。もし失敗すれば、姫路城の財産など何の意味も持たなくなる、そう判断したのである。

この後の大返しと山崎の戦いは、次回に描きたいと思う。

精読感謝。

【備中・高松城】〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2
【秀吉本陣跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【蛙が鼻築堤跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【沼城(備前亀山城)】〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801
【八浜城】〒706-0221 岡山県玉野市八浜町八浜1062
【岡山城】〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1